第5話 初めてのホームルーム①

「じゃあ、席につけー」


 和人が教室に入ると、それだけで、キャー、という喜びの悲鳴が聞こえて来る。

 それが和人には理解出来なかった。

 和人が担任であることは、始業式で発表されていたはずだ。

 なのに何故今更騒ぐのか?

 それは、ただ単にこの生徒たちが先生の連絡なんてほとんど聞いていなかったということだ。

 自分たちにとって重要でもある連絡事項を一切聞かない子たち。

 これを教育するのか……和人は気が遠くなった。


「先生、席順が分かりません!」

「ん? ああ、そうか。まあ、今日はHRだけだから適当に座れ。明日はとりあえず出席番号順な」


 正直、席順なんかどうでもよかったが、そこも含めて何か考えたほうがいいのか、などと考えることは多い。


「じゃあ、始めるぞ? あー、クラス委員もいないのか」

「じゃあ、先生がやってください!」


 どこからともなくそんな声が聞こえ、教室内からくすくす、と笑い声が聞こえる。

 言った本人を見ると、からかっているというよりも、親しみを込めている感じだったので、乗るしかないだろう。


「しょうがねえなあ……」

「起立! 礼! 着席!」


 和人の号令で全員が立ちあがり、礼をして座る。


「はい、静かに」


 さっそくざわめきが止まらないので、注意する。

 まだ、三回目にもかかわらず、彼はいちいち何度も静かにしろとか言うのも面倒になって来ていた。

 どうして一度では言うことを聞かないのか、というのは、和人は理解している。

 群集心理というやつだ。

 これは、デモや暴動と同じなのだ。

 自分だけではないという安心感が、このざわめきを生んでいる。

 だから、一人一人になれば、誰も喋らないだろう。


「そこの奴、静かにしろ」


 そんな時には個別で誰かを指摘すると、次は自分かも知れないと思い、みんなが黙る。

 特にうるさい数人のグループを注意すると、やっと静かになった。

 まだ、ひそひそと聞こえてくるが、もう面倒なので、聞こえないことにする。

 十センチほど高い壇上から教室を眺めると、同じ制服を着た女生徒が数十名、和人をじっと見ていた。

 和人が何を言うのか、期待に満ちた瞳。

 近くで見るとやっぱり格好いいなあ、という憧れの瞳。

 斜に構えて、あんたに全然興味ないけど一応聞いてあげるわ、という瞳。

 様々な瞳が、和人に向けられる。


「えー、今日からお前らの担任になる井尾和人だ。二年では、社会を教えることになる」

「社会って言っても色々ありますけどー!」

「日本史世界史地理倫理政経現社全て行けるが、特にここの先生は政経が弱いらしいからそこを重点おいて教えることになっている」


「先生の専門は社会ですかー?」


 中心くらいに座っている生徒が手を挙げて聞く。


「違うな、大学では主に流体力学を専攻していた」

「りゅーたい……それって何ですか?」

「連続体……いや、んー……」


 和人は答えに困る。

 流体力学をどうすれば分かりやすく伝えられるだろうか?

 概要を理解するにはどうすればいいだろう。

 いや、そもそも、普通の高校二年生というのはどの程度物理学を知っているのか?

