#02 朝の海の雫

01 ダウンヒル

 枕が変わったら眠れないなんて神経質なことを言うタイプじゃないと思っていた。でも、事実として、おれは一睡もできなかった。ときどき寝言の交じるハルタの寝息を聞きながら、気が付いたらもう朝の五時だ。

「あきらめるか」

 布団に入っていたってどうしようもない。普段、眠れるのは午前三時から四時過ぎにかけて。そのタイミングを逃すと、ダメだ。

 うまく眠れない体質になって、ずいぶん経つような気がする。成績優秀で品行方正な生徒会長という看板の裏で、糸がほつれるように、おれという人間が壊れていく。その喪失感に、そろそろ慣れ始めている。

 人間の睡眠時間は長すぎて人生の無駄遣いだなんていう説を聞いたりもするけれど、そんなことはない。眠れないという、ただそれだけのことが、おれから生きる力を奪っていく。体力も精神力も忍耐力も、まとめて全部。人間は、眠れなきゃ生きていけない。

 おれは起き上がってベッドを整えて、パジャマ代わりのTシャツとスウェットパンツから着替えた。足音を忍ばせて一階に下りて、トイレと洗面台を使う。口の中をすすいだら、水が甘い。都会の水はまずいって父親がよく言うけれど、その意味が何となくわかった。

 散歩しよう。

 昨日の夕食のとき、スバルさんから、好きに出歩いてみてほしいと言われた。龍ノ里島は、危険な人間も獣もいない。唯一、虫刺されにだけは気を付けるように、とのことだった。

 おれは斜め掛けのバッグを部屋から取って、帽子をかぶって、まだ薄暗い外に出た。

 星空が透き通ろうとしていた。この家から見て龍ノ原の方角、つまり海の方角が東で、海岸線のあたりは白っぽく輝き始めている。

 もうすぐ日の出だ。

 引き寄せられるように、おれは海のほうへと歩き出した。

 クルマの来ないアスファルトの坂道は、ひび割れた箇所から草がちらほら生えている。しっとりとした空気。朝露に濡れた山から、土と葉っぱの匂いがする。名前も知らない虫の音が聞こえる。

 絶えず渡る潮風が、さわさわと、山を鳴らしている。道の脇に、小さな石の祠があった。龍ノ神を祀っているんだっけ。御神体が中に安置されているんだろうか。祠の前には、清潔な湯飲みに入った水が供えてある。

 祠のそばの木で、セミが羽化しようとしていた。琥珀色の殻は背中がすっかり割れて、薄い色をした成虫がじりじりと這い出すところだ。くしゃくしゃの羽が、ほんの少しずつ、開いて伸びていく。

 ほう、と息が漏れた。

「初めて見た。何か……すごいな」

 小さな生き物に圧倒される。何でこんなに一生懸命なんだろう?

 成虫になったところで一週間かそこらしか生きられない。大人になることは、死に近付くことだ。なのに、セミは早く飛び立ちたいと叫ぶように、もどかしげに羽を乾かしている。

 おれは、そんなふうにはなれないな。

 セミが飛び立つまでは見届けられなかった。見届けたくなかった。羽を鳴らして飛び立つ様子を目にしたら、おれはきっと、取り残された気持ちになる。

 人間と昆虫では命の尺度が違っている。セミの生涯には、今おれが持て余しているような曖昧な時間は存在しない。

 わかっているのに。おれは人間であって、昆虫をうらやんでいるわけじゃないのに。

 ただ命をつなぐためだけに生きるのなら、いっそのこと楽なんじゃないか。思考も感性も全部なくなってしまえば、この世からいなくなりたいと願う今の気持ちも一緒に消滅してくれる。それって、むしろ幸せなんじゃないか。

 悩んでばっかりの自分が情けない。心が迷子になったことも、そのせいで体までおかしくなっていることも恥ずかしくて、消えたくなる。おれのことを知っている全員の記憶から、おれがいなくなってしまえばいい。

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