第28話 助けて!

「それで、あの坊やは解雇になりましたの?」


 陽佳という椅子の上に座る、沙也が、引き立てられた理深に聞いた。


「いえ、その……今は……」

「今は、ということは、解雇になっていないということですの?」

「…………」


 理深は、何も答えられない。

 何しろ、自分が既に井尾先生の彼女になっている、なんて知ったら、彼女がどんな顔をするか、恐ろしくて想像も出来ないからだ。


「……残念ですわ。あなたはまた、わたくしを裏切りますのね……」

「っ!」


 裏切り、といえば、自分のやったことは完全な裏切りだ。

 だが、彼女の言う裏切りはやってはいない、何しろ彼女の祖母に自分の体験を切々と語り、同情をもらっているのだ。


「部長ぉ、裏切り者はぁ、さっさと、やっちゃいましょぉよぉ」


 綺夏が、沙也の前に何かを持ってくる。

 理深にもこれ見よがしに見えるように掲げる。


「……!」


 それは、バリカンだった。

 バリカンは毛を刈る道具である。

 そんな事は理深でも知っている。

 ただ、羊の毛刈りや、もしくは男性が刈り上げをするときに使うような、つまりは髪の長さをミリ単位にするための道具であり、それを自分の身体に使うことはないし、使ったこともない。

 そんな物を前にして、冷静でいられるはずはない。


「そんな顔をしないで。落ち着いて?」


 恐怖に顔が歪む理深に優しくキスをする沙也。


「わたくしは、あなたが人前でスキンヘッド、と言うんですの? そんな恰好で歩いてあなたを辱める真似はもうしたくないですわ? そんなことをしても、あなたの心がわたくしから離れて行くのはもう分かっておりますもの……」


 小さな憂い顔。

 ああ、この人は自分が全裸で土下座してから、自分の心が離れたことを、ずっと気にしていたのだ。

 それならば、もう、髪を刈るなどとは言わないのではないか?

 そんな、甘い考えが、頭を過った時。


「そうなのよぉ? 部長ってほんっとうにぃ甘いからぁ。私も助言してぇ、減刑っていうのぉ? それを一緒に考えてあげたのよぉ」


 満面の笑みの綺夏。

 嫌な予感がする。

 沙也が温情を与えてくれることは、椅子として見ていて、結構あった。

 それに対して、綺夏が「減刑」ということもまた、よく見ていた。

 それは沙也がもう許すと言っているのに、何とか刑を継続させるためのもので、場合によっては元の刑よりも過酷なものになった事もある。


「あなたの髪をもらう、というお約束になっていたからには、それはいただきますわ。でも、わたくしはそれでウィッグを作って、あなたにお貸しようと思いますの。つまり、あなたはそのままの姿でいられますのよ?」


 温情のように見えて、何の救いもない言葉。

 毛を刈られ、スキンヘッドになることは一切変わりはない。

 だが、人前ではずっと何事もなかったかのようにしていられる、というだけだ。

 違う、自分は姿なんてどうでもいい、この髪が、命より大切なだけなのだ。


「でもぉ、髪が伸びてきたらぁ、どうしてもぉ、蒸れてくるかなってぇ、思うからぁ。私がぁ、名案をぉ思いついたんだぁ」


 まだあるのか。

 この上、まだ何かしようというのか。


「だからぁ、夜恋さんはぁ、ずっとスキンヘッドのままでぇ、毎日ぃ、剃ってもらうのぉ。それでぇ、放課後ぉ、ウィッグを部長に返してぇ、この部室内ではぁ、ずっとスキンヘッドでいるの」


 何を。

 何を言っているのだ、この外道は。

 何がしたいのだ、この悪魔は。


「わたくし、大学に入りましても茶海女学院大学で、同じ部を作ろうと思いますの。ですから、理深さんも推薦でそちらに入っていただいて、また活動を続けてもらえれば、大学でもウィッグをお貸できますわ。それ以降には、わたくしは祖母の財団の職員になる予定ですが、理深さんもご一緒に来ていただければ、素敵ですわ」


