第六節 森倉文香はかく語りき④
並の知性さえあれば、扉が施錠されていることぐらい分かるはず。
だがソレは、乱暴に扉を引き続けた。
もう耐えられなかった。
その暴力的な音に追われるようにして、文香は自室に逃げ込んだ。
文香の部屋のドアに鍵はない。
ドアを閉め、内側から押さえるように座り込む。両手で耳を塞いだが、それでも玄関の音はまるで脳を揺さぶるようであった。
「誰か、助けて……」
思わず情けない声が漏れる。
追い詰められすぎて、行動を起こす気力すら失われていた。
このままあの玄関の音が続けば、それを聞きつけて隣人が見に来てくれるかもしれない。そんな消極的な考えしか浮かばなかった。
ところが。
不意に、音が止んだ。
完全な静寂が訪れる。
諦めたのか? アレは立ち去ったのか?
そんな希望が湧き上がった瞬間だった。
ズズッ
ガッ、ガッ
違う音がした。
普段の生活の中でも、普通に聞く音であった。
鍵穴に鍵を差し込み、回そうと試みる音だ。
アレはここに至り、ようやく鍵を使うことを思いついたのだ。
ズズッ
ガッ、ガッ
ズズッ
ガッ、ガッ
順番に、鍵を試している。
自分の家の鍵がどれか分からないのか。
父ならば、絶対にありえない。
しかし。
ズズッ
ガッ、ガッ
ズズッ
ガチャン。
鍵が開く音がした。
ソレはやはりこの家の鍵を持っていた。
文香は漏れ出る悲鳴を両手で押さえ、ドアに全体重をかけた。
あの時玄関のチェーンを掛けていれば。
ただ無策に座り込まずに、ドアの内側にバリケードしておけば。
そんな後悔が浮かぶが、もう遅い。
今出来ることは、全力でドアを押さえることだけだった。
「(うううっ……)」
思わず涙が溢れた。
今まで十年、父親と二人の家庭で生きて来た。
けれどただの一度も思わなかった。
自分の部屋に鍵が必要だなんて、一度も思わなかった。
それなのに……。
泣きながら、今は全身でドアを押さえる。
そして耳を当てて、廊下の気配を探った。
ポタリ。
ポタリ、ポタリ。
聞こえてきたのは、水が垂れる音であった。
やはりあの廊下の水滴は、ソレが原因だったのだ。
ペタ、ペタ、ポタリ。
ペタ、ペタ、ポタリ。
足音と水滴の音が、ゆっくりと近づいてくる。
水滴の跡を見る限りでは、ソレはこのまま部屋の前を過ぎてダイニングに向かうはずである。
しかし。
ペタ、ペタ、ポタリ。
ペタ……。
文香の部屋の前で、それは立ち止まった。
文香は息を殺し、静かにドアを押さえる。
だが。
ずずぅ……。
続いて聞こえたのは、よく分からない音であった。
「(何の音……?)」
何というか、鈍い小さな音だった。
木目の板を、手でこすったような摩擦音……。
……。
理解して、血の気が引いた。
文香がそうしているように。
ソレもドアの向こうから、耳を当てているのだ。
文香の部屋の気配を探るために。
文香は息を止めた。
指一本動かせなかった。
ハァ……ハァ……。
扉の向こうからは、ソレの荒い呼吸音が聞こえる。
自分の鼓動の音が聞こえてしまわないか、不安で仕方なかった。
文香との距離は扉の厚み分、五センチも離れていないのだ。
早く立ち去ってくれ、とだけ願う。
だが不意に、更なる窮地に気づいた。
口元を押さえた文香の手の甲を、涙が伝っていたのだ。
流した涙が雫となり、小指の端に溜まっていく。
文香はその過程を、恐怖で指一本動かせないまま見ていた。
涙の雫が、落ちる。
ポタリ。
床に落ちて、雫は音を立てた。
小さな、だが明らかな音であった。
これが聞こえなかったはずがない。
文香は絶望のあまり、足の力が抜けていくのを感じた。
だが。
ポタポタッ
音がしたのは、ドアの向こうも同じであった。
ソレは文香の涙の音を、そちら側の水滴と思ったようだった。
ずずずっ、と耳を離す音。
そして、ソレの気配が遠ざかっていく。
文香は全身の硬直を解き、久しぶりに息をした。
「(はぁ……はぁ……)」
静かに、ゆっくり長く呼吸をする。
一体何が起きているというのか。
恐怖が頂点を過ぎ、今になってやっと疑問が湧いてくる。
足音の様子からアレが今、ダイニングに入ったのを感じた。
ということは、やはり朝の水浸しはコレのせいではないのか。廊下の水は少量なので乾いてしまい、ダイニングだけ水が残ったのではないか。
ではコレは何なのか?
父の靴を履き、家の鍵を持ち。
だが明らかに父とは違う振る舞いをするコレは。
……。
…………。
自分でも驚いたことに。
文香は音もなく自室のドアを開けていた。
最低限の隙間から、這うようにして廊下に出る。
足音はダイニングから動いた気配は無い。
文香は足音を殺しカタツムリのような速度で、廊下を這い進んだ。
恐怖がなくなったわけではない。
だがもっと強い衝動に突き動かされていた。
つまり文香は抗えなかったのだ。
アレが父親でないと確認したい、という衝動に。
● ●
ダイニングのドアは、小さく開いていた。
運が良いと思った。これで覗く時に音を立てずに済むからだ。
だが実際は、音の心配をするなど杞憂であった。
ソレはもはや文香など眼中になかったからである。
ばしゃり
水音が聞こえてくる。
……さま、
……おまもり………ください……
そして漏れ聞こえてくる小さな声。
文香はソレを見た。
ソレは……父は祈っていた。
テーブルの上に、あの忌まわしい黄金像を置き。
それの前で床に這うようにして祈っていた。
おまもりください………。
おにだぶつさま……おまもり、ください……。
ろれつが回ない拙い言葉で、父は祈りを捧げていた。
一心不乱に祈っていた。
とおざけ……ください……
おまもりください……
“とうとろ”から……おまもりください
そこまで祈ると、父は傍にあるバケツに両手を入れ水を掬い上げた。そして膝をついたまま近づき、その黄金像へとかける。
ばしゃり
水がテーブルから床へとこぼれ落ち、広がっていく。
とおざけください……
おまもり……ください……
おそろしき“とうとろ”から……われらを……
おたすけください……おにだぶつさま……
父は明らかに正気を失っていた。
理性の感じられない虚ろな瞳で、呂律の回らない舌遣いで、ヒトとしての機能を大幅に欠損した鈍い動き方で、無我夢中で祈っていた。
すでにアレは父ではない。父の中に何か別のものが入って、慣れない体を動かしている。そう直感させる異常さがそこにはあった。
文香はその絶望的な光景を見て、理解した。
つまり昨晩もこうして、父だったモノは祈りを捧げていたのだ。
そしてだからこそ、父は今日一見して調子が良さそうだったのだ。
父の『祟り』は偶然解けたのではない。
黄金像に支配され、なり下がったのだ。
祟るにも値しない存在に。
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