6話「名無しさん@匿名希望その3」
「ここなら安全だと思うよ」
言いながら彼女は、図書室と書かれた部屋の戸を閉めました。差し出された手を取って、言われるがままにこの部屋に逃げ込んできたのですが、何がどうなって、どうしてこうなったのか判然としません。ゾンビ、実在するんですね。まあ、
ともあれ、一安心といったところでしょうか。私は痛む足首を抑えながらその場に座り込んで、彼女を見上げます。中等部の制服を身に纏った金髪の彼女は、いったいどうしてこんな場所にひとりでいたのだろう。そんなことを考えながら尋ねました。
「こんなところで何をしていたのですか?」
外の様子を窺うように、ドアに張り付いていた彼女は振り返り、私に微苦笑を向けました。
「探し物だよ」
「探し物ですか」
探し物をして、迷子になったと考えて問題はなさそうです。大方、いつの間にか日が暮れて、途方に暮れていたのでしょう。昼間の森と、夜の森はまるで様相が違います。街灯なんてものがないのだから、当然といえば当然ですが。ここに捨てられて、まず最初に実感したことは、夜が怖い、というごくごく当たり前のものでした。夜は暗くて、怖いのです。そんなことさえも私は忘れていました。幼い頃は確かに、恐れていたというのに。
「そういう先輩は何をしてたの? てか、ゾンビってマジ?」
「マジですよ、ビックリですよ」
いや、それにしてもあのゾンビ、どこかで見た気がするのですが。顔が欠けていたので、いまいち思い出せません。いや、ゾンビの知り合いなんていませんが。
「ま、別に驚かないけどねー」
「ですよねー」
なんて、二人で笑い合っていたのに、彼女は急に真面目なトーンで、
「ところで先輩の名前は?」
そんな質問を口にしました。
「私ですか? 私は山田ですけど」
「下の名前も」
「山田は山田ですよ」
下の名前は。というかフルネームは、あまり好きではないのです。私は頬を掻きながら、暗い部屋を見渡しました。林立する本棚の陰に、ゾンビが潜んでいやしないかと目を凝らしましたが、その心配はなさそうです。胸を撫で下ろす私の眼前に、彼女の青い瞳が現れます。
「名前、教えてよ」
「え、いや、なんでそんなに名前を知りたがるんですか? いいじゃないですか、山田で――痛いっ!?」
突然、前髪を一本抜かれて、私は額を抑えます。石沢さんとは違って随分とねちっこい攻撃です。
「何をするんですか!?」
「ちょっとね」
ちょっとね、で髪の毛を抜かれたんじゃあ堪りません。私はもぞもぞ、と座ったままの状態で彼女から距離を取りました。やっぱり聖峰の生徒というのは、変わり者ばかりです。
「ま、いっか。先輩は違うみたいだし」
彼女は急に立ち上がって、私に背を向けます。まるで玩具に興味を失った猫のように。
「違うって?」
「探し物」
「探し物って、人間だったんですか?」
「人間っていうか、魔法使い」
魔法使い。どうやら彼女の中では、私たちに宿る特異な能力を魔法と呼んでいるようです。彼女は鼻を鳴らして、こちらに向き直ります。その顔に貼り付けられていた艶笑に、私は冷たいものを感じます。
「未来を視られる魔法使いを探しているんだけど、なかなか現れてくれなくてさ。色々と罠を張り巡らしてるんだけどね」
罠、と言いましたか。不穏なその言い回しに、私は時間を巻き戻すべきか否かを考えましたが、五分前の時点で既にこの図書室に逃げ込んでしまっているので手遅れでしょう。ましてや、彼女は未来を視れる人物を探していると言いました。私の能力も、凄く限定的ではありますが、一応は未来を視る能力だと言えないこともないような気がします。もしも。もしもそのことがばれたら、私はどうなってしまうのでしょうか。そんな不安が胸を支配するくらいには、彼女からは不吉な何かを感じます。
「嫌だな、先輩。そんなに怖がらないでよ。髪を抜いたのもスキンシップだし。未来を視れる魔法使いを探しているのも、占いの類を気にする女子中学生にとっては、自然な感情でしょう?」
むむむ。言われてみれば、そんな気がしないでもないのですが。我ながら騙されやすい人間だと思います。
「先輩は、そんな感じじゃないしね。未来が視えてるようには見えないや」
「当たり前じゃないですかー。嫌だなー」
たはは、と哄笑して誤魔化します。でも、本当に、そんな能力を持った人間がいるのでしょうか。私のそれはあくまで五分だけですが、それ以上の、ずっと先まで見通せてしまえる、そんな、可哀想な人が。
「…………」
沈黙を重たく感じます。どうにもさっきから、彼女の行動にはわざとらしさを感じてなりません。意図的に私に違和感を与えているような、そんな気がします。いや、それどころか全てが嘘っぽく思えてきます。その髪色も、瞳も、一人称も、仕草も、声色も、ここで偶然出会ったことも。考えすぎでしょうか。
「あなたのお名前は?」
「匿名希望だよ」
そう言われては、それ以上踏み込めません。いっそのこと下の名前を明かして、彼女も答えるように仕向けることもできますが、私の中の何かが、そうすることを拒んでいました。名前を教えてはならない、と。そう言っているような気がします。
「さて、と。そろそろかな」
「はい?」
私が小首を傾げるのと同時、ドアを叩く音が室内に響き渡り、びくん、と躰が強張ります。その音は次第に数を増していき――ついに破られました。ぞろぞろ、と腐乱死体が入り込んできます。
驚きはしましたが、しかしまあそこまで恐れる必要はありません。そんなこともあろうかと私たちはあらかじめ一階の図書室に避難をしていたのです。夜道は危険だからとこの場所で待機をしていたのですが、いざとなったら逃げられるようにと――、
「がつん」
と自分の口から擬音が漏れるくらいの衝撃が、私の後頭部の辺りから突き抜けてきました。視界がぐにゃりと歪みます。じわり、とシャワーのお湯が髪の毛の間を這うような温かさが、頭に広がっていきます。
あ、これはダメなやつです。即座に、私は私の中の何かに命じます。戻れ、と。その間際、急速に切り替わる景色の端っこで、にたり、と笑う名無しさんの顔を見た気がしました。
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