Incident longevity.

天霧朱雀

Incident longevity.

Incident longevity.


 八月のうだるような暑さ。蝉の鳴く声。遮光カーテンの向こうにはカゲロウのうねる街。

 ぽたりぽたりと水道水が蛇口から零れる。熱に浮かされた部屋で一人と一体。

 白魚のような白い指に、まるで弦楽器のような歌声。流れる美しい茶髪に、冷たい海のような青い瞳。生前の君の話、それも今じゃ床に転がるオブジェ。

 ありふれた今日の僕には少しおかしな点がある。類を見ない、ありふれていないのは彼女の死体。


「このままでは腐ってしまう」


 ポツリと語るが返事はない。息をする事を諦めちゃった彼女は、そこで朽ちるのを待っている。

 しょうがないのでコンビニへ。大量の氷を買いに向かう。アルバイトらしい店員は、奇怪な目をして僕を見るから「今日は暑いからね」と笑ってしまった。やっと店員は得てして普通のリアクション。まぁ、さすがに五キロは買いすぎであろう。僕だってこんなに気温が高くなければ彼女のために氷など買っていない。嘘などついてはいなかった。


「ただいま、愛しのマーメイド」


 帰宅して彼女に呼びかけたが、亡骸になった君からは返事はない。昔あったゲームのよう。返事がないから、ただの屍であった。

 仕方がないので水の張った浴槽に氷をぶちまける。一キロは確実に溶けてしまった。これは買い足すべきか、なんて思ったけれど気がつかなかったことにする。氷はそれなりに質量があって重たいからだ。このおんぼろアパートに運ぶだけでも億劫だったのに、また買いに外に出るのは遠慮したい。ただでさえこの暑さ。こんどは僕が一体になってしまう。

 閉め切った浴室は湿度が酷い。ゲロ吐くような蒸し暑さ。白いワンピースと水色の下着を脱がせた彼女をドボンと水の中に落とした。これで二キロの氷は溶けたことだろう。彼女を沈めて少し時間を置いた。左手をつっこみ水加減をみると、まぁそれなりに冷たい。ないよりマシな氷だが時期に溶けて消えてしまう。物理的に僕の苦労は水の泡だ。

 ぷっかり浮いた小島のような背を見て思い返す。これでは彼女の顔が見えない。

 ため息一つ吐いてひっくり返す。正直な話、顔じゃなくて折りたたんでしまった足の方が気になったから、生きてるときみたいに浸かるような体勢へ動かした。


「ふむ、まるで僕は殺人犯みたいじゃないか」


 一糸纏わぬ彼女を沈め、なんともよろしくない気分になってきた。人の血抜きの仕方は知識になかったから、最初に水に沈めただけなのに、どうして僕はこんな思いをしている。

 いささかおかしな話であろう。僕は人など殺していないのに。


「まぁ、ヒトのアイダと言うなれば」


 殺したこととなるだろう。

 僕はまだ生物学の権威とまでは言われたことはない。若い故に仕方がない。もう二十年もすれば、僕の説を認めてくれなかった学会の老人達も抗えない〝老い〟と言う、時の弾丸に一斉掃射される。それまで辛抱強く待たなきゃいけない。僕自身の時の流れが変われば、体感的にはもうしばらくの辛抱だろう。

 沈んだ彼女をしばらく見ていたが、そろそろ次の行動に移ろうか。くだらない僕の話などどうでもいいのだ。

 氷の入っていた袋を見る。約五キロを浴槽の水の数値にプラスする。軽く電卓を叩いて追加するミネラルと差し引く塩分を計算した。微量金属の比率は誤差の範囲と仮定して、考えないものとした。

バケツ一杯の分の粉になった特製薬を、氷を足した分の大匙摺り切り一杯を差し引いた。引いた方は前もって包丁を浸けていたタライの中に突っ込む。タライのほうは臨界溶液だったが気にしない。

やっとこさっとこバケツの中身を彼女の浸かる浴槽に注ぎ込む。ざらざらと水の中に尾を引いて溶けていく粒を見て、思わず笑みがこぼれてしまう。


「たとえて言うなら羊水か」


 ストレートに言えば海水だ。なんて、自問自答。相手のいない会話はつまらない。

 溶け残りを左手で大きく二回かき混ぜると、計算通りすべて溶けきった。理論上、人工的につくられた海水に彼女の二本の脚には爛れたように皮膚が剥ける。ふやけた皮膚がでろりと剥けて、鱗と鰭が現れる。魚類特融の生臭い香りが、風呂水からするのか彼女からするのかはわからなかった。そんなのにかまってられないほど僕は興奮していた。


「はろぅ、愛しのマーメイド」


 死して生まれた姿に戻るなんて、生命の元である海水じゃないとできない芸当だよね。それとも羊水のおかげで生まれ変わったのかい? まぁそれは追々、論文として発表しよう。データは献体があればいくらでも採取できる。それに伝承によれば人魚の肉を食らえば長寿を授かるそうじゃないか。研究するに時間など腐るほどあるという事さ。

 僕はそっと彼女の唇にキスをした。ぬるりとする魚特有の粘液を舌で拭う。確かにこれは生魚の味だった。


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