5話「名無しさん@匿名希望その2」
それは旧校舎の中に、律儀にも昇降口から入り込み、三階まで進んだその矢先のことでした。
「オレさ、学院から出たら結婚するんだよね」
「ハイ?」
「や、許婚がいるんだけどね」
「はぁ……?」
石沢さんの突然の告白に、私は大して驚きませんでした。いや、冷房の効いた寮の部屋の中でこんな話を聞いたなら叫び声さえ上げて驚いたのでしょうが、今は状況が状況です。ただの死亡フラグとしか思えません。
なんで突然そんなことを言いだしたのでしょうか。自慢ですかね。私は冷めた目で石沢さんの横顔を一瞥して「……石沢さん」と注意を促そうとしたのですが、唐突に石沢さんが手に持っていた懐中電灯が、大きく上側に逸れます。
「うおっ」
というおよそ年頃の乙女とは思えぬそのセリフは、もちろん私ではなく石沢さんの口から発せられたもの。いや、そもそも一人称が「オレ」の時点であれなんですけどね。どうやら石沢さんは、教室から飛び出してきた黒猫に驚いたようです。学院の中に猫がいるなんて知りませんでしたが、まあ魔女に黒猫はつきものなので、いて当然なのかもしれません。今はそんなことよりも、
「なんだ、猫かよ。ビビらせやがって」
死亡フラグを連発する石沢さんに、ツッコミを入れるべきでしょう。石沢さんだけならともかく、私まで巻き込まれたんじゃあ堪りません。時間を巻き戻せるとはいえ、私、即死耐性がないですからね。
「石沢さん」
「あん?」
廊下は歩くたびに軋み、やっぱりとてもじゃないですけど、部活動の部室に使われているとは思えません。
「石沢さん!」
「んだよ!?」
「石沢さんの許婚って格好いいですか?」
私の馬鹿ぁぁぁぁぁあ。私は頬を叩いて自制を促します。そんな私の所作に石沢さんは若干引いた様子で、
「知らね」
と答えました。
「親が決めた相手で、顔とか知らんし。年齢もわかんない」
許婚なんて制度が現代日本に残っているとは思いませんでした。まあ、聖峰女学院は曲がりなりにもお嬢様学校で、ここに捨てるのにも本来であればそれなりの金額を必要とするらしいので、石沢さんもこんな身なりですけどいいところの娘さんなのでしょう。それなら許婚なんてものがいても、不思議ではないのかもしれません。
「ふ」
「あん?」
ばしっ、というローキックが炸裂して、私は豪快に廊下を転がりました。
「ええええええええええ!? なんで今蹴られたんですか私!」
「なんかムカついたから」
なんかムカついたからで人のふくらはぎに全力キックするなんて、最近の若者は恐ろしいですね。でも、今は腹を立てている場合ではありません。女の子座りの格好で不満を表明する私を置いて、石沢さんはずいずいと廊下を進んで行ってしまいます。
先ほども言いましたが、懐中電灯を持っているのは石沢さんで、私の装備品は芹沢先輩から頂いたカロリーメイトのチョコレート味。どうしたって石沢さんから離れるわけにはいかないのです。
「待って下さいよ、石沢さーん」
追いかけて、その裾を握ります。今度は攻撃をもらわないように「掴みますからね」と事前に宣言を致しました。が、石沢さんが急に止まったので、私はその背中に軽くぶつかってしまいました。またナイフによる一閃がくる!? かと思いきや、石沢さんは、硬直したままです。私は怪訝に思い、私の目線よりもいくらか高い位置にある石沢さんの肩越しに前の様子を窺って、そして暫しの間、思考がフリーズしてしまいました。
そこにいたのは。端的に言って腐乱死体です。眼球のひとつが眼窩から垂れ下がり、頭部の半分が欠けた、死体――否、ゾンビと呼ぶべきなのでしょうか。何せそれは、救急車よりも先に警察を呼んでも探偵に疑われない程度には、明らかに死を迎えた状態で、二本足で立っているのです。オマケとばかりに呻き声まで上げています。
そんな状態の腐乱死体が、廊下を埋め尽くし始めます。教室から次々に湧いてきて、ゆったりとした足取りでこちらに向かってきます。
「石沢さん、逃げましょう」
ゾンビ映画よろしく噛まれたら感染してしまうのでしょうか。幸いにして私の数少ない友人の中に陽気な黒人さんはいらっしゃらないので、内部崩壊の心配はなさそうですが、まずはここから生きて戻らなければ話になりません。
しかし石沢さんは、逃げる素振りをみせません。まさかナイフ一本でこの大軍を処理しようとでもいうのかと思いましたが、違いました。
「悪い、足が竦んで動けねぇ」
「あら」
絶対絶命でした。いくらスローな動きのゾンビとはいえ、石沢さんを背負った状態の私では話にならないでしょう。自慢ではないですが、私は非力です。どれくらいかといえば、休日の殆どを寮の部屋のベッドの上で過ごすくらいに。
「ここはオレが食い止める! てめぇはさっさと逃げやがれ――ッ!」
でました。本日三度目の死亡フラグを口にした石沢さん。その熱い友情に、自己犠牲の精神に(単に足が竦んでいるだけですが)、私の頬を涙が伝います。石沢さんは馬鹿だけれど、私の一番の親友でした。
「ありがとうございます、それじゃあ遠慮なく逃げますね!」
手を顔の高さまで挙げて「それじゃ」と別れの挨拶を済ましました。
「ええええええ」
断末魔でしょうか。踵を返して、全速力で廊下を駆け抜け始めた私の背中を、石沢さんのかすれた声が掴んできます。私は頭を振ってその声を振り払い、ギアをもう一段階上げました。ありがとう、本当にありがとう、石沢さん。私は、石沢さんの分も長生きします。石沢さんのことは一生――……いや、たぶん今後十年間くらいは忘れません。
……それにしても、あのゾンビ、どこかで見たことがあるような。
角を曲がり、階段を駆け下りるその最中、ふと、誰かの顔が脳裏を
そんなことを考えていたからでしょう。それともローキックのダメージが今になって足にきたのでしょうか。私は階段を踏み外して、その場から転げ落ちました。慌てて立ち上がろうと踏ん張った私ですが、足首から全身を貫いた電撃じみた激痛に、再び廊下に倒れ込みます。
あれれ、これすごくヤバイような? 石沢さんが稼げる時間も、そう多くはなさそうです。その中で、校舎を抜け出して、夜の森を抜けて、寮まで辿り着かねばなりません。この足で。痛い、ちょっとムリ。肉体に負けず劣らず、私の精神は軟弱です。どれくらいかといえば、三日坊主どころか一日で決意が折れるくらいには。
戻しましょう。きっかり五分巻き戻して、どうにかこうにか石沢さんを説得して、寮へと戻りましょう。
「あっれー? こんなところで何をしてるのん?」
場にそぐわない軽い調子の声音が、私の思考を遮りました。
私は顔を上げます。そして両の
「いやさ、ボクも迷子になっちゃって困ってるんだけど」
金髪碧眼の少女は可憐に微笑んで、私に手を差し伸ばしたのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます