03 空気抵抗

 クルマはあっという間に目的地に到着した。カイリさんとスバルさんの家は、さっき聞いたとおり、二人で住むにはずいぶんと大きい。昔は大型漁船の乗組員の家族が、合計三十人近く住んでいたらしい。

 瓦屋根が特徴的な、和風なところのある洋館だった。玄関で靴を脱ぎながら、二階まで吹き抜けのホールを見渡して、ほう、と息をつく。

「カッコいい建物ですね」

「だろ? ぼくも一目惚れでね。龍ノ里島に住むことになって、いくつか空き家を紹介されたんだけど、もうここ以外は目に入らなかった。エアコンが付いてなかったり、何かと設備が古いのが玉にキズかな」

「でも、暑くないですね」

 先に家に上がったカイリさんが、ふわふわ舞う白いレースのカーテンを紐でくくった。

「潮風。龍ノ里は、いつでも風が吹いてるから」

 窓を開けておいたら風が抜ける造りになっているんだろう。外出中も窓は閉めないものらしい。玄関の鍵も掛けてある様子はなかった。

 一階には、スバルさんの部屋と台所と食堂、風呂場やトイレがある。おれとハルタの部屋は、二階に用意してもらっていた。

 昔はそこで一家族が生活していたというだけあって、一部屋で十分に広い。ベッドが二つ置かれた区画と、ダイニングテーブルが置かれた区画に分かれている。

「すっげえ! 二段ベッドじゃないベッドって新鮮だな。兄貴、窓際と奥のほう、どっちがいい?」

「どっちでもいいよ。おまえが選べ」

「よっしゃ、そんじゃ、おれが窓のほう!」

 荷物を放り出したハルタは、勢いよくベッドにダイブした。

 ちょうどのタイミングで、カイリさんがタオルを抱えて部屋に入ってきた。カイリさんは、うつ伏せのままベッドで跳ねているハルタに、チラッと笑みをのぞかせる。

「おもしろいやつ」

 カイリさんは、たぶんあまり笑うほうじゃない。口数が少ないのも、人見知りというより、もとからそういうタイプなんだろう。

 おれはよそ行きの笑顔を作ってみせた。

「そのタオル、お借りしていいんですか?」

「適当に使って。一階に洗濯機があるから、洗濯は自分たちでやってもらえると助かる」

「洗濯の件は了解しました。ちゃんとぼくたちでやります。この部屋、いいですね。自然の風が抜けて涼しいって最高です。エアコンの風は疲れるというか、ぼくはちょっと苦手なんですよ」

「そう。足りないものがあったら呼んで。わたし、隣の部屋だから」

 カイリさんは、おれのベッドがくっ付いているほうの壁を指差した。つまり、この壁の向こう側がカイリさんの部屋なんだ。

 ドキッとしてしまった。壁、ちゃんと厚いんだろうか?

 木目が鮮やかな壁に隙間や穴がないかと、一瞬、おれは目を凝らした。バカだなと、すぐに思い返す。去年の夏くらいから、おれはときどき凄まじくバカになる瞬間がある。変な目で女子を見てしまって、自己嫌悪する。自分で自分が気持ち悪い。

 ベッドの上でバタ足をしながら、ハルタがカイリさんを振り返った。

「なあ、カイリ、この家って、ほかにもたくさん部屋あるだろ? そこは使ってねぇのか?」

「使ってない。家具も置いてない。掃除だけはしてあるけど」

「ふぅん。もったいねぇな。誰か住みゃいいのに」

「ハルタが住む?」

「こんな広い家なら大歓迎!」

「でも、もうすぐこの島、何もなくなるよ」

 ハルタがベッドの上に体を起こした。たった今まで笑っていた顔が、難しげに眉をひそめている。こんな顔をすると、ハルタもおれと似ているんだなと気付く。鏡に映るおれは、今のハルタみたいに、いつでも疑問を抱えた顔をしている。

「何もなくなるってマジか? 話は聞いてるけど、実感が湧かない。この島、人口少ないけど人は住んでるし、電気もガスもあるっぽいし、電話線でネットもつながってるらしいし、フェリーには新聞とか郵便とか食べ物とか積んであったし」

 カイリさんは、まっすぐな目でハルタを見つめた。

「島も、人間と同じ。眠りに就くときが来る。それだけのこと」

 風がふわりとカイリさんの髪を揺らした。カイリさんのきれいな横顔は淡々として、だからこそひどく寂しげに見えた。

 龍ノ里島では今、三十人ほどが生活している。お年寄りがほとんどらしい。でも、それもこの八月が終わるまでのことだ。夏が行くとともに、彼らは全員、島から離れることになる。発電施設も全部、別の島に移設されるらしい。

 ハルタが、ニカッと笑った。

「最後だってんなら、なおさら、思いっ切り楽しまないとな。海水浴して、魚釣りして、虫捕りして、夜は花火! 兄貴もカイリも付き合えよ!」

 小学生気分が抜け切っていないやつだ。いや、そこらへんの小学生より、よっぽど子どもっぽい。ため息をつくおれと、カイリさんの目が合った。カイリさんはチラッと肩をすくめて、頬に小さなえくぼを作った。

 まただ。また、ハルタがカイリさんを笑顔にした。おれじゃなくて、ハルタなんだ。

 じりっと痛むような嫉妬が起こった。卑屈な胸の内を隠すために、おれは笑顔の仮面をかぶる。品行方正な優等生を演じていれば、嫌われることはないから。

「すみません、カイリさん。ハルタって、いつもこんなふうなんです。迷惑や面倒を感じたら、そう言ってくれてかまわないので」

「わたしは別にいいよ。それと、丁寧語やめて。カイリでいいってば」

「あ……うん」

 無理だ。いきなり打ち解けたしゃべり方をしろだなんて。せいぜい丁寧語が取れたとしても、猫をかぶって「ぼく」と言うし、相手を呼び捨てにはしない。小学校時代、レースを通じていろんな人と知り合って、その中でおれのスタンスは固まった。

 カイリさんは、おれとハルタの顔を交互に見やった。

「二人とも、おなか減ってる?」

 ハルタがすかさず手を挙げた。

「めちゃくちゃ減ってる! 昼飯が少なすぎた」

 フェリーの乗り替えの合間に、港の売店で買ったおにぎりを食べた。ハルタはもっと食べたがっていたけれど、満腹だと船酔いしやすくなるから、三個目は買わせなかった。

「じゃあ、晩ごはんは早めにしようか。言っておくけど、ここでは肉は食べられないよ。魚や貝ばっかり。好き嫌いある?」

「ないない! 兄貴も、魚も好きだよな?」

「ああ、うん」

「ってか、カイリ、もしかして魚さばけるのか?」

「さばけるけど」

「すっげえ! それ、今からやる? おれも見に行っていいか?」

「いいよ」

「よっしゃ! 兄貴も行かねえ?」

 ピョンとベッドから跳び下りたハルタと、てらいもなくまっすぐに見つめてくるカイリさん。おれはごまかし笑いで、パタパタと手を振った。

「ぼくはちょっと遠慮しま……遠慮するよ。荷物を整理したいのと、やらなきゃいけない課題があって」

 それに、おれはたぶん、魚をさばくシーンは苦手だ。理科の教科書に載っている魚やカエルの解剖のイラストには、背筋がゾワッとする。せっかくの料理を食べられなくなりそうで、申し訳ない。

「まったく、兄貴はくそまじめだな。課題なんか家に置いてくりゃよかったのに。ま、いっか。カイリ、行こうぜ」

 カイリさんはハルタの言葉にうなずきながら、まだじっとおれを見つめている。

「ユリト、疲れてる?」

「そうでもないよ。どうして?」

「疲れてるみたいだから」

 全部を見透かすようなカイリさんのまなざしが気まずい。おれは笑顔の仮面を外さないまま、本当はたじろいでいる。

「こんなに長く船に乗っていたのは初めてだから、少し疲れたのかもしれない。でも、たいしたことないですよ。ぼくのことは気にしないで」

 カイリさんは何か言いかけた。その唇の形がひどく柔らかくて、おれの心臓はドキリと高鳴る。カイリさんは小さくかぶりを振って、おれから視線を外した。

「晩ごはん、できたら呼びに来る」

「ありがとう。ハルタがうるさいかもしれないけど、よろしくお願いします」

「はぁ? おれ、別にうるさくねえっての!」

 ほら、それがうるさいんだよ。小言を垂れたくなったけれど、カイリさんもいることだし、呑み込んでおく。

 カイリさんはきびすを返した。ハルタは、ガキ扱いするなとか何とか文句を言いながら、カイリさんの後を追い掛ける。

 部屋のドアは開けられたままだった。閉めようかなと思ったけれど、ストッパーが掛かっている。

「ああ、風……」

 窓から吹き込む風が部屋を駆けて、ドアから通り抜けていく。部屋の中のどこよりも、ドアのそばに立つのが、風を感じられて涼しい。

 見れば、カイリさんの部屋もドアが開けっ放しだ。のぞいてみたい衝動に駆られたけれど、グッと抑えた。今さらながら帽子を取って、押し込めていた髪をクシャクシャ掻き回す。

 ホールが吹き抜けになっているから、部屋の入り口から一階が見下ろせた。ハルタがカイリさんと並んで、台所へと入っていく。中途半端に変わりかけた声をときどき裏返しながら、ハルタはいつも以上によくしゃべっている。

「なあ、カイリ!」

 屈託なくその名前を呼び捨てにできるハルタがうらやましい。どうしておれはあいつみたいに自由になれないんだろう?

「か、い、り……カイリ、カイリ」

 練習してみる。その途端、顔がほてって心臓が騒いだ。ダメだ、うまくいきそうにない。

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