7話「名無しさん@匿名希望その4」
あまりに唐突で申し訳ないのですが、空から石沢さんが降ってきました。
まるで冒険活劇の冒頭のような劇的なその光景を、私はぼやけた意識と視界で眺めていました。いや、本当に。意味がわかりません。時間を巻き戻そうか、どうしようか思考して、また頭を殴られるのは嫌だなぁという結論に達しました。
第一、窓の向こう、随分とハイテンションでゾンビの首を鉈のようなモノで次々と切り落としている石沢さんを見ていると、巻き戻す必要さえないような……。
石沢さん頑張れ~と心の中で応援する私は、さながらテレビアニメに釘付けの幼女のよう。いや、眼前に広がるその光景は、血飛沫どころか肉片すら飛散するグロテスクな絵なのですが。明らかに十八禁でしょう。なんて思ったところで、
「ふーん」
という酷く乾いた声が耳を撫でました。
「アレもやっぱり常識から足を踏み外してるんだね」
アレ――こと石沢さんの殺陣に、私は「ほえー」と馬鹿みたいな感嘆な声を上げます。確かに石沢さんの戦闘力の高さを私は身をもって知っていますが、無数のゾンビを相手にああも華麗に立ち回れるとは思いもしませんでした。
「ま、アレには興味はないんだけどね」
彼女は。匿名希望の彼女は、吐き捨てるように、嘲笑うように、そう言いました。その声音に、その冷たさに、私の背中の産毛が粟立ちます。ゾゾゾゾゾと。仄暗い天井で蠢く、カマドウマのように。
興味をなくした昔の玩具をゴミ袋に投げ捨てるような所作で、彼女は平らな胸元から藁人形を取り出しました。
「あらまぁ」
と思わず呟いてしまうくらいには古典的なその呪いのアイテムに、またもゾゾゾゾゾ。浮遊感さえ覚える猛烈な嫌悪感に、身震いをします。
匿名希望の彼女は、その藁人形の右足につまようじを突き立てました。それと同時に、石沢さんが地面に転がり形勢は逆転。何が起こったのかはわかりませんが、何かよからぬ事を匿名希望の彼女がしたのだという事は確かです。それともそんなのはただの思い過ごしで、単に石沢さんの足がもつれただけなのでしょうか?
そんなわずかな希望を、私は首を横に振って拒絶します。
だって彼女は、悪意を持って私の後頭部を殴ったのですから。
だって彼女は、酷く冷たい眼差しで石沢さんを見てにやけているのですから。
――邪悪。頭の中にパッと浮かんできたその二文字に、私は瞬きを繰り返します。この人と関わるのは、きっとよくない事なのです。たぶん、いや、おそらく。目の前のゾンビよりも恐れるべきは、彼女なのでしょう。
それは、とても単純で、至極原始的な感情。赤い頭巾を被った少女が、口の裂けた獣に抱いたのと同じモノ。
私は無力だから「どうして?」と震えた声で首を傾げる事しかできません。
「どうして、あなたは私の頭をぶったんですか……?」
痛いじゃないですか、もう。
仮に今、巻き戻したらもう一度同じ痛みを味わう事になりますし、今巻き戻さない限り、私の頭には殴られたという事実が今後しばらくの間はついて回る事になってしまいます。タダでさえあまり出来の良いおつむではないというのに、なんて酷い人なのでしょうか。
いや、違います。今はそんな場合ではないのです。このどうしようもない窮状から脱するには絶対に、石沢さんの戦闘力が必要です。だって狼をやっつけられるのは、狩人だけなのですから。
「どうしてだろうね?」
私は決意して、時を戻します。ああ、本当に。役に立たない能力なんだから――と悪態をつきながら。
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「がつん」
まあ、なんてタイミングが悪いのでしょう。
もう少しだけ我慢していれば、二度も殴られる事はなかったのに。己の間の悪さを呪いながら、どうにかこうにか意識を握りしめます。頑張れ~私~。
そんな風に自分を鼓舞していると、窓の向こうから石沢さんが降ってきます。たくさんのゾンビを引き連れて、さながらハリウッド映画のワンシーンのようですが、耳を澄ませば「うお」とか「ひい」といった悲鳴が聞こえてきます。あれだけの大立ち回りをしながらビビっている石沢さんはもしかしたら、怖がりなのかもしれませんね。これはいい情報を仕入れられました、しめしめ、と少しにやけた私でしたが、匿名希望の彼女の動きを注視する事は忘れていません。
「ふーん、アレもやっぱり常識から足を踏み外してるんだね」
「ほえー」
まあ常識から足を踏み外しているからこそ月に一度は反省部屋に叩き込まれているのでしょう。一般常識のなさはこの学院でも随一です。私は石沢さんよりも常識が欠如した人物を知りません――いや、うん? そういえば私の元ルームメイトの在野さんもかなり非常識な人でしたっけ。随分と食い意地の張った人でしたし。それに何より毎朝のように私に目覚まし時計を投げつけてくるのです。うるさい! と叫びながら。
「ま、アレには――」
「今だぁッ!!」
と、私は大声をあげながら、匿名希望の彼女に飛び掛かります。それはもう必死の形相で。
彼女から藁人形を取り上げて、抱きかかえるように躰を丸めます。どういう能力なのかはわかりませんが、彼女にこの藁人形を渡してはいけません。石沢さんの邪魔をさせる訳にはいかないのです。それが今の私に出来る唯一の抵抗でした。
そんな私の耳元で、彼女は囁きます。
「――見つけた」
と。不気味に。そして悍ましい声色で。
そこでふと、思い至ります。あの顔、そういえば在野さんに似ているような……。在野さんに分裂機能は備わってはいなかったと思いますが、あのゾンビたちの顔には、在野さんの面影があります。
「石沢さん!! 絶対に食べないで下さいね!!」
言いながら、私は秘密兵器を窓の向こう側へと投げつけました。
それはチョコレート味のカロリーメイト。在野さんならこの黄色のパッケージに飛びつくはず――という私の思惑は、見事に的中しました。ゾンビたちは芹沢先輩印のカロリーメイトに群がり、そして、血反吐をまき散らしながら地面に沈むのでした。
「石沢さん!! 助けて下さい!!」
「やだ!!」
石沢さんへるぷー。という私の心からの声は無情にもかき消されました。なんということでしょう。乙女の友情というのはこんなにも脆くて儚いものなのですね。極限状態の中では、友人の命など虫けらのそれと同義なのですね。自分さえ助かればそれでいいのですね。
でも、私は責めません。人間という生き物は、そういう風に作られているのですから。あんなにも楽しかった私と石沢さんの日々は、夢幻のようなものだったのです。
……石沢さんの薄情者ぉ。もしも私が死んだら許嫁諸共末代まで祟ってやるんですからぁ。
「だってお前オレを見捨てて逃げたじゃん」
「ぎくっ」
そういえばそんな事もあったような……なかったような……。あ、巻き戻してないのでしたっけ……? あれ、もう巻き戻しても手遅れなんですっけ……? 本当に、私の能力というのは役に立ちませんね。だって友情のひとつも守れないのですから。
「てか、何から守ればいいんだよ?」
「匿名希望の彼女からですよ!!」
「はぁ?」
「はぁ⁉」
いません。私は少しだけ歪み始めた視界を上下左右に揺すりましたが、どこにも金髪碧眼の彼女の姿はありません。まるで煙にでもなって消え去ったかのように。
「あれ? あれ――?」
目が回ります。意識が捻じれます。絶えず後頭部が訴える痛覚に、心が挫けます。
「あ、これやばいやつですね」
そうして私は眠気の沼に沈んでいくのでした。
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