〇六一 凶 刃


 廃病院の一室に、黒みがかった紫色の大きな豚が現れた。

 下顎したあごからは牙が二本突き出し、身体はこぶのような肥大した塊があちこちが突き出している。獲物を見つけて興奮して鳴いていた。

 その醜い豚の右耳は、腐ってただれたようにいびつに欠けていた。


「うわっ!! ブタ!? なんでここにいるんだよ!」


「おい、どう見たって特撮とかじゃねえ、現実マジだぞ!?」


「にっ、逃げろ!!」


「そうはいかん」ヴェーレンは伸ばしたてのひらから白い物体を撃ち出す。


   バシュッ! バシュバシュバシュ   バシュッ!


 「うわあっ!!」


 男たちは急に転んだ。その足元には――――


「なっ! なんだよこれ!?」粘度の高い、帯のようにも見える太い糸が粘着して繋ぎ止められていた。


  ザッ ザァァァァァァァァッ!


 五人の男はなすすべなく両足を捕縛され、天井から逆さ吊りにされた。リーダー格の男が、口角泡を飛ばす。


「ぐっ、ほどけねえ! なんだよ! おい下ろせ、おっさん!! 俺を誰だと思ってる!? 法務省の官僚の息子だ!

 他だって大企業の重役の息子とかだぞ!? 今まで揉み消せなかった案件なんてない!! お前らなんか、す――――!」


 バシュッ!


 わめいていた男の口が、白い粘液で塞がれる。

 瞬時に固まり、束ねた綱のようになった。男は口を塞がれてそのままもがき続ける。

 他の男達も同様に、口を糸で封じられた。くぐもった声が病室に響く。


「お前たちの身分や来歴なぞ知らん。わしにとって肝要なのは、より良いウツロを造って目的を為すこと。そして」


    ――――ド スッ


 鈍い音が古びた病室に響く。ヴェーレンの拳がカッターシャツごと男の腹にめり込んでいた。


「小僧が暴走していた場合、それを止めることだ。貴様らにかかずらっている間も惜しい。さっさと終わらせるぞ」


 ぐっ   ぐふっ    かはっ      か――――


 男の口元、糸でふさがれた隙間から、濁った黄色い吐瀉物としゃぶつ、胃液がたらたらと流れる。

 気を失ったのか眼は上を向き、身体はびくっ、びくっと痙攣けいれんしだした。

 それを見た残り四人の男達はもがくのをやめ、一様に押し黙った。その代わり言い知れぬ恐怖に囚われ、カタカタと震えている。

 那由多は、床にうずくまった若い女性二人を片手で一人ずつ担ぐ。そのまま病室の隅に寄せた。

 ガムテープの戒めを薄紙を破くように切り裂く。そのあとひとりごちた。


「ふう、結局自分では何もできない、親の威光にすがるだけの哀れな男、か……。

 特に強制はしないけど、これから起こることに関しては……目を閉じて、耳もふさいでたほうがいいかもね」


 それを聞いた若い女性二人は口を塞いでいるガムテープを取るのも忘れ、目をぎゅっと閉じて両手で耳を塞ぐ。

 那由多は女性二人の前に立った。


 ブゴーーーー!   ブゴーーーー!   ブゴーーーー!


 濁った紫色に染まった片耳の豚は、鼻息荒く男達を見据える。


「ほら、ごはんの時間よ。

 いつも以上に、遠慮なく――――喰い散らかして」


 それを合図に、男達の真下を片耳豚カタキラウワが音もなく駆け抜ける。

 すると、男の一人に恐ろしい変化が起こった。


「……グッ!? グウウウウウウウーーーー――――!!」


 身体から、空気が抜けるように細くなった。皮膚が立ち枯れの木にも似た色に変色する。

 ものの十秒もかからず、放置した干し肉のような異様な姿になった。周りの男は、再度逃れようともがいた。

 が、死を司る豚の妖魅は躊躇ためらいなく、隣に吊るされた男に鼻先を近づける。

 もう一人の身体が、膨らんでいた風船から空気が抜けるかのように、シュウシュウと音を立て、骨と皮だけになりさばらえた。


 ぼたりと落ちた、むごたらしい二人分の死体。妖魅の豚は、それをがつがつと平らげる。

 抵抗しようにも動けない、吊るされた二人の男は恐怖におののいた。先ほどまでとは打って変わって一人は泣きだし、またもう一人は糸でできた口枷くちかせ越しに歯がカチカチ鳴っている。


「もう二体程にしておくか。

 那由多」


 名前を呼ばれた妖艶な虚神は、真っ赤なスカートのスリットを指で開いた。

 太腿の外側に埋め込まれた、暗く濁った宝珠が覗く。


「妖魅顕現、往獣おうじゅう邪魅じゃみ

 同じく妖魅顕現、喪獣そうじゅう陰摩羅鬼おんもらき


 暗がりに、黒煙を吹いたように妖気が立ち込めた。

 その中から、一体はいぬや狼に似た、四つ足で灰色の毛に覆われた妖魅。もう一体は、人面に近いかおを持つ怪鳥が顕れる。


 墓土や洞穴の奥から吹き込むような、底冷えのする妖気、死の匂いをまとった妖魅を見た男たちは、そのショックで気絶した。口元から白い泡を吹き、小刻みに痙攣けいれんする。