 地面が、なくなるような、感覚。

 ああ、今、自分が感じているのは、絶望だ。

 これが絶望というものなのか。

 高校時代だけだと思いこんでいた。

 これを乗り切れば、彼女たちからは逃げられると思っていた。

 だが、今ここで、髪を刈られては、一生自分はこの沙也の下で過ごさなければならない。

 もちろん、百合である彼女の下にいては、恋なんて出来ないし、結婚も無理だろう。


 そう、自分は一生、彼女に本来自分のものであるウィッグを借りて生きて行かなければならないのだ。

 一生、彼女の呪縛からは逃れられないのだ。


「い……や……」


 もう、耐えられない。

 もう、嫌だ。

 もう、逃げたい。


「さぁ、もう、さっさとぉ、刈っちゃいましょうかぁ」


 覚悟も拒絶も考える間もなく、綺夏がバリカンの電源を入れる。

 ブォーン、と音を立てるバリカン。


「いやっ、やめてっ!」


 理深は必死に暴れる。


「あっ」

「きゃっ!」


 理深の命がけの必死さは、二人がかりでも押さえ切れない。


「しょうがないなぁ、みんなもぉ、手伝ってぇ?」


 綺夏が他の部員に呼びかける。

 だが、流石にみんな、女の子の髪を剃ってスキンヘッドにする、という残酷な仕打ちに参加したくはなかった。


「あれぇー? みんなぁ、夜恋さんの前に丸坊主になりたいのかなぁ?」


 綺夏が、バリカンを持ったまま、彼女たちの方に歩く。


「えっ」

「あっ……!」


 彼女たちは、慌てて全員が走って争うように理深を押さえた。


「やめてっ! いやっ! やだやだ、嫌だってば!」


 最早、身動きすら取れない理深がどれだけ暴れようとしても、逃れることが出来ない。


「可愛いわ、理深さん。どれだけ嫌がっていても、あなたは、もうすぐわたくしから離れられなくなりますのよ?」


 優しく、その髪を撫でながら、いとおしそうに言う沙也。


 恐怖、絶望、諦念。


 今、まだ自分に出来る抵抗があるとするなら、舌を噛んで死ぬことくらいだ。

 だが、それも出来ずにいる。

 さっき井尾先生にもらった希望が、彼女を自ら死ぬことを恐怖させていた。

 自分が死ねば、井尾先生も悲しむ。

 あの、年下の男の子を、自分の事で泣かせたくはない。


「あら? わたくしの椅子がなくなってますわ?」


 そうだ、自分にはまだ希望がある。

 井尾先生に全てを委ねたのだ。


「木庭椰さんもぉ、押さえる中にぃ、入っちゃったんじゃぁないでしょぉか?」

「そう、仕方がない子ね。まあいいわ、後でゆっくり教えてあげましょう」


 言うことを聞かない子供を微笑ましく見る親のような表情の沙也。


「じゃぁ~、夜恋ちゃん、行っちゃいましょう~!」

「やめて! 助けて! 井尾先生ぇぇぇぇぇっ!」


 白百合を愛でる会の部室。

 理深は絶対にそこで言ってはいけない彼の名前を叫んだ。

 その言葉に、さすがの綺夏も一瞬、手が止まった。


「夜恋さぁん、やっぱりぃ、あの子とぉ出来ちゃってたのぉ?」

「助けてっ、井尾先生! 助けてぇぇっ!」


 一度言ったらもう止まらなくなった。

 これまで誰も頼れなかった理深を守ってやると言ったのだ。


「でもぉ、残念だったねぇ、あの子はぁ、助けに来ないからぁ。ここはぁ、いつもぉ、鍵かかってるしぃ」


 そうだ、この部室は、例えばいつも沙也が生徒を椅子にしていたりするので、咄嗟に踏み込まれないよう、施錠がされている。

 だから、もし、井尾先生が叫びに気づいても、入っては来れない。


 あの人は、来ない。

 助けてやると言っておいて、来られない。


 綺夏のバリカンはもう目の前にあり、もはや、頭を動かすことも出来ない。

 バリカンが彼女の額に当たり、今まさに髪が剃られようとした。


「待てよ、何してんだよ、人の彼女に!」


 男の声がした。

 バリカンの手が止まる。

