第8話 和人の職員室にはベッドがある

 呼ばれてはいないが、理事長に用があるのは事実ではあったので、理事長室へと向かうことにした。


「理事長、いるか?」

「あ、はい、どうぞ」


 ノックをすると、中からそう返事が返ってきたので、和人はドアを開ける。

 理事長室で出迎えた葉奈は、始業式での衣装は既に着替え、恐らく午後から大学に行くのだろう、という感じのカジュアルな格好で和人を出迎えた。


「学校には慣れましたか?」


 ニコニコしながら言うの、こっちの苦労も知らず、といらっと来たが、彼女に当たっても仕方がない。


「一日で慣れるわけはないだろう」

「そうですか、生徒たちはいかがでした?」

「個人では多少生意気という程度だが、集団で来られると……いや、個人でもきついな」


 和人は正直な感想を述べる。

 今日起きたことのうち、あの集団の押し合いについては徐々に減っていくことだろう。

 SNSの件も相手にしなければなくなっていくと思われる。

 だが、映魅に限ってはあれで諦めたとも思えない。

 元気で明るくて前向きで、少なくとも一回や二回で諦めるような子には思えなかった。


「そうですか。多分生徒たちは井尾先生が珍しいですから、集団で囲まれたのでしょう。それは想像がつきました」

「ついてたのなら何とか出来なかったのか?」

「何とかしよう、とは思いませんでした。それは先生が生徒に慕われている、親しまれている証拠ですから。ですけど、そんな状態がずっと続けば井尾先生や他の先生まで業務に支障を来さないとも限りません。教師の仕事は授業以外にもありますし、それに支障を来してはただ『親しまれている』で済む問題ではなくなりますし」


「授業以外の業務って何だ?」

「生徒が提出した宿題を見たり、テストの採点をしたり、方針会議に出席したり、何らかの顧問をしたり、生徒指導をしたり、いくつもやることはあります」

「そうか。まあ、その辺は問題ない」


 和人は事務処理の能力も人並み外れており、ゼミでは研究データのまとめる速度も人間業ではなかった。


「ですが、それでもお時間は必要でしょう。それに先生にはここに来た最大の目的もこなしていただく必要もありますし」


 和人がここに来た最大の目的は、生徒にその知識を分けてやることではない。

 生徒を女性らしい恥じらいを身につけてもらうことだ。


「ですから、先生には他の教員とは職員室を分けました」

「すまん、ちょっと言ってる意味が分からない」


「例えばですね、職員室と一口に言っても、全教員がそこで事務をしているわけではありません。主に生徒指導をしている先生は生徒指導室で事務をされておりますし、体育教員は職員用更衣室のそばに専用の職員室があります」

「ああ、確かにそうだったな?」


 日本の学校経験がほとんどない和人だが、職員室が複数あるのは何となく理解している。


「ですから、井尾先生専用の職員室、と言いますか井尾先生事務室を作りました。集中出来るよう、鍵も電子ロックでかけられます」

「そうか、それはいいな」


 和人は、特別扱いされることを別に珍しいことと考えていない。

 これまでもそうあって来たし、彼にとっては日常的にあったからだ。

 だからと言って、自分から特別扱いを要求したこともない。

 くれる、というならもらうだけだ。


「その部屋はどこだ?」

「この本館の奥の部屋──理事長室の隣です。お隣さんですね」


 にっこりと微笑む隣のお姉さん。

 この部屋の隣に和人の部屋があるという事か。


「じゃあ、行ってもいいか?」

「はい、あ、これが鍵です。鍵はこちらと、非常用に私が持っています。合鍵です」


 にっこり笑って言われると、返答に困る。


「じゃあ、行く」

「はい、ご一緒いたします」


 ついてくるのか、などと思ったが、まあ、最初は来てもらった方がいいだろう。

 和人と葉奈は理事長室の隣にある、『井尾和人先生』と看板に書かれた部屋に入る。

 部屋の中は。理事長室とほぼ同じで、正面に机と椅子があり、横に応接セット一式がある。


 机には邪魔にならないようにノートパソコンが置いてある、これも備品なのだろう。

 奥には本棚があるが、今はほとんど本は入っていない。

 一部を除いては、企業のエグゼクティブの執務室と言ってもいいだろう。


「広さはいかがですか?」

「ああ、うん、広さには問題はない。だが、あれは何だ?」


 和人は本棚の更に奥にある白く大きな物体を指す。


「ベッドですが?」

「そうだな?」


 そこには、一般家庭にあるような、いや、ちょっと裕福な家にあるような、高級家具店にしか置いてない大きなベッドが置いてある。


「それがどうかしましたか?」

「いや……何でこんなところにベッドがあるんだ?」

「恋愛自由とは、そういう事ではないのですか?」


 不思議そうに、葉奈が少し首を曲げる。


「……あのさ」

「はい」


「生徒との恋愛は自由、それはいいさ。理事にもPTAにも許可をもらったんだろ?」

「はい、結構大変でしたが頑張りました」


 両手を握りしめて、頑張ったポーズをする葉奈。

 五歳年上とはいえ、ちょっと可愛い。


「うん、だからさ、それはいいよ。だけどさ、やっちゃったらまずいだろ」

「まずいですか?」

「さすがにな」


 葉奈はよく分からない、という顔をしている。

 生徒の前にこの理事長を教育すべきじゃないのか? などと思ってしまう。

 だが、目の前の理事長が茶海女学院の教育のなれの果てだと考えると、まあ、やっぱり男がそばにいた方がいいな、などとも思う。


「あのな、男女間の恥じらいを教育したいんだろ?」

「そうですよ?」


「だったら、ベッドが必要な行為は本末転倒だろ?」

「えーっと……あっ! 本当です! そう言えばそうですね! さすが和人先生は賢い方だけあります!」


 この程度で尊敬されると、逆に恥ずかしくなる和人。


「とにかく、学校としては生徒の交際は清くあるべきだとしとけ」

「分かりました。ではこのベッドは、それ以外にお使いください」


「ここに泊まるくらい働けって事か?」

「いえ……例えば、先生と生徒の恋愛は自由ですが、別に先生と職員の恋愛も禁止してないんですよ?」


 もじもじしながら、葉奈が言う。


「それがどうした」

「ここの教職員はほとんど女性で占められています」


「そうみたいだな」

「中には若い女性もいます……私のように」


 少し照れながら言う葉奈に対して、何と返せばいいか分からず、和人はただ、黙っていた。


「……広いし邪魔にならないから置いておくくらいはいいが」

「そのうち、使う時が来ますね?」

「いや、来ないからな?」


 頭が痛くなって来た。

 それこそ今すぐにベッドを使いたくもなった。

 休憩の方で、いや、御休憩ではない方で。


「お食事は、外に行かれても構いませんし、学食もご自由にご利用ください。今日はもう他の先生方も用がない方は帰られましたし、ご自由にどうぞ」

「ああ、ちょっとだけ仕事して帰る」

「分かりました。私は午後から大学に戻りますので、それでは」


 そう言うと葉奈は一礼をして部屋を出て行った。

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