 調べもせずに、物理を教えるのを拒否した和人には全く分からない。


「先生分からないんですかー?」

「正直、お前らに理解させる言葉が浮かばない。だから物理はどの学年も教えない」


 子供の頃から物理を専攻していて、周囲も同様の研究者だった和人には、一般の人間がどこまで何を知っているかがまず分かっていない。

 和人にとって常識の範囲にある知識は、他人には非常に高度な知識であることも多い。

 だから、自分の能力を分析した場合、自分には物理を教えられる能力はないと判断した。

 そのため、和人は葉奈に、「担当教科は物理以外にしてくれ」と言ったのだ。


「でも、本当に理解してたら、教えられるもんじゃないのー?」


 後ろで片腕に頬杖をついている生徒が嘲笑いながら言う。


「俺は、ガキの頃から物理に触れていたからな。お前らがどこまで理解しているのかを知らないんだよ」

「でもー、専門以外を教えるって、あたしらをなめてんじゃない?」


 さっきと同じ生徒。

 周りも彼女を責めるような態度はない。

 どうも、普段からこんな感じの生徒なのだろう。

 だったら逆手に取ってやろう。


「そうだな、なめてるな。十六年だっけ? それだけの年月をかけて、俺の片手間の知識も持ってない奴らだからな」


 その生徒を含め、クラスの空気が変わる。


「? どうした?」


 これはある程度想定の空気だ。

 が、和人としては、このスタイルを貫く、ということを宣言した方がいい。

 つまり、アメリカのスタイルだ。

 言われたら言い返す。

 自分のことは自分が思った通りに表現し、謙遜などはしない。

 アメリカでは沈黙は美徳でも何でもない。

 言い返さない奴は言い返せない馬鹿か、言い返す勇気のない意気地なしだと認識される。


「先生、どうしてそんなこと言うんですか?」


 別の生徒が、責めるような目で抗議する。


「どうしても何も、そう思ているから、それを口にしただけだ」

「でも……普通、思ってても言わないですよね……?」

「アメリカではディベート以外にも、自分の主張はしないと言われっぱなしになる。アメリカだけじゃない国際ルールでは大抵はそうだ」


 和人としては、思っていても言わない、ということの方が異常に思える。


「先生、ここは日本です」

「そうだな?」

「だから、言いたいことでも相手を気遣って言いません」


 生徒が言うが、和人にとってはそれもおかしな話だ。

 そもそも「自分は言いたいことを言わない(だからあなたも言うな)」というのは、一つの主張ではないか。

 それはいいのにこれは駄目だ、というのが理解出来ない。


 とはいえ、別に和人は生徒と険悪になりたいわけではない。

 そう簡単に理解し合えないことは分かっている。

 だから、別の言葉に変えて、理解しやすくしよう。

 何を例に出せばこいつらに分かりやすいか?

 和人は少し考えて、口を開く。


「例えばさ、自分の彼女に心を開いて何でも言うが喧嘩も絶えない男と、彼女と言えど他人なので常に気を使っている男、どっちがいい?」


 彼が言うと、教室が一瞬だけしん、となる。

 おそらく考えて想像したのだろう。

 相手を、和人にして。


「私は、心を開いてくれる方がいいです」

「私も、喧嘩したいです」

「相手が先生ならどっちでもいいです」

「先生、付き合ってください!」


 答えはあちらこちらから帰って来て、全てを聞き取れなかったが、概ね肯定的だった。


「俺はお前らの彼女になりたいと思っている。だったら、言いたいことを包み隠さず話すのが、逆に礼儀マナーだ」


 和人が言い切ると、少し生徒たちが黙る。


「あの……それって、本当なんですか?」


 おそるおそる、という感じで一人の生徒が聞く。


「それというのは何だ?」

「その、先生が、私たちとの恋愛が自由っていうこと」

「ああ、そうだな? 始業式でもそう言った。理事会もPTAも公認済だ」


 和人は平然と答えると、生徒からはまたひそひそ話が起き、それが少しずつ大きくなっていく

 にわかに信じられないのも無理はない。

 日本の常識では、学校は生徒の恋愛を公式には応援することはないし、教師と生徒の恋愛はタブーとなっているからだ。

 そして、この学校の理事会が厳しいことは知っている。

 大半はこの学校の卒業者で構成されており、今でも古き良き茶海女学院を維持しようと考えているのだ。

 そして、PTAつまり自分たちの親の代表がそれを認めた、というのもまた、信じ難い。

 彼女たちはこの学校に一年、または小学生の頃から在籍し、茶海女学院の校則が他校よりも非常に厳しいことを知っているからだ。


 だから、始業式で和人が恋愛自由と言った時も、何かの冗談だと思っていた。

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