 そこにいたのは、理深を守ると言っていた理深の彼氏。

 そう、井尾先生が立っていた。


「理深、来いっ!」


 茫然とする他の連中をすり抜け、理深は井尾先生の元へと走る。

 そして、その胸に飛び込んだ。

 さっきまでの戸惑いはない、自分から、素直に飛び込んだ。


「せんせっ……う、うわぁぁぁぁっ!」


 そして、自然に涙が出て、気が付くと、声を出して泣いていた。

 怖かったのだ。

 心の底から怖かった状況から抜け出して、安心したら、止まらなくなったのだ。

 井尾先生は優しくその頭を撫でてくれた。


「よし。理深、ちょっとそこで休んでてくれ。俺はまだやらなきゃならないことがあるからな?」


 ある程度落ちついたら、井尾先生は優しくそう言って、彼女を辺りにあった椅子に座らせた。


「うん……」


 落ち着いた理深は、これから彼がどうやってこの部を相手に戦うのか、期待もあり、少しの不安もあった。

 何しろ相手は璃々院沙也だ。

 彼女の後ろには、この学校を支配している璃々院専務理事がいる。

 だが、彼は、何の気負いもなく、沙也の前に立つ。

 身長が彼の方が高いので、見下すようになっているが、見て分かるくらい、彼の方が幼く、歳下だ。


「あら、これは、始業式で面白いご冗談をおっしゃっておられた坊やではありませんか? 申し訳ありません、こちらは部室となりますので、教師といえど勝手に侵入は許可されておりませんのよ?」


 どうやって入ったのか、理深は分からないし、おそらく沙也も分かっているわけではないだろう。

 沙也の言葉は、この学校内では専務理事の言葉であり、教師といえど逆らえるものではない。

 それはたとえ新任の井尾先生といえども──。


「そんなこと知るか。俺はただ、自分の女を助けに来ただけだ」


 だが、井尾先生は、平然とそう言い切った。

 そう言えば、あの専務理事を相手にしても一歩も引かず、自分の話に相手を引き込んでいた。

 その、巧みな話術も彼女が惚れた一つだ。


「あら、わたくしをご存知ないのですか? わたくしのお婆さまは──むぐっ!」


 気がつくと理深の目の前で、井尾先生が沙也とキスをしていた。

 期待の三歩上を行く強引さに、理深だけでなく、当人の沙也はもちろん、他の子たちも唖然としていた。

 いくらでも論を弄する頭脳がありながら、あえて強引に進めていく。

 自分を好きと言って、自分の彼氏になっている男の子が、他の女の子とキスをしているのを目の当たりにして、多少のショックはある。

 だが、本当に悔しいが、そんな強引なところもたまらない。

 何しろ、相手は女の子を愛する沙也だ。

 男の子にそんな事をされて、どんな反応をするかを考えたら、痛快ですらある。

 そして、そんなことをされるとは全く思っていなかった沙也は、最初何が起こったかも分からず茫然とする。

 そして、慌てて、井尾先生を引きはがそうとするが、既に背中に手を回している井尾先生から、力ずくで逃れる術はなかった。

 それはほんの数秒のことだった。

 やっとの事で、井尾先生の口づけから逃れた沙也は、そのまま腰を抜かした。


「な、何をなさいますの……? 出合い頭にいきなり口づけなど、し、失礼いえ、無礼、あ、あっ……」


 沙也がはしばらく茫然と、井尾先生を見上げていたが、やっとの事で抗議を口から漏らすが、あまりの事に戸惑いが激しく、何と返していいのか分からなくなって口ごもっている。


「へえ、お前がそんなこと言うんだ?」


 だが、井尾先生はたった今、女の子の唇を奪ったというのに、何一つ悪びれず、そう言い返した。

 少女漫画でよく見かける、ちょっとやんちゃなヒーローのようだ。


「俺から無理やりファーストキスを奪ったお前が、そんなこと言う権利、あるのか?」

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