陸 妖堕

 これ以上、江戸の近くに留まるのは危ない。早く会津に向かうべきだ。オレたちは夜陰にまぎれて板橋宿を出た。


 日光街道と奥州街道は、宇都宮までは同じ道だ。この一帯はすでに敵の手に落ちている。宿場の旅籠はたごは、いつ御用改めが入るかわからないから避ける。街道沿いの破れ寺や水車小屋で休むか、それも見当たらなければ野宿だ。


 板橋宿を発った夜は、細い月が西に傾きかけるころ、破れ寺を見付けた。携帯していた麦粉こがしを水で練って団子にして食って、横になった。


 くたびれ果てていたのに、眠りは長くなかった。虫の知らせというやつかもしれない。月が沈んで朝日が顔を出すちょうどそのころ、オレは目が覚めた。


 外に出ると、すでに時尾が起きていた。相変わらず、オレが物音を立てるよりも先に気が付いて、振り返って微笑む。


「おはようごぜぇます。一寸つぅとは眠れたがよ?」

「ああ。あんた、その髪は?」


 時尾の長い髪は今、女まげに結われていない。一つにくくってあるだけだ。


「この先、ゆっくり髪を整えている暇はなくなっべし。切っつまってもいいんだけんじょ、脇差ではうまくできそうにねぇから」


 時尾は、あしさばきの邪魔にならないはかま姿だ。男装は、宇都宮で戦うころからだから見慣れてきた。でも、髪まで男みたいにされると、気まずくてならない。女を戦に巻き込んでいる。オレの刀は何のためにあるんだ。


「髪は、切るな。もったいない」


 そっと、時尾は笑った。


「斎藤さまはお優しいなし」

「別に」

「わたし、足手まといにはならねぇように気を付けるけんじょ、武士として戦う力のある斎藤さまと土方さまのお命のほうが大事です。危なくなったら、わたしのことは置いていってくなんしょ」


「ふざけるな。置いていけるわけがない。オレよりあんたのほうが有能だ。オレはもろい。昨日、思い知った。その……迷惑を、掛けた」

「迷惑なんかではねぇです。わたしのほうこそ出しゃばっつまって、お許しくなんしょ」


 子どもみたいに人前で泣いた上に女に世話を焼かれて、男の面目は丸潰れだった。恥ずかしさに、体がじりじりする。時尾の目を見て話せない。


 でも、なぜだろう、逃げ出したいのとは違う。女なんか厄介だから避けたいと、オレは思っているはずなのに。


 自分で自分を持て余している。オレをがんがらめにしていた勝先生の思惑は、もう存在しない。気楽だ。でも、二本の脚で立つことがおぼつかない心持ちにもなる。


「気配を感じて、目が覚めた。あんたもか?」


 いきなり話題を変えてしまった。あまりに脈絡がない。オレは自分に呆れたが、時尾は話に付いてきた。


「はい。強ぇ力に呼び掛けられたようにも感じました。土方さまはまだお休みがよ?」

「寝ている。怪我を押して動き回るせいで、消耗が激しいらしい」


「宇都宮で負った傷は、大怪我だった上に破傷風にもなりかけていたから、わたしの力ではすぐに治し切ることができねかったのです。申し訳ねぇなし」

「あんたがいなけりゃ死んでた怪我だ。いちいち謝るな。土方さんもそんなにやわじゃない。すぐに自力で回復する」


 ふと、鳥の羽音が聞こえた。明けたばかりの空から、白いはとが舞い降りてくる。脚に手紙が結び付けられていないことを確かめて、オレはほっとした。鳩はオレの肩に止まった。


