第2話 寵児・和人

『理工学部ドクターコース、ミスターイーオ。来客がありますので、事務棟応接室Bにお越しください』


 キャンパスに流れる、フォーマルな口調の英語。

 それが自分に向けてであることは、和人も理解している。


「またか……」


 和人はため息を吐く。

 何しろ今月に入ってもう三回目だ。

 さすがにうんざりしてくる。


 もう、時間もないのにどうしてこうみんな言うことを聞いてくれないのだろう。

 研究というのはとっぷりそれだけに漬かってでないと、まともな結果は生み出せない。

 彼の研究は常に人類未踏の地なのだ。

 そこに片手間で踏み込めるほど、甘い世界ではない。

 だから、出来る限り邪魔されないように、面談は事前にアポイントメントを取ってから来てもらうようにしているのだが、それでもアポなしで押しかけてくる企業が後を絶たない。


「話ならいくらでも聞くから、一日にまとめて来てくれないかなあ……」

「まあ、行ってきたまえ、君の将来のパートナーを決める重要な事柄だろう。私としては、このまま大学に残って欲しいのだがね」


 和人のぼやきに、彼の教官である教授が笑う。


「……まあ、行ってきますよ」


 和人はそれに適当に相槌を打ちながら、研究室を出る。


 井尾和人、十四歳。

 神は彼に二物を与えた。


 アメリカにあるここルーイズ大学の理工学部大学院ドクターコースを五月には卒業しようという彼の年齢は今年で十四歳になる。

 そう、彼は英才教育によって、日本ではまだ一学年二学年程度しか許されていない飛び級を、子供のころからアメリカに渡ることでそれを重ね、この歳で大学院卒業まで漕ぎつけたのだ。


 更に彼の作成した論文は、権威ある専門誌でも絶賛され、彼の卒業後の行き先を、世界有数の研究施設や大企業が狙っていた。


 これが彼が天から与えられた一物である。


 その彼の外見は、確かに世界的というには言い過ぎであるが、少なくとも日本でモデルをやる程度なら大人気になれるくらいには整っており、まだ十四歳という、幼さも残る彼は、某アイドル事務所期待の新人と言われても納得出来るほどだ。


 企業からすれば、彼を研究の主軸にしつつ、広告塔としてアピールすることも出来るため、その気になれば彼を手に入れた会社は数兆の利益を得ると言われるほどだ。

 そんな彼をこのように、直接スカウトに来る企業や研究機関は、珍しくないのだ。


「失礼します」


 一応はスーツに着替えた和人は、放送にあった応接室に入る。


「……井尾さん、ですか?」


 ぱっと、顔を上げるのは、彼の故郷でもあるアジア系の女性。

 彼女は、欧米の女性を見慣れた彼から見れは幼くは見えるが、おそらく二十歳前後だろう。

 長い髪を後ろで束ねており、スーツを来た彼女は、リクルータというよりは、新卒就職活動中の女の子にも見える。


「なるほど……そういうことか」


 和人は一瞬で理解した。

 これは初めてではない。


「『色気勧誘ハニー』だね? それで、君はどこの研究所の先輩なんだい? 母校はこの学校かい?」


 『色気勧誘ハニー』とは、その名前の通り、男性を自社に引き入れたい時、美しい女性を送りこんで勧誘して来てもらうという、原始的ではあるが効果的な手法だ。


「残念だね。俺にはそれは通用しない。見れば分かるだろう? 俺は女性の扱いには慣れている。俺を甘い勧誘してくる女性に、逆に無茶な要求を飲ませるくらいにはね」


 和人は女性に近づき、顔の目の前でそう言った。

 女性は反射的に後退するが、そのタイミングで、彼も下がり、ソファに座る。


「で? 話くらいは聞こう、君はどこの研究室からの勧誘だい?」


 茫然としている女性に、彼は少し尊大な態度で聞く。

 この手の交渉は主導権を握った者の勝ちだ、と和人は熟知している。


「あ、あの……」


 少し頬を染めた女性が、初めて口を開く。

 その声、いや言葉は、英語ではなかった。

 もちろん、和人は英語で喋っている。

 だが、彼女の言葉は英語の呼びかけではなかった。

 いや、ここアメリカに来て、様々な訛った発音の英語を聞いてきた。

 初見では聞き取れないほど訛った英語も聞いた。

 だから、最初は英語に思えなくても、それが英語である、と分かるくらいにはなった彼をしても、それが英語ではないことはすぐに分かった。

 何故なら、その言葉は、彼の母国語による、呼びかけの言葉だったからだ。


「申し訳ありません、出来れば日本語で話してもよろしいですか? 英語は……苦手ではありませんが、自由に話せるほどではないので……」

「? いいけどさ」


 英語を話せないことを少し恥じる女性。

 少なくとも世界的な研究機関で英語を話せない職員は多くない。

 論文は基本的に英語であるし、英語が嫌いと公言してはばからない、母国語に誇りを持っている国の人間でも、英語が話せないわけではない。

 だが、彼女は英語が話せない、と言った。

 いや、おそらく彼女は、英語教育を受けてはいるが、話すことに自信がないんだろう。

 それは、典型的な日本の英語教育だ。

 彼はそれを受けたことがないが、受けたという知り合いがいた。


「それで君はどこの機関から来たんだい?」

「自己紹介が遅れました、私は茶海さかい葉奈はなと申します。学校法人茶海女学院の理事長をしております」


 何度も頭を下げながら、そう自分を紹介した女性、葉奈。


「へえ、俺がいない間に日本は変わったようだな。僕のいたころは君のような若くてかわいい女の子が理事長などやるような国じゃあなかったな」

「いえ……その、両親が死んで、前理事長だった祖母はもう引退したからと、私がやることになってしまっただけです……私も茶海女子大学の学生ですし」


 可愛いと言われ、照れながら話す葉奈。


「なるほど、世襲か。それはに日本的かどうか迷うところだな。世界中であるシステムだ。まあいい、その女子校の理事長が俺に何の用だ?」


 話を聞く限り、理事長ではあるが、その学校法人に通う学生である彼女が、リクルーターとして来たとも思えない。

 何しろ、和人の高度な研究をただの私立女子大学が欲しいと思うとは思えない。

 恐らく文化祭等で講義をして欲しい、というところか。


「はい……実は折り入ってお願いがあります。茶海女子学院を、助けていただかないでしょうか?」


 葉奈は、懇願するような声で、和人を見つめながら、そう頼んだ。

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