短篇小説「生きるために仕方ないこと」
トオルKOTAK
生きるために仕方ないこと(1/8)
歌舞伎町のバカでかいカラオケ屋で始発時間まで粘り、上司や同僚と別れてから、俺は新宿駅と逆方面に向かう。
背中越しに、「よいお年を!」なんて言われたけど、振り返らず、手を上げた挨拶だけで歩き出す。
職安通りと大久保通りを結ぶ細道でラブホテルの看板を数えたが、昔よりずいぶん減ったな。
転職のタイミングで引っ越すまで、俺はこの街で暮らしていた。
朝帰りの前にちょっと寄り道してみるか――カラオケ屋で幹事が会計している間に思いついた[懐かしの場所]散策。
出産を控えた妻が実家に帰っているから、慌てて自宅に戻る必要もない。
年内最終日の仕事を終えたうえ、やたら長い宴席で体は疲れきってはいるものの、酒の飲めない俺は、これから仕事場に向かうサラリーマンみたいに脳が覚醒している。
自動販売機の照明を道案内にした路上で、ホテルから出てきたカップルを見かけた。
男の1メートル後ろで、うつむき加減の女が顔をこわばらせている。暗がりがネガティブな空気感を際立たせていく。
朝陽はまだアスファルトを照らさず、師走の尖った風が頬にあたると、俺はこの街での出来事を思い出した。
妹の明日香が、30も年上の男と籍を入れていた頃の話だ。
「お兄ちゃん、いま話してもいい?」
昼近くの電話で、久しぶりに聞く声は、急に歳をとったみたいに落ち着きはらい、短い言葉にめいっぱいの決意を込めた感じだった。
寝起きな俺は「ああ」とだけ答え、面倒な話だったら日を改めてほしいと密かに思った。
当時は預金通帳の残高数字も減り、定職をいよいよ探し始めた頃で、しかも、ちょうど面接の結果待ちだったから、神経がナーバスになっていたんだ。
「……タカちゃんのことなんだけど」と明日香。
俺は仕方なくベッドから体を起こして、耳を傾けた。
妹の旦那の「タカシ」という男は、50ちょい過ぎのフリーカメラマンで、お月さんなんかの写真を撮っていた。前に明日香が「彼の作品だよ!」ってメールに添付してきたのは、半月に薄雲が乗っかったヤツで、俺には価値が分からなかった。兎が餅つきしてる満月の方がよっぽどマシじゃねぇかって思ったけど、「いいじゃん!」って感想を送ってやったよ。それで明日香が喜ぶなら、ウソも方便だ。
俺はタカシって奴を見たこともなかったし、会うつもりもなかった。だから、妹の話から姿を想像していた程度だった。
「女がいるみたいなの」
無理に丸みを持たせた声で、まるで他人の噂話を聞かせるみたいに明日香は続けた。
「なんでだよ?」と俺。
明日香は「何が理由だよ?」という意味に勘違いして、「あたしに飽きたからでしょ」と、自分を突き放す口ぶりで答えた。聞きたかったのは「なんで浮気が分かるんだよ?」だったんだけどな……。
俺はケータイを肩と顎で挟み、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した後で、ソファに腰かけた。ソファと言っても、場末の探偵事務所にあるみたいな、角からスポンジがはみ出た代物だ。
「いつからだよ?」
「分からないわ。それに、一人じゃないかも」
乾いた喉を冷たい水で湿らせて、おとなしく聞くことにした。長電話は料金がバカにならないんじゃないかとヒヤヒヤしながら。
それから、明日香は「状況証拠」を俺に語り、浮気現場を押さえるのを手伝ってほしいと申し出た。
窓ガラスがトラックの走行を伝える以外は何の物音もなかった。ケータイごしの声だけ。運動会にもってこいの秋晴れの空が窓枠いっぱいに拡がっていたが、俺の頭には重たい雲が被さった。
何の因果で、妹の旦那の浮気相手を突き止めなきゃいけないのか……しかも、俺より30近く年上のオッサンだ。
興信所か私立探偵に頼んだらどうだ?――喉元まで出た提案を隠して無言を貫いた。明日香が使える金なんてたかが知れてるし、無職な俺が援助できるはずもなかったからな。
それで、「容疑者タカシ」を妹と一緒に尾行する展開になったんだが、待ち合わせ場所にやってきた明日香を見た瞬間、これから訪れる時間が負の力で俺をねじ伏せてくる予感がした。
……ほら、ホラー映画にあるだろ。封印された扉をこじ開けようとする主人公に「開けちゃダメだ!」って観客が心で叫ぶパターン。
チープなニット帽を目深に被り、黒のピーコートにチノパンの明日香は、近所の女友達に着の身着のまま会いに来た高校生みたいだった。一年ぶりに見る容姿は体全体がちっちゃくなって、メイクもひどく冴えない。入籍してまだ半年だから、フツーは「幸せオーラ」満載なのに、大切な人と死に別れた未亡人か、悪霊に取り憑かれた女みたいだった。
(2/8へ続く)
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