第29話 昔から変わっていない。
「それで、どうしましたか、専務理事?」
璃々院理事と二人で残された会議室。
和人は出来る限り丁寧に訊ねた。
この人は、現段階では敵ではない。
先ほどのやりとりからも、きわめて常識人、分別のある人だと理解した。
「…………」
専務理事はじっと、彼を見つめている。
「? 専務理事?」
和人は訝しげにもう一度訪ねる。
「……やっぱり、覚えていないようですね?」
にっこりと、優しげな笑みを浮かべる専務理事。
「前にお会いしましたか? 申し訳ありません、こちらに赴任して、一応一通りの方のお顔は確認して、覚えているはずですが記憶にありません」
「いいえ、今年の話ではありませんよ?」
「……はい?」
和人は、彼女が何が言いたいのか分からなかった。
自分は彼女に会ったことがあるようだ。
だが、記憶にも自信がある彼も、全く覚えてはいなかった。
本当に覚えていないものか?
この、優しげな笑みの、上品な老人。
いや、全く覚えが──。
「いや?」
和人はしげしげと専務理事を見る。
専務理事はそれに応え、にっこりと微笑む。
璃々院、白髪の老人、豪華な屋敷。
「あっ!」
和人は全てがつながった。
それは必死に忘れ去った忌まわしき記憶。
記憶の奥底に押し込んで、なかったことにしたかった記憶。
そうだ、この人は、和人を拉致監禁した少女の、祖母だ。
「思い出しましたか、和ちゃん?」
和人はいつもいじめられていた時、この人に助けを求めれば彼女を叱ってくれたのだ。
だから、和人は彼女から逃げたいときは、この人のそばにいたのだ。
「思い出しました。申し訳ありません、彼女とも名前で呼び合っていて、苗字もうろ覚えだったので」
「そうですわね、子供には璃々院、なんていう名前は難しいですし、あの子もあの頃、自分の苗字が言えたか疑わしいですわね」
上品に微笑む、専務理事。
そうか、思いだした。
自分が昔、遊んでいた女の子は確か「さやちゃん」だった。
そのありきたりな名前から、「璃々院沙也」を思い出すことはなかった。
何しろ苗字のインパクトがあまりにも大きいのだ。
「その後、お元気でしたか?」
「はい、すぐに留学のためにアメリカに渡りましたが、勉強に集中できる環境でしたので、この通り、去年、大学院を卒業することが出来ました」
「それはよかったですわ。あの子のことで、人生が狂ってしまっては、悲しいですから」
少し憂うような表情の専務理事。
そうか、実は理事長が必死に頑張って和人を採用したのではない。
承認する側の専務理事も、実は採用に前向きだったのだ。
その結果、自分はここにいる。
これはもう奇跡に近い事だろう。
「麻流山外務大臣のご令嬢とも仲良くされているようで、安心しましたわ。あのままあなたが女性不信にならなくて」
「いえ、大丈夫です」
そうではない、和人は長年あの事件のせいで女性が苦手になり、だから葉奈の彼女自身は無意識の『
ここに来て少しずつは女の子に慣れては来たが、まだ完全に解消したわけではない。
いや、今それよりも聞き捨てならないことを聞いた気がする。
「……麻流山外務大臣……? え? まさか?」
確かに、今の日本の外務大臣は麻流山なんとか言ったのは、知識として知っている。
三世議員であり、祖父は首相、父も当時の大蔵大臣を経験し、彼自身、次々世代の首相候補の筆頭ともいえる、若手政治家のホープだ。
若手、と言っても四十代であり、簡単に言えば、ちょうど映魅の父の年齢ともいえる。
どうして気づかなかったのか、と言われると、あの映魅とエリート議員である麻流山大臣がどうしても結びつかなかったという、単純な問題だ。
あの、自由な女の子である映魅の父が、将来を嘱望されている外務大臣?
誰がそんなことを考える?
だが、そう考えると、沙也が存在を知りつつも手を出さなかった理由が分かる。
自分がバックの力で人より優位に立っているのだから、それが通用しない人間というのも理解していたのだ。
「あら、ご存知ありませんでしたの?」
「はい、向こうから来て、いつの間にか付き合っていたので……」
ここは茶海女学院の高等部。
名家の子女が通う、伝統ある学校だ。
その在来組というのは、そういうことなのだろう。
冷静に考えると、素性も知らずつき合えと言われて可愛かったからつき合う、というのも恐ろしい場所だ。
いや、今は映魅のことはいい。
ついさっき彼女にした理深と、おそらく一番昔に無理やり彼女になった沙也のことを何とかする必要がある。
「沙也ちゃんは元気ですか? 実はまだ会ってないのですが」
「そう、ねえ、元気は元気なのだけれど……」
困ったように微笑む専務理事。
「年頃になれば、あのわがままな子も少しはましになると思っていましたが、今でもわがままなようで……」
「そうですか……」
穏やかな女性。
この人が沙也の悪行を許すとは思えない。
おそらく、彼女は噂として流れてくるものだけを知っていて、その詳細までは知らないのだろう。
だから困った孫だが、可愛くて微笑ましい、などと思っているに違いない。
だが、実際の沙也はその度を超している。
それを彼女にどう知らせればいいだろうか。
直接的に言っても聞いてくれるかどうか分からない。
何故なら、これまで誰も彼女に言って来なかったわけじゃないだろう。
「私の聞いたところによると、彼女は生徒内でもあまり評判がよくないようですね」
「そうですか……私もきちんと叱れればいいのですが……あの子、私の前ではとてもいい子なので」
よくある話だ。
自分が誰の力で、他の人間を見下すことが出来るのかを知っている子供は、その人の前ではいい子でいる。
だから、親はそれをなかなか叱る機会がない。
人から聞いて叱るだけでは、あまり効果がない。
何しろ子供は、そうすると、今度はそう告げ口した奴をまず懲らしめるからだ。
そんなとき、親がよくするのは、隠れてその様子を眺めて、いきなりそこに出て行って叱る、という行為だ。
だが、この専務理事を部室まで連れて行くのも結構大変だ、忙しい人でもあるだろう、ずっと待機させておくわけにはいかない。
それならば、現代の最新機器を使えるだろうか。
「専務理事、携帯はスマートフォンをお持ちですか?」
「はい? ええ、そうですわね。娘に勧められて買いました。基本的なことは使えますが、電話とメールしか使っておりませんわ」
「そうですか、よかった。それならそれに、一つだけアプリを入れてID登録して、私とID交換しましょう」
不思議そうに彼を見る専務理事。
「つまりですね、専務理事は沙也ちゃんがわがままにしているところに踏み込んで叱りたいけれど、いつも張り込んでいる時間はないから困っている、ということでしょう。でしたら、私がその代わりをします」
説明はしたものの、まだよく分かっていない彼女に、和人は丁寧に説明する。
和人の提案はこうだ。
スマートフォンのアプリで、チャットや電話、テレビ電話も出来るソーシャルアプリがある。
それを使って、ここだという時に和人が専務理事にそれをつないで、専務理事がそれを見る。
場合によっては発言してその場で叱る。
そうすることで、沙也が全面的に自分の味方だと思っている彼女が、和人の味方側になる。
和人からすれば、専務理事のための提案、というよりも、自分のための切り札だ。
何とか納得してもらい、アプリの設定をして、また家に遊びに行くと約束をして専務理事と別れた。
外に出ると、理深は既にいなかったので、事務室へと戻った。
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