 鳩が風を導いた。そう感じた。一陣の強風が吹き付けた。


 風が匂いを連れてきた。まがうことなき妖の匂いだ。それは同時に、懐かしい気配でもあった。


 人でありながら人ではあり得ない速さの足音が、ぴたりと立ち止まった。破れ寺の傾いた山門に、いてはならない人がいる。


「沖田さん……」


 ひどく痩せた。死の影がはっきりとうかがえるほどに。ひときわ大きく見えるようになった目を、沖田さんは微笑ませた。


「斎藤さん! 追い付いた。よかった。その鳩、見覚えがある気がして追ってきたんだ」


 沖田さんの目は金色で、瞳は猫と同じ縦長だ。黒猫の耳と二股の尾が生えている。口元には牙がのぞく。息を切らして、沖田さんは山門をくぐった。


 ようやくといったていで、天狗の術を使うきょうおんなが空を飛んで追い付いて、沖田さんの後ろに降り立った。オレたちにぺこりと頭を下げる。


 オレと時尾は沖田さんに駆け寄った。


「沖田さんがどうしてここに?」

「誰も何も教えてくれなくて、じりじりしていたんだ。やっとのことで宇都宮の戦の話を聞き出して、もうじっとしていられなくなった」


「体の具合は?」

「化け猫になってるんでなけりゃ、立って歩くのがやっとだ。一戦すれば死ぬね」


「無茶だ」

「構うもんか。斎藤さんだって、布団の上で病に殺されるより、戦場で死にたいだろ? おれも連れていってほしい。詳しい話を聞かせて。一体何が起こってるんだ?」


 どくんと、心臓が不穏な音を打った。


「宇都宮の戦のことは、誰から?」

「永倉さんと原田さんに、泣き落としで吐かせた。甲州に向かった後の流れも、軽く聞いたよ。近藤さんと土方さんは? まだ寝てる?」


 時尾が不安げな目をオレに向けた。胸郭の奥で、嫌な心音が高くなる。顔から血の気が引いていく。


「オレが永倉さんに殴られた話は聞いたか?」

「え、そんなことがあったんだ? 聞き分けのいい斎藤さんが叱られるなんて珍しいね。何をやらかしたの?」


「……新撰組が甲州で負けた理由は聞いたか?」

「ああ、うん、初めから勝てる戦じゃないのがわかってたのに、焚き付けられて甲州に向かわされたって。江戸開城を成し遂げたい勢力が佐幕派にいて、戦意の高い新撰組が江戸にいるのは不都合だったから」


