第四話 森倉文香はかく語りき②


 その日以来、父はほとんどの時間を自室で研究に費やすようになった。大学には最低限の仕事と講義に顔を出すだけ。あとは一直線で帰って来て自室に籠もり、手に入れた資料を吟味する。そういう生活だ。

 しかし文香も当初は、そこまで問題視していなかった。案の定こうなったかと思っていたぐらいだ。

 むしろ最初に気づいた異常は、チリについてあった。

 父が帰宅して数日後、家の廊下が蛍光灯を反射しチラチラと光っているのを目にしたのだ。ぬぐってみると、指先に金色の細かいラメのようなものが付着した。

 なぜこんな粉が廊下に落ちているのか分からなかったが、その日は深く考えず掃除機をかけて終わりにした。

 本当に不気味に思ったのは、その翌日であった。

「よく掃除したのに……」

 昨日より明らかに量を増した金色のチリが、廊下に散っていた。

「どういうこと……?」

 それが最初に出た明らかな異常であった。

 時を待たずして、その金粉は別の場所にも出現するようになった。


 それは父の洗濯物であった。


 下着やシャツの内側に、あの金色のチリがビッチリ付着していたのである。廊下の金粉がどこから来たものか、もはや明らかであった。

「父さん、聞きたいことがあるんだけど……」

 文香は意を決すると、父の書斎へと踏み込んだ。

 夕食はいつも運んでやっていたが、父ときちんと相対するのは京都からの帰宅以来初めてのことであった。

「どうした文香?」

 そう言って振り返って父親を見て、文香は愕然としたという。

 父がわずか数日で、見違えるほどに痩せていた。そして薄暗い部屋の中でパソコンの光で透かし見る父のその顔色は、まるで黄疸のようにまだらに変色していたのだ。

「と、父さん、ちゃんとご飯食べてる!?」

「何を慌てているんだ、文香? ちゃんと食べているぞ」

 そう、食べているのだ。それは文香も知っていた。

 差し入れる夕食を、父はきちんと完食していた。どうせ研究に夢中で昼食を抜いているだろうと思い、多めに盛り付けてある夕食をだ。

 だからこそ異常であった。食べてないから痩せるならともかく、食べているのにこの痩せ方は尋常ではなかった。

 続いて気がついたのは、部屋の異常な湿気であった。

「父さん、暑くないの?」

 夏だというのにクーラーもかけず、そして部屋の隅では加湿器がかかっている。部屋に入って一分も経たないうちに、文香は自分の肌がじっとりと湿ってくるのを感じた。

「すごい湿気みたいだけど……」

「ああ、まあな。でもこの数日そんなに暑くないだろ」

 確かにこの数日、曇り続きで比較的マシであったのは確かだ。

「それにこれぐらいの湿度の方が、美術品や古書には良いんだよ」

 そう言って父は、額の汗をハンドタオルでぬぐう。

 黒いタオルが黄色く、いや金色に染まるのを文香は確かに見た。

 文香は意を決して言った。

「お、おかしいよ、父さん。病院に行こう!?」

「何を言っているんだ文香? お父さんはご飯もきちんと食べているし、絶好調だぞ」

「だって、でも、そんなに痩せちゃってるし、それに汗の色が変だしっ、絶対に普通じゃないよ!!」

「汗の色? ん、なんだこれは」

 父はそう言われてタオルを見て、初めて気がついた様子であった。

「ね、おかしいよ。絶対病院かかった方が良いよ」

 しかし父親は文香の心配などどこ吹く風で、一人納得して言った。

「ああ、そうか。ずっと鬼陀仏様を調べてたから付いたんだな」

「は……?」

 文香には理解できなかった。

 なぜこんな異常事態を、父親がすんなり受け入れてしまうのか。

 そもそもなぜ父親は、言われるまでこんな異常に気づかなかったのか。

「父さん、何を言っているの?」

「何って、文香にも言っただろ? この前手に入れた仏像だよ」

 そう言って示した父の目線の先、飾り棚にそれはあった。

 冷たい笑みを浮かべ、禍々しい二本の角を生やした黄金の像が。

「……」

 不思議なことに。

 文香の目には、その黄金像が数日前より少しだけ大きくなったように見えた。まるで父親が痩せ細る代わりに、肥え太ったかのように。

 文香は何の根拠もない、しかし確かな予感に打たれた。

 この像のせいだと、直感した。

「……ねえ、父さん。あの像って、どこで買ったの?」

「なに……?」

 問われた父親は、不機嫌そうに唸った。

「箱書きとか鑑定書とか付いてなかったの? 何か由来が分かるものは」

「いや、なかったよ」

 父親のぶっきらぼうな返事を聞き、文香は数日前に押し殺した疑問が再び湧き上がってくるのを感じた。

意を決して、尋ねた。

「ねえ、父さん……あれ、幾らで買ったの?」


「うるさいなっ!!!」


 父親は、突然暴発したように怒鳴りつけた。その声に驚いて尻餅をついた文香に対して、さらに父親はギラギラと目を血走らせて叫んだ。

「なんで根ほり葉ほり聞かれなきゃならないんだっ。お前にも分からないのかっ、あの仏像の価値がっ! あれはなっ、歴史的資料なんだよっ! 奥州藤原氏最大の謎を解明する手がかりなんだ!それをそれをっ!!」

「ひっ」

 文香がか細い悲鳴をあげて縮こまるのを見て、父はやっと我に返ったようだった。あの温厚な父親が、文香を怒鳴りつけるなど初めてのことであった。

「す、すまん。つい……」

「ご、ごめんなさい……ごめんなさい……」

 父は謝ろうとしていたが、文香は後ずさり逃げるよう部屋を後にした。

 父親は今、明らかに正気を欠いていた。これ以上父親と話す恐怖に耐えられなかった。

 そして何より、確かめなければならなかった。

 気が狂ったように叫ぶ父親を見て、予感してしまったからだ。

 

 

 森倉文香は夜の街を走った。

 銀行は閉まっているので、一番近所のコンビニを目指した。

 コンビニに駆け込むと、一目散にATMに噛り付いた。

 家にあった銀行カードを片っ端から突っ込み、預金残高を確認した。


 結果は、絶望的であった。


「う……ううっ、うううううう……」

 コンビニを出た文香は、うめき声をあげながら泣いた。

 いったいどうして良いか分からなかった。


 預金額は減っていなかった。


「うううう……おとお、さん……」

 これなら、全財産注ぎ込まれた方がまだマシであった。

 借金を背負われた方がずっとずっとマシであった。

「お父さん……どうしちゃったの……」

 森倉文香は正しく理解した。

 思い出せば、そうであった。

 父は手に入れたとは言ったけれど。

 京都から帰って以来、ただの一度も言わなかったのだ。



 『買った』とは。

 

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