第19話 悪魔の取引

「それでぇ、夜恋さんはどうするんですかぁ?」


 綺夏の容赦のない言葉が飛ぶ。


「理深さんは二年間よく頑張ってくれましたわ。ご褒美にわたくしの縁故コネクションで、大学の推薦枠をさしあげるつもりです」

「!」


 そんなこと、考えもしていなかった。

 沙也のおかげで教師の覚えはいいので、どこか推薦をもらおうとは思っていたが、まさか、沙也から推薦を融通してもらえるとは思わなかった。

 この人は、わがままで意地悪なだけの人ではなかった。

 自分のために何をやってくれたかをきちんと見ていて、それにきちんと返してくれる人なのだ。

 高校退学の可能性もあった自分が、もう大学までも道筋も決まった。

 これでもう、将来は──。


「ええぇぇぇぇぇ? でもぉ、夜恋さんって、罰で椅子になってたんですよねぇ? そんな子をぉ、特別扱いしちゃっていいのかなぁって、思うんですけどぉ」

「涼姫さんっ!」


 せっかく決まりかけた推薦が、こんな奴の言葉でなくなるかと思うと、殺意に近い感情が湧いてくる。


「えぇ? 何ぃ~? 白百合を愛でる会副部長の私に、何か文句があるのかなぁ? それってぇ、部長に文句があるのと同じなんじゃないかなぁ?」

「ち、違います。そんな事じゃなくて……」


 副部長、という力を表に出されては、何の反論も出来ない。


「部長ぉ、反抗的な子ってぇ、そう簡単に性格ってぇ、変われないと思うんですよぉ」


 媚を売るように、沙也の背後に回って、その耳元でささやく綺夏。


「ほらぁ、木庭椰ちゃんだってぇ、ずっと従順なふりしてたじゃないですかぁ!」


 びしぃっ!


「っ!」


 大きな音が響き、綺夏が陽佳の尻を平手で力いっぱい叩く。

 思いがけない衝撃に、陽佳が身を起こしかけ、そのツインテールが跳ねる。


「ほらぁ、揺れると部長が迷惑じゃなぁい?」


 びしぃっ! びしぃっ!