 息が苦しい。何も知らない沖田さんに、オレ自身の口で告げなければならない。


「勝麟太郎が、新撰組を捨て駒にした。オレはそれを知っていた」


 沖田さんの黄金色の目が見張られた。猫の瞳が、すっと、糸のように細くなる。


「負けることを知ってたって意味? どうして斎藤さんが知ってたの?」

「勝麟太郎本人から聞いた。あの人が目指していたことを」

「幕府の勝がやったのは、倒幕派と手を結ぶことだったんだろ? 勝は新撰組と会津を見捨てて、倒幕派の側に付いた。斎藤さんは、最初からそうなることを知っていたのか?」


 沖田さんの手がオレの肩をつかんだ。そのの下に強烈な気を感じる。手の甲にある環がほとんどつながっている。細い手から掛かる力がやたら強い。肩の骨がきしむ。


「全部を知ってたわけじゃない。でも、あの人の考え方や他人に向ける視線、おおよその戦況は、新撰組の中でオレが誰よりもよく知っていた」

「どうして? 斎藤さん、勝とつながりを持ってたの?」


 オレはうなずいた。


「勝先生に新撰組の情報を流していた」


 沖田さんの目が、ぴかりと光った。


「もしかして、品川で勝が明かした話? 勝に人殺しの現場を見られたんだろ? その弱みに付け込まれて、勝に使われていた?」

「オレがあの人に流し続けた情報が、あの人が新撰組を切り捨てる結果につながった。オレが、新撰組に滅びを……」


「滅びって何だよ! どういう意味なのか説明しろ!」


 沖田さんが牙をいて激高した。びりびりと空気が震える。大声をぶつけられたのは何年ぶりだ? 剣を手にしていない沖田さんが怒鳴るなんて。


 肩に鋭い痛みが食い込んだ。爪だ。沖田さんの指から伸びた爪。おそらく、人のものとは違う形の。


 確か花乃という名の京女が、沖田さんの袖をつかんだ。


「あきまへん、沖田さま。落ち着かはってください。妖気に呑まれてしまう」


 沖田さんが、はっと、オレの肩から手を離す。血の付いた指先を見て、オレを見て、困ったように眉尻を下げた。


「ごめん、斎藤さん。怪我をさせるつもりはなかったんだ。おれ、焦ってるね。環の力が暴れちまう」


 危うい。薄氷を踏むように、どうしようもなく危うい。沖田さんの気は、ぐらぐら揺れている。妖の匂いが濃くなる瞬間がある。


 沖田さんはまぶたを閉じて深い息をした。まぶたを開けて微笑む。目が金色であることのほかは、見慣れた笑顔だ。


 それでも危うい。告げるべき真実は、沖田さんの理性と妖気の均衡を突き崩す。一度壊れた均衡は、戻らない。


 隠してはおけない。言わなければならない。


「オレたち新撰組の生き残りは、永倉さんたちを除いては、会津に向かっている。倒幕派は会津を討つために動く。あの人がそう仕向けたからだ」

「それは永倉さんに聞いた。おれも一緒に会津で戦いたい。これがおれの最期になるよ。この覚悟を近藤さんと土方さんもきちんとわかってもらいたい」


 胸が、痛い痛い痛い。引き千切られそうに痛い。


「近藤さんは死んだ」

「え?」


 時が止まる。まばたきも呼吸もやり方を忘れたように、沖田さんが止まった。オレは耐えきれない。肩で息をして、繰り返す。


「近藤さんは、死んだんだ。流山で倒幕派に包囲されて、オレたちをかばうために出頭した。偽名で押し通そうとうとして、無理だった。高台寺党が倒幕派に加わっていた。だから、近藤さんの偽名は見破られて……」


 喉に小さな痛みを感じた。それから、刃のきらめきを見た。いつ抜刀したんだろう? 沖田さんが刀の切っ先をオレの首に突き付けている。


「救わなかったのか? どうして誰も近藤さんを助けなかった?」

「手は尽くした。間に合わなかった。近藤さんは処刑された」


「処刑? おれたちの、新撰組局長の近藤勇が、罪人として処刑? 何でだよ! おかしいだろう! 何で近藤さんがそんな死に方をしなけりゃならないんだよ!」


 後ろから引っ張られてのけぞる。沖田さんが剣を振るう。それがほとんど同時だった。喉に浅い傷が走るのがわかった。時尾がオレを引っ張らなかったら、オレの喉笛は掻き切られていた。


 地を這うようなうなり声が聞こえた。牙の生えた沖田さんの口から、獣の唸りが洩れる。花乃が沖田さんにしがみ付いた。


「あかん! 戻って! 沖田さま、戻ってきて!」


 金色の目の奥に理性が揺れた。でも、一瞬で揺らぎは消える。


 刀を握る沖田さんの右手が変化した。拳の形が刀の柄に溶ける。腕からじかに妖刀が生えた格好だ。それはもう、人の腕ではない。


「まずい……沖田さん、駄目だ」


 沖田さんは、刀の形の右手を見て、鋭い爪の生えそろう左手を見た。黒猫の耳が楽しげに、ぴんと立っている。爛々らんらんと見開かれた目に、興奮と歓喜。沖田さんが顔を上げて笑った。


「嫌や、沖田さま!」


 必死の声も届かない。


 妖気が爆発した。吹き飛ばされて転がる。猫の鳴き声のような獣のほうこうのような、高らかな笑い声が響いた。妖気と殺意と闘志と狂気が吹き荒れる。


「沖田さんが、堕ちた……」


 破れ寺の風景はのっぺりと押し延べられた。朝の光が閉ざされて、おうが時のような薄暗がりが広がる。


 蒼い環が告げる。妖を狩れ。赤き環を断て。歪んだ命を絶て。愚かなる魂を大いなる環、りんに還せ。黒猫のしょうに成り果てた沖田総司を討て。


 逃れられないさだめなのか。絶望ではなく、これはあきらめだ。頭の隅で予測していた。胸の奥で覚悟していた。白虎になりそびれた藤堂さんを討ったときから。


 花乃が立ち上がって涙を拭いた。時尾が脇差を抜いて構えた。


 沖田さんがオレを見て、また笑った。だらりと下げた両腕は、無防備なんかじゃない。がら空きなほどに低く構える。力みが一切ないあの体勢は、沖田さんの癖だ。あの妖は、まぎれもなく沖田さんだ。


 左手の甲が灼熱する。環がオレをしっする。オレは立った。妖刀、ダチつばを弾き飛ばす。オレは刀を抜いた。

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