生きるために仕方ないこと(2/8)
兄に会うのにオシャレするしないなんかどうでもいいが、横浜から新宿までわざわざ出てきたんだから、外見をもっと気にかけていいはずだった。
けれども、俺はそんなことを指摘せず、他人行儀な挨拶でビアレストランの喫煙席に席を取った。ドトールかマクドナルドで充分なのに、明日香がその店の窓際席を望んだからだ。
おしぼりとソフトドリンクをテーブルに放置したまま、彼女は端的に話し始めた。
いま、[容疑者タカシ]は新宿3丁目の出版社で打ち合わせをしている。それが終わったら、この店の前を通り、駅付近で女と落ち合い、食事を済ませてからホテルに向かうはず――そんな内容だった。
余計な言葉を挟まず、俺は苦味のあるコーヒーを口に含みながら聞き続けた。
明日香は絶望と憤怒の絡み合う色を瞳に湛え、左の頬骨のあたりにファンデーションで隠し切れない百円玉ほどのアザを作っていた。
俺は視線を変えて店内を見渡した。
ビールを飲むにはまだ早い時間で、客とウエイターの数が同じくらいだ。タバコと使い捨てライターをソーサーの横に置き、視聴覚を明日香に戻した。
「ちゃんと聞いてる?」
突然、強い口調が刺さってきた。
瞳がうっすら濡れ、目薬でも挿した感じだ。
「聞いてるよ」と俺。
「今日がチャンスなんだからね。お兄ちゃんじゃないとダメなんだから」
「……俺はお前に付いていくだけでいいんだろ。ま、何かあれば、間に入って助けてやるよ」
言葉は乱暴だが、出来る限りの優しさで向き合った。兄貴だから当然だ。しかし、明日香は憐れみに近い笑みを浮かべて、首を横に振った。
「あたしは、彼が女と落ち合ったら姿を消すわ。それで、大久保のお兄ちゃんの家で待って、あとで結果を教えてもらうから」
俺は自分の耳を疑った。
頭を整理するつもりでタバコに火をつけ、とりあえず、煙を肺に染み込ませた。
二人組のサラリーマンが後ろの席に腰を下ろす。どちらも申し合わせたようにフード付きのコートを着て、同じような鞄を持っていた。
「じゃあ、俺ひとりが尾行するってことか?」
「そう……あたしだとバレるじゃない。お兄ちゃんだけなら大丈夫でしょ」
明日香の言い分は正しかった。おそらくそれが最もリスクの小さい方法だろう。妹の旦那に会っていないことが役立つとは思わなかったが、果たして、役立たせる必要があるのか。肉親の俺じゃなく、女友達にでも頼んでくれた方がありがたかった……しかし、俺が別の案を出したり反論したりすれば、妹は自分の考えを振りかざすにちがいなかった。よく言えば、ブレがない。悪く言えば、頑固。そういう性格だった。
アルミの灰皿にタバコを休ませて、俺は明日香を見つめた。
他人は俺たち兄妹が似ていると言ったが、あまりそう思わない。強いて言えば、一重瞼と切れ長の目元が同じ遺伝子を感じさせたが、濃いめのアイシャドウが幼い頃の面影をなくしていた。
「無理なお願いでごめんね……」
目を伏せた相手に曖昧な返事をして、冷めたコーヒーを胃に流し込む。
それから、明日香はほとんどしゃべらず、たまにケータイで時間を確認しながら、窓の外を眺め続けた。
寒空の下、ファストフードの店員が肩をすくめながらクーポン券を配布し、行き交う人々はそれぞれの目的地へと足を速めていた。
冬支度の街とガラス一枚を隔てた店内は暖房が程よく効き、客のざわめきがだんだん目立つようになっていた。
背後のサラリーマンが、自分の娘のセーラー服が風俗店のコスプレみたいだと笑っている。
いったい、そいつの娘と目の前の明日香のどっちが不幸か、家族を持つそいつとフリーターの俺のどっちが哀しいか……そんなとりとめない考えを巡らせて、俺は[容疑者タカシ]の出現をじっと待った。
(3/8へ続く)
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