 新たに出現した二体の妖魅は、一人ずつ男たちの生命を吸い取り、塵に還す。


「頃合いや、良し」


 ヴェーレンは懐から、捩子ねじくれた黒い小振りなナイフを三本出す。


ウツロを生み出す黒珊瑚くろさんごを削り出して作り上げた刃、黒刃こくじん。ヒトの魂を喰らった妖魅を虚の刃に変えよ。

 『虚刃化グラディティオー』!!」


 虚神の幹部が妖魅に黒刃を投げつける。今度は三体の妖魅、片耳豚カタキラウワ、邪魅、陰摩羅鬼の身体が引き絞られるように細くなった。


    カラン   カララン


 三振りの刃物がリノリウムの床に落ちる。

 ヴェーレンは拾い上げた刀の一本、全長五〇cm程の脇差わきざしさやから抜く。

 品定めするように眺めた。さやだけでなく刀身が紫色に艶めくそれは、暗闇の中でさらに禍々まがまがしく映えた。


「ふむ、出来はまずまずか。試し斬りに一人、というのはいささか少なかったか?」


 ヴェーレンは那由多の後ろ、二人の女性を見やる。女性の姿の虚神幹部は、頭を抱えて縮こまっている女達の前に、腕を組んで立っていた。


「性能は一人試せば済むんじゃない? この子たちは警察――――公安F課に連絡させる役目があるから、生かしたまま帰すわよ」


「……そちらは任せよう、ではこいつで試させてもらうか」


 紫色の刃を手に取る。視線を少し上げた。

 逆さ吊りにされたリーダー格の優男――――

 ヴェーレンは鋭い鉤爪で、カッターシャツのボタンをぷつぷつと切り落とす。細く白い腹が露わになった。

 今までの残忍な仕打ちとは違い、幼子を寝かしつける時のように、努めて優しく男の腹を慰撫いぶする。

 そのおぞましい感触に、男は再び意識を取り戻した。薄ら寒い病室の中でなお、冷や汗が止めどなくたらたらと流れ出る。

 長い腕、鋭い鉤爪に似合わない繊細さで、殊更ことさらいつくしむように撫で続ける。

 虚神の幹部は、男に対して子守唄でも歌うかのように、静かな口調で言葉を繋げた。


「お前たちはここで、数多あまた女子おなごを慰み物、いや喰い物にしてきたのであろう?

 このまま生き続ければ、飽きるまでそれを続けた筈。それを咎めようとも、死して償えとも思わんし、言うことも無い。

 我らはもとより、度し難き衆生しゅじょうゆるし救う為に動いているわけではないからな。

 これからは、生と死の狭間で苦しみながら、罪という腐った泥、錆びた鉄屑の中で更に罪を塗り重ね」


 ヴェーレンは言葉を一旦区切る。




「――――害悪と厄災を撒き散らせ」




 逆手さかてに持った脇差しを、男の腹に深々と突き刺した。




「「「――――――――――――!!!」」」



 男と若い女性達、三人の声なき悲鳴が病室に響いた。

 刺された男の生と死、魂と罪業ざいごうが煮えたぎり、そして分解される。

 男の身体は、瞬時に数個のオレンジ色のオーブ、そして鉄錆や黒煙こくえんにも似た不浄な気体、虚霧ウツロギリに変貌した。


 カシャン


 男が持っていた大型のスマートフォンが床に落ちる。

 ヴェーレンは、胴体から伸びた二本の腕に宝珠をたずさえていた。強く念じるとオーブと虚霧はそれぞれ別の宝珠に吸い込まれる。

 その後、再度脇差しをあらためた。


「ふむ、急拵きゅうごしらえの割りには斬れ味はまずまずか。那由多、儂は小僧を抑えに行く。後は任せた」


「ええ」


 細長い手を伸ばし、スマートフォンを手に取った。


「ソルム・スピナー」


 文言を唱えると、片手から画面に幾条にも糸を伸ばす。画面が鈍く光るのと同時に、画面から部屋を覆い尽くさんばかりの糸が伸びる。

 ヴェーレンの身体が糸に包まれるのと同時に、糸と一緒に、徐々に虚神の首魁は吸い込まれていく。最後はスマートフォンだけが残った。

 那由多は小さく息を吐き、若い女性二人に声をかけた。


「もう済んだわ。さあ、帰りなさい。できれば警察、それも公安庁F課の倉持安吾か、清楽きよら秋子に連絡入れてもらえると助かるわね。ま、無理にとは言わないけど」


 二人とも耳に両手を当てたまま、その場を動こうともしない。


「世話が焼けるわね」


 那由多は一人を小脇に抱え、もう一人を肩から担ぐ。そのまま埃の積もった廊下を抜け、裏口へ向かう。


「ほら、ここでいいでしょ。今さら言うことじゃないけど、悪い男には気をつけることね」


 二人は夜の外気に晒されしばらく動けなかったが、それでもなんとか重い腰を上げた。

 お互いを支え合うように、よろよろと車道へ向かった。


「ふう、どうしても女の子に手をかけさせるのは気が引けるわね。

 それにしても、今見逃しても更なる地獄を見ることになるかも。

 今ここで殺されたとしても生き延びても、『三大御霊』が揃った時……」




 那由多は空を見上げる。曇天どんてん模様の空は、病室内での惨事同様、濁った重油のように、重くくらかった。

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