生きるために仕方ないこと(3/8)
◇
寝静まった街の中、大久保通り沿いの喫煙所で一息つく。
俺が住んでいた頃、ここは飲食店だったはず。地上げして作った喫煙所なら贅沢な話だが、おそらく、土地の買い手がつくまでの有効活用だろう……いずれにせよ、ニコチン中毒者にはありがたいスペースだ。
一服の前に、鞄からスマホを出してメールチェックする。
日付が変わってから新しい受信はない。
送信も受信も履歴にあるのは同じアドレスだけ。考えてみりゃ、この街に暮らしていた頃、メールのやりとりは明日香だけだった。それが、いまは妻に変わっている。
ライターの火をタバコに移すと、ふと、ジュラルミンケースを円筒形に変えたような吸殻入れが目に留まる。これに特別な名称はあるのか? きっと「公共灰皿」程度のもんだろう。世の中はモノの名前をもっと重視すべきじゃないか――妻が妊娠してから、俺はそんなことを考えるようになった。
タクシーのヘッドライトがまもなく役目を終える感じで、青みがかった車道を駆けていく。
空車は路上の客を見逃さない程度の、実車は始発電車と競うくらいのスピードだ。
通りの向かいにあったファストフードも姿を消していて、拡張した道路で何かのチラシが風に舞う。
韓国料理とかタレントのブロマイドを売る店とか、アジア系の店が増え、この大久保界隈がエネルギッシュになったのは知ってる。しかし、商店はゴーストタウンみたいにシャッターを降ろし、いまは賑やかさのかけらもない。
二本目の煙をくゆらせながら、俺は過ぎた時間を勘定する。
干支がちょうど一巡り……十二年と言えば長いが、生きてきた実感は意外に短い。
ひとりぼっちで場当たり的。20代は光明のない毎日だった。新卒入社した広告代理店の倒産でプータローになり……自由気ままと言えば聞こえはいいが、ただただ、海図も羅針盤もない漂流生活だった。
カメラマン話(ばなし)はその頃のことだ。
あの晩、明日香の推察どおり、[容疑者タカシ]は俺たちの前に姿を現した。
黒革のコートにカーゴパンツという出で立ちで、実際の年齢から10か15も引いた感じだったな。スリムな体型で、新橋あたりにいる中年サラリーマンとは別の人種だった。
そして、やはり明日香の読みが当たり、「黒革のコート」は東口のアルタ前で女と落ち合った。
「見失わないでね」と、明日香は一言だけ残して雑踏の中に消えた。別れ際、彼女がどんな目をしていたか、俺は覚えていない。きっと、怒りとか哀しみとか、いろんな感情を浮かべていたはずだ。いや、意外に、悟りの境地で冷静だったかもしれないな。とにかく、妹に甘い俺はターゲットの男を追いかけるのに必死になった。
高校の入学試験より、自動車学校の路上教習より心臓がバクバクしたっけな。
しばらくは、容疑者二人の背中しか見えなかったが、待ち合わせの雰囲気や肩を並べて歩く様から、奴らが相応の男女関係にあることは想像できた。
女はウェーブのある茶髪を肩甲骨まで伸ばし、ファーの付いた紫のダウンジャケットを着ていた。ミニスカートにラメ入りのストッキングで、明日香に比べてずっと大人っぽい雰囲気だ。
ビックカメラの角を左に曲がり、靖国通りに出ると、赤信号が俺たち三人の足を止めた。
19時を回った新宿は、居酒屋の看板が一日の最大の稼ぎ時とばかりにえげつない光を放ち、空から観察すれば、無数の人影が建物に吸い込まれていくのが見えただろう。
ターゲットから3メートルくらいの距離をキープして「区役所通り」に入り、何人かの客引きに呼びかけられながら100メートルほど進むと、繁華街の喧騒が落ち着き、通行人もまばらになった。
そうして、尾行の間隔を少し多めに取り、探偵もどきの行動に不安を覚え始めたとき、奴らは雑居ビルの店に入っていった。白木の引き戸を扉にした和食店だ。提灯に筆文字で[ふぐ・刺身料理]とあり、建物内のスナックやショットバーの看板と不釣り合いな外観だった。
(4/8へ続く)
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