「あっ! うぁっ!」


 悲鳴に近い声を、陽佳は上げる。

 見ていられない光景だが、理深には何も出来ない。

 綺夏に逆らうことは、自分の将来も何もかもなくしてしまう事だからだ。


「綺夏さん、もうおやめなさい?」


 だが、それを見かねた沙也が止める。


「はぁい」


 綺夏がやめると、まだ少し荒い息をしている陽佳の叩かれていた部分を、沙也が撫でる。


「それでぇ、いい事思いついちゃったんですけどぉ、夜恋さんは、頑張ってくれてたから、大学の推薦はいいと思うんですよぉ」


 綺夏は意外にも、理深の推薦については認めてもいいらしい。


「でもぉ、後一年ありますよねぇ? でしたらぁ、別にお仕事任せちゃったらどうですかぁ?」

「別の仕事って、何ですの?」


 沙也が聞くと、綺夏は可愛く小走りで理深の後ろに向かい、後ろから理深のその長い髪を掴む。


「!」


 理深は一瞬振り払おうともしたが、何とか耐える。


「うわぁ、さらさらぁ」


 少しわざとらしく、綺夏は理深の髪を触りながら驚く。

 たとえ相手が嫌いな綺夏でも、理深は髪を褒められるのは満更でもない。

 全てのプライドをなくした彼女にとって、髪は最後の自慢なのだ。


「ねぇ部長ぉ、この夜恋さんの髪を部長のお役に立てるぇ、どうですかぁ?」

「そうですわね。理深さんのお髪はわたくしも大好きですわ。こちらをどのようにわたくしの役に立てるのでしょう?」


 沙也は愛おしそうに、綺夏によって零れる理深の髪を眺めている。


「この髪ってぇ、物凄く吸収性がある感じなんですよねぇ。例えばぁ、部長がおトイレから出たときにぃ、手を洗った後、この髪でぇ、水分を吸収させるとかぁ」

「っ!」


 この悪魔は、どうしてそんな事が考えるのか。

 吐き気を催した理深は、綺夏から離れる。


「あらぁ? 夜恋さん嫌がっちゃうのぉ? 部長に触れられるいい機会なのにぃ?」

「嫌……では、ありま……せん……ですけど、許してください……」


 髪をハンドタオルにされるくらいなら、四つん這いで椅子をやっていた方が遥かにマシだ。

 沙也は上品だし、不潔なことは全くないだろうし、ねじ曲がってはいるが、自分を愛してくれてはいるから、優しく触ってはくれるだろう。

 だが、髪というのは、必要以上に触られれば傷むのは分かっている。

 しかも濡れた手だ。

 大切な髪を、人に触れられるのも嫌なのに、濡れた手で触られるのは絶対に嫌だ。


「夜恋さぁん、そんなに嫌なのぉ? 部長に逆らうのぉ?」

「すみません、髪だけは許してください……! 他に何でもします、もう一度クラスで裸で土下座もします……ですから、髪だけは……」


 自然、理深は土下座をしていた。

 強要されたわけではない、とにかく許して欲しかったからだ。


「そぉんなに、髪が大事なのぉ? こんなのがぁ?」


 その、下げた頭に足を乗せる綺夏。

 大切だと言ったばかりの、土下座してでも守りたいと言ったばかりの髪を、足蹴にする。

 理深は黙って耐える。

 悔しい。

 心の底から殺意が芽生える。

 自分の人生を台無しにしてもいいから、今すぐこいつをこの場で殺してやろうか。

 そんな短絡的な衝動まで、胸をよぎる。


「そう、ですわね……」


 何かを思案していた沙也が、つぶやくように言う。


「理深さんに一つ、チャンスを与えてはいかがかしら」

「チャンス、ですかぁ? こんな反抗的な子にもぉ。チャンスを与えてくれるなんてぇ、部長は本当に慈悲深いですぅ」


 まだ、理深を足蹴にしながら、綺夏が持ちあげる。


「それでぇ、どんなチャンス、ですかぁ?」

「わたくし共の今一番の課題は、あの坊やの事です。理深さんにはあの坊やをこの学院から追いだしていただきましょう。手段は問いませんわ」

「なるほどぉ……あぁぁ、私、いい案思いついちゃいました! こんなのどうですかぁ?」


 理深から離れた綺夏が、沙也に耳打ちをする。

 いやな予感しか、しない。


「そうですか、なるほど。確かにそれは確実にあの坊やを追い出せますわね。ですが、わたくしの大切な理深さんをあのような坊やに──」

「それにぃ、夜恋さんにはぁ、お似合いの作戦ですぅ」


 ほくそ笑む綺夏。

 一体何をさせられるのだろう、綺夏の案、というだけで、理深は恐怖以外、何もなかった。

 しかもあの沙也が、理深の身を案じているのだ。


「それでぇ、失敗したらぁ、やっぱりぃ、罰が必要ですよねぇ?」

「綺夏さん、理深さんはもう十分罰を受けていますわ」


「でもぉ、それはぁ、一年の時のぉ、罰じゃないですかぁ。さっきのはぁ、やっぱり、罰が必要ですしぃ、お慈悲のぉチャンスもらってぇ、失敗するんだからぁ、もっと、絶対に嫌な事の方がぁ頑張ってくれるとおもうんですよぉ」

「それもそうですね。例えばどのような罰がいいと思いますか?」


 沙也が聞く。


「夜恋さんのぉ、一番大切なのはあの髪みたいですしぃ、あれをもらうってどうですかぁ?」

「? どう言うことですの?」


「ですからぁ、あの髪を剃ってぇ、夜恋さんにはスキンヘッドになってもらうんですよぉ」

「な……っ!」


 何を言い出すのだこの外道は?

 理深は足が震える。

 一度治まった吐き気が再び理深を襲う。

 何を言っているんだこいつは?

 それでお前に何の得があるんだ?

 それは私の人生がどうこうの問題じゃない、私の命そのものの問題だ。

 理深の殺意は、今にも溢れんばかりだった。


「……それは流石にやり過ぎではありませんこと?」


 流石に沙也も、綺夏の提案に眉を潜める。


「ですけどぉ、そのくらい厳しくしないとぉ、手を抜くかも知れないじゃないですかぁ? もしぃ、その程度の罰ならいいやって思われたらぁ、ぜぇったい失敗しますよぉ。そうしたらぁ、部長の名前がぁ、あの子にばれてしまいますよぉ?」

「ばれて困ることもありませんが……多少面倒になりますね。分かりました、理深さん、あなたを信頼してお願いします。絶対に失敗しませんように」


 少し困ったように沙也が理深に命じる。

 何が起こっているのだ。

 理深は頭が混乱した状態のままだ。

 自分がこの髪にどれだけの時間をかけて毎日毎日手入れしていると思っているのだ。

 乾かすだけでお前綺夏のショートボブの何倍の時間がかかると思っているのだ。

 小学校の頃から、毎日毎日、疲れた日も、病気の日も、ずっと手入れしてきた大切な髪。

 それを剃ってスキンヘッドにしろと、最早プライドはないとは言え、女であることは捨てていないこの私に、どうしてそんな外道な事が言えるのか。

 髪は私の命だ、剃られたらその日のうちに自殺する。

 いや、剃られる前に死ぬ。

 絶対に死んでやる。

 絶対に、お前も殺してから、死んでやる!

 そんな命をお前はゲームの罰ゲームのように安く扱うのか?

 殺意は、とどまることを知らなかった。


「あれぇ? 夜恋さん、どうしてうるうるしてるのぉ? そんなに、嬉しかったぁ? 私の提案~?」


 自然に涙が零れそうになっている、理深の顔を、覗き込む綺夏。

 その顔を殴ってやろうか、引っ掻いて一生消えない傷を負わせてやろうか、その眼球を潰してやろうか。

 その衝動を必死に抑えている理深。


「では、よろしくお願いしますね? 成功した時には、内々に来ている有名私大の推薦をあげましょう」


 穏やかで優しい、沙也の言葉。

 怒りは収まることはない。

 だが、目の前にぶら下げられた餌も大きかった。

 成功すればいい。

 成功すれば幸せになれるのだ。


「あなたは、わたくしが高等部に入って、初めて気に入った方なのですから」


 立ち上がり、にこにこと微笑む沙也。

 理深はただ、追い詰められていることを実感した。

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