第五節 森倉文香はかく語りき③


 父親はいったいどこからあれを盗ってきたのか。

 それが問題であった。


 少なくとも文香がインターネットで探した限りでは、京都の美術館あるいは神社仏閣で盗難があったというニュースは出ていなかった。

 無論、事件になってないのならそれに越したことはない。


 しかし文香は、むしろ嫌な予感に苛まれていた。


『あれは事件にできない程危険な物なのではないのか?』


 実際にあんな異常事態を引き起こす黄金像である。

 あれは世間に秘匿されて畏れ祀られるべき『本物』。

 だからこそ公の事件になっていないのではないか?

 だからこそ父は不当な手段で入手したのではないか?


 父親に怒鳴られたあの夜以来、そんな疑念がとめどなく文香の胸中に渦巻いていた。

 もちろん理論的に考えてみれば、あるいは思い過ごしという可能性もある。父親だってへそくりぐらいあるかもしれないし、何か文香が知らない臨時収入があった可能性もある。預金が減っていなかったぐらいで、あれを盗んだと断定することは出来ない。


 とはいえ。


 理屈を超えた確かな予感を、あの夜に感じたのだ。

 あの人の変わったような父親を見て。


 あの黄金像は、持ち出してはいけないもの。

 それを愚かにも持ち帰ってしまった。

 だから父は、そう、


『祟られている』


 その言葉がひどく的確な気がした。



     ●      ●



 あれ以来、父親と文香はほとんど口をきいていなかった。どんな顔をして接すれば良いか、もう分からなかったからだ。あの夜の後で父親に盗難を問いただすには、文香はあまりに臆病すぎた。

 夕飯の差し入れは続けていた。だが父親は薄暗い部屋の中でさらにやせ細り、金色のチリはますます増えていた。文香が高校に行っている間なので定かではないが、あまり大学にも顔を出していない様子だった。



 ところが幾日か経って、急に軽快の転機が訪れた。

 朝起きると、小さな事件が起きていたのだ。

 文香がダイニングルームへ行くと、テーブルから床に至るまで水浸しになっていたのだ。まるでテーブルの上でバケツでもひっくり返したような有様であった。

 雨漏りか、あるいは水道管の破損か。原因は分からなかったが、現時点では新たな水漏れは無いようだったので、とりあえず文香は水を拭くことにした。

 そして文香が拭き掃除をしていると、父親が珍しく部屋から出てきたのだ。そうして部屋の外で会うのは、数日ぶりのことであった。明るい場所で見たためだろうか。不思議と父の黄疸は以前より軽くなっており、少し痩せも治って来ているように思えた。

「こりゃあ、大変だぁ」

 ダイニングルームの惨状を見て、父親は間の抜けた声を挙げた。この大惨事の前で呑気すぎる感もあったが、以前の父の温厚さを感じて文香は少し嬉しく感じた。

「何があったんだろうなぁ」

「雨漏りしては、昨日雨なんか降っていないしね」

 二人で拭き掃除をしながら、久しぶりに気楽な会話が出来た。新たに起きた小さな問題が、上手いきっかけになったようだった。

 掃除が終わった後は、二人で朝食をとった。

「すまなかったな。心配をかけて」

 父親はトーストを食べながら、申し訳なさそうに言った。

「やっと謎が解けたよ。あの像がどこから来たのか。何なのかやっと分かった。もう資料整理は十分だ」

 それを聞いて、文香は安堵した。どうして状況が良くなったか分からないが、ともかくあの部屋籠りを止めるのは良いことだ。

「じゃあ、もうあんまり部屋で研究しなくても良いの?」

「ああ、もう最後に簡単な確認作業をするだけで終了だ」

「よかったぁ」

「すまないな。いい歳して子供みたいに夢中になって」

「ううん。良いの。それが父さんの才能だから」

 文香はそう答えて笑った。

 そんなに自然に笑えたのは久しぶりだった。



     ●      ●



 その日の夜のことであった。

 ゆっくり風呂に入った文香は、久しぶりに早く寝床に入った。とても穏やかな心持ちだったのだ。父親とは夕食も一緒に食べられた。父は朝以上に生気を取り戻しているように思えた。何が原因か分からなかったが父の『祟り』は、明らかに薄れてきていた。久しぶりに心の重しが取れ、のんびりとした夢を見た。

 ところが夜中ふと、雨が気になって目を覚ました。ほとんど忘れかけていたが、今朝の事件が雨漏れのせいなら何か対策をしておくべきだった。不思議な話だが、夢の中でそう思い出して目が覚めたのだという。

 のっそり起きて自室を出た文香は、しかし妙な違和感で目が冴えた。

 臭いというのだろうか。

 外気の臭いを感じたのだ。

 ちょうど、そう、子供の頃に河原で遊んだ時の臭いだ。

 不思議に思った文香は一歩踏み出し、


 ぺちゃり


 それを足の裏に感じた。

 生暖かい感触。

 文香は慌てて、廊下の明かりを灯す。

 見るとそれが、垂れていた。


 水が。


 水が点々と、廊下に落ちていた

「なに、これ……?」

 それはポタリポタリと数滴ずつ続いている。

 一方は家の奥へ、一方は玄関の方へ。

「……」

 文香は意を決すると、玄関の方へ辿った。

 水滴は、本当に玄関の扉まで続いていた。


 そして、


 玄関の鍵が開いていた。


 確かに閉めたはずなのに。


「父さんが、出かけたの?」

 こんな真夜中に?

 時刻は深夜2時を回っている。

 だが念のため確認してみると、確かに父の靴がなくなっていた。

 いや、これをなくなっているの一言で済ませて良いのか。

 正確に言えば、片方ずつが無くなっていた。

 父の革靴の右足と。

 父のサンダルの右足が。

「どういうこと……?」

 父はサンダルと革靴をバラで履いて外出したのか。

 しかも両方とも右を。

 蒸し暑い夜であったが、薄ら寒さを感じて文香は身震いした。

「……」

 とりあえず、カチャリ、と玄関に鍵をかける。

 父親はスマホを持って出たのだろうか?

 ともかく連絡を……。

 そう思った時であった。

 


 ガンッッ!



 目の前の玄関扉が、大きく震えた。

 扉の向こうから、誰かが勢い良く開けようとした音だった。

 父親が帰ってきたのかと思い、文香が反射的に鍵に手を伸ばそうとした時であった。


 ガンッ!


 ガンッッ!


 ガンガン! ガンッッ! 


 ガンガンガン、ガンッッッ!!!

 ガンガンガンガンガンガンガンガンガンガンッッッッ!!!!!


 常軌を逸していた。

 鍵のかかった扉を前に、ソレはただ力任せに扉を引き続けた。

 まるで知性のない獣のように。


 ソレは明らかに文香の父親ではなかった。


 少なくとも、以前の父親では。

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