一 沖田総司之章:Heroes 池田屋事件
壱 遭遇
京都の夏の蒸し暑さは、江戸よりもずっとひどい。ぐるりと山に囲まれた町に
鴨川からいくらも離れていない小路を、北に向かって駆けている。おれとともに走るのは、新撰組三番隊組長、
「斎藤さん、あっちに明かりが見えた」
「ああ。
東西に走る三条通と四条通の間、鴨川を挟むこの近辺には、旅館や料亭が並んでいる。新撰組は今、局長の
おれと斎藤さんが近藤さんたちから遅れたのは、祇園でちょっと絡まれていたからだ。色っぽいおねえさんたちが相手なら楽しい話だっただろうけど、残念ながら、敵は
刀の腕と剛毅な気質で鳴らす新撰組でも、妖を迎え撃てる隊士はそう多くない。おれと斎藤さんと、今回は
だから、おれたちは今、急いでいる。密談中の長州藩士は、きっと妖堕ちしたやつも連れている。妖気に対抗できない近藤さんや土方さんたちだけじゃ危険だ。
斎藤さんは、おれより数歩先を行く。段だら模様を染め抜いた
「派手だなあ」
つぶやくと、斎藤さんが横顔だけで振り返った。
「羽織か?」
「ああ。普段は地味なものしか着ない斎藤さんが身に付けると、なおさら派手に思えるね。田舎臭いはずの浅葱色が、妙に鮮やかに引き締まる。でも、本当はこういう目立つ色は嫌いだろう?」
「好んでは着ない。ただ、この格好なら名乗る必要がない。便利だ」
「なるほどね。浅葱色の羽織に寡黙な長身の美丈夫で、おまけに刀を右に差した左利きとなれば、新撰組三番隊組長、斎藤一であることを、名乗るまでもなくみんな理解するってわけ」
「ああ。そして、勝手に
「そうだね。斬らなけりゃいけない数が多いだけに、相手が弱腰の
斎藤さんはいつも、無駄や隙がない。しゃべり方も考え方もそうだし、その左手が使う剣も、削ぎ落としたように簡潔で端正だ。
走る脚をわずかに緩めて、斎藤さんはおれの横に並んだ。おれの肩を横目で指して言う。
「沖田さんだって、その黒猫」
「うん、確かに。ヤミを連れていれば、おれがおれであることを名乗る手間が省ける」
金色の目を光らせて、にゃあ、とヤミが鳴いた。二股の尻尾が、ゆらゆら揺れる。
前方に見えた明かりの正体が唐突に、はっきりした。
「君は何じゃ! そこで何をしちょる! いつから僕らを
「いや、君、問うとる暇はないっちゃ。おい、娘、そこへ直れ!」
長州訛りの不穏な会話だった。君だの僕だのと耳慣れない言葉で相手や自分を呼ぶのは、
おれと斎藤さんは目を見合わせた。言葉はいらない。面倒くさいけど、放っておくわけにはいかないよね? おれがちらりと刀の柄に手を触れると、斎藤さんは黙ってうなずいた。
路地に駆け込む。景気よく手に手に提灯を掲げた武士が、一斉にこちらを向いた。
「あの羽織、新撰組か!」
「出会え出会え、殺せっちゃ!」
「殺セ殺セコロセコロセコロセコロセ!」
全員の額に、赤黒く入り組んだ紋様の
「見事に全員、妖堕ちしてるね」
おれの環は未完成だ。時をかけて
ふと、若い女の声がした。
「何やのん、今度は
京言葉だ。一歩踏み込むと、壁を背にした声の主が尊攘派にぐるっと囲まれているのが見えた。髪型や服装から察するに、十五、六の商家の娘。きっ、と目尻の釣り上がった丸い目が、どこか猫に似ている。
おれは娘に笑ってみせた。
「無差別に人を斬ってるような言い方、しないでもらえる? おれたちが斬るのは、新撰組の士道に反するやつらだけだよ。妖堕ちして武士の志も何もかも忘れてしまった馬鹿な連中、とかね」
猫みたいな目とおちょぼ口で、娘も笑った。
「あんたはんに何ができはりますのん? 環を持つ者の力場で動けるんは、環を持つ者だけ。どないな剣豪でも、力場に呑まれたら、よぉ動きまへん」
娘が自分の右手の甲を指差した。蒼い環がある。文字ならぬ文字で
「あの環、オレと同じか」
斎藤さんが左の手の甲に触れてつぶやいた。
生まれつき蒼い環を持つ者は、力を得ようという欲から成された赤い環を断ち切ることができる。男だったら特別な刀と一緒に生まれて、女だったら呪術の類が使えるという。
娘は威勢がよかった。
「壬生狼のお二方、巻き添えを食らいとぉなかったら、さっさと立ち去りよし」
「まさか、こいつら全員相手に一人で戦うつもり?」
「ええ。うちひとりで十分やわ」
つんと澄ました一言が、尊攘派の連中の神経を逆撫でしたらしい。連中の気迫が熱を
おれと斎藤さんが同時に刀を抜き放った。おれの肩からヤミが跳び下りる。眉をひそめる娘に、おれは再び笑ってみせた。
「助太刀するよ、お嬢さん」
言うが早いか、おれは、娘とおれたちの間を隔てるように立つ志士を一人、一刀のもとに沈めた。妖に変化しようとした中途半端な格好が無様だ。倒れ伏す志士の死体を踏み越えて、おれは娘を背に
町屋の建ち並ぶ狭い路地が、ぐにゃりと歪む。環の発する力場がおれたちを取り込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます