第七節 森倉文香はかく語りき⑤
森倉文香は廊下を這い戻ると、朝まで自室でうずくまって過ごした。
ドアの前には念のためベッドを移動させ、開かないようにはしておいた。だが実にところ、バリケードはもう必要なさそうだと感じていた。
アレはもはや文香のことなど眼中にない。
あの存在はただ恐れ、黄金像に縋ることだけに夢中である。
そういう印象を受けた。
なんと言っていたか。
おにだぶつ、は聞こえた。鬼陀仏と言っていたのだろう。やはりあの像は仏像のふりをした鬼であったのだ。
しかし、もう一方はなんと言っていたか。
とうとろ? とおとろう? とうとるぅ?
そのどれにも聞こえた。
知らない単語のせいか、文香にははっきりと聞き取れなかった。
アレはいったい何を恐れているのか。
何からの庇護を求めているのか。
「……いや、もう……どうでもいい」
問題はこれからどうすれば良いかだった。
朝になったら、父はまた幾分かの正気を取り戻すのか。
それが最大の問題であった。
もし昨日のように取り戻すのなら、それが最大のチャンスであろう。
「病院……お祓い……?」
どちらにせよ、騙してでも連れていかなければならない。
そう決意し、文香は毛布にくるまって座り込んだ。
眠らず、だが体力は温存しなければならない。
明日のために。
● ●
父だったモノは、夜中何度か廊下を往復しているようであった。
どうやらあの黄金像にかけていたバケツの水を、わざわざ外に汲みに行っているようであった。水道を理解していないのかもしれなかった。
明け方近くになり、ようやく動き回る気配がなくなった。
良い兆候であった。
やはり日中は正気を取り戻すのかもしれなかった。
朝日が昇る頃になって、文香は意を決して部屋を出た。
勇気をもって、父を起こそうと……。
しかし父の部屋のドアは、ノックするまでもなく開いていた。
書斎、兼、父の自室のドアである。
慌てて覗き込むと、部屋は荒れ果てていた。
金のチリが積もり、本が散乱している。
そして父親の姿は無い。
「お父さん……」
無論返事はない。
慎重に足を踏み入れると、金粉がふわりとまった。
だが文香を恐怖させたのは、もはや見慣れた金のチリではなかった。
「なに……これ……?」
部屋中に無数に重ね、あるいは投げ出された書籍類。
その題名がおかしかった。
『伝承の中に見る鬼』『鬼譚』『アニミズムとして見る鬼』『鬼の民話に隠された真理を紐解く』『鎌倉における鬼文化』『鬼の担い手、神の語り手』『鬼のわらべ歌を--』『--鬼神と災害の--』『鬼とは--』『--陸奥の鬼街道』『--鬼の--』『--鬼』『鬼--』
「……どういう、こと……?」
父親は、奥州藤原氏について調べていたのではなかったのか。
この一週間あまり、いったいなにを調べていたというのか。
そして、部屋の奥にそれはあった。
父の机の上にあの黄金像が鎮座していた。
明らかに一回り大きさを増していた。
その像の足元には、紙切れが置いてあった。
父からの手紙であった。
● ●
「うううう……」
文香は涙をこらえながら歩いていた。
無力だった。
誰かに相談したかったが、誰に相談して良いか分からなかった。
警察に相談してしまって良いのか。
だが一度相談してしまうと、後には戻れない。
そしてそもそも信じてもらえるのか。
あるいはお祓いをする神社に行った方が良いのか。
それともお寺だろうか。
そんなことを考えているうちに、いつに間にか高校へ来てしまっていた。気づけば服もいつもの制服である。外出できる服にならねばと考えたのは覚えているが、いつのまにか朝の習慣通りに動いてしまったらしい。
こうなったらともかく、どこかに落ち着いて座って考えよう。
文香がそう思って、校門から歩み入った時であった。
ぐい、と後ろから腕を掴まれたのだった。
振り返ると、見知らぬ女生徒が文香の腕を恐ろしい力で掴んでいた。黒い前髪を目が隠れるまで伸ばした、顔色の悪い女生徒であった。
そしてその女生徒は、ヒステリックな声で叫んだ。
「貴女、なんてもの持って来てるのよっ!」
文香が何のことか分からず狼狽するうちに、その女生徒は突き飛ばすようにして文香の鞄を奪った。
「痛っ」
尻もちをついた文香には目をくれず、その女生徒は文香の鞄をあさり始める。
「なにするんですか、やめてください!」
慌てて立ち上がり鞄を取り返そうとしたが、その前に女性とが取り出したものを見て文香は動きを止めた。
それはタオルで包まれた塊であった。
そしてその女生徒が目的としたモノがその塊であることは、彼女の絶望に染まった眼差しを見れば明らかであった。彼女はブルブルと震える手でタオルを剥がし……。
「うっ……」
その黄金色を一目見た瞬間、彼女は像を取り落とした。
像は鞄の上に落ちて無傷であったが、女生徒の反応は尋常では無かった。彼女は膝をついて座り込むと、両手を口に当ててうめき始めた。
「ど、どうしたんですか」
文香も慌てて声をかけるが、彼女の目は黄金像に釘付けであった。
「こんな……恐ろしい物が……」
そう彼女は呻いていた……。
「どうしたんですか? これが何か知ってるんですかっ!? なら教えてください! この像は、私の父を」
「やめてっ!」
一縷の望みを見出し聞き出そうとした文香を、彼女は叫んで制した。
「止めて……それ以上、話さないで……」
彼女はほとんど蒼白という顔色になり、ブルブルと唇を震わせていた。
「無理……とても私には無理……普通の穢れじゃない……」
「穢れ……?」
聞き返した文香に、彼女が答えたのはある名前であった。
「君谷……ほたる……一年の……」
「きみたに、ほたる? うちの高校ですか?」
「こんなの……あの子ぐらいしか扱えない……」
「……どういうことですか?」
だが彼女はそれ以上答える気は無いようだった。
口に手を当てたまま、フラフラ立ち上がると言った。
「お願い……それ以上私に近寄らないで。聞けば……探せば知ってる人、いるから……もう行って……」
そして彼女は近くの茂みに入ると、俯いて再び唸り始めた。
どうやら吐いてしまっているようだった。
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