#01 風が吹く島

01 スタートライン

 海の色も空の色も深く輝いて、目に染み入るほどに強い。今日は一体、何時間、こうして二つの青色を見つめているだろう?

 朝、本土からフェリーに乗った。昼過ぎに大きな島に着いて、そこで一回り小さなフェリーに乗り替えた。ずっと甲板に立って潮風に吹かれながら、海と空を見ていた。フェリーの大らかなエンジン音が体の芯に響いて心地よかった。

 午後三時。おれは龍ノ里島たつのさとじまに到着した。浮き桟橋に降り立つと、海の匂いに混じって、船の排気と機械油と赤錆びの匂いがした。海辺まで迫った山並みからセミの声が降ってくる。波の音。風の唸り。太陽の光。

「遠くまで来たんだな」

 ぽつりとつぶやいてみた。甲板のベンチでグースカ寝ていた弟が、盛大な伸びをして、ピョンと飛び跳ねた。

「すっげぇな! ほんと、離れ小島って感じ。海も空も気持ちいい色してるじゃん!」

「今日はおまえ、船酔いしてないみたいだな」

「へーきへーき! 兄貴こそ、ずっと起きてたんだろ? いきなりぶっ倒れたりすんなよ!」

「しないよ。余計なお世話だ」

 フェリーの大きさに比べて、乗客は圧倒的に少なかった。おれたち以外は、新聞と郵便と食料品と生活雑貨を運んできたおじさんと、大きい島の病院に検診に行っていたおばあさんだけ。

 おじさんが運転する軽トラックは、ついでにおばあさんを助手席に乗せて、浮き桟橋からコンクリートの波止場へと渡っていく。

 一人の男の人が、軽トラックとすれ違いながら、波止場からこっちへ駆けてくる。彼は、おれたちに向かってまっすぐに手を振っている。

「兄貴、あの人かな?」

「たぶんね。あ、こら、指差すな」

「悪ぃ悪ぃ」

「気を付けろよな」

 おれは帽子をかぶってリュックサックを背負い直して、駆けてくる彼のほうへと歩き出した。おれを追い越して飛んでいこうとした弟の首根っこをつかまえる。頭の中では、挨拶のシミュレーション。

 彼は、前もって聞いていたとおり、背が高くて優しげな印象だ。やせ型だけれど、日に焼けているから、貧相な感じはしない。おれが口を開くより先に、彼が話を切り出した。

「きみたちが、剣持兄弟だよね?」

 おれは帽子を取って頭を下げた。

「はい、ぼくは剣持けんもち有理人ユリトです。こっちは弟の……」

「おれはハル!」

 ああ、バカ、丁寧語くらい使えよ。おれはハルタを押しのけて、よそ行きの笑顔を作り直した。

こしスバルさん、ですね?」

「うん、スバルです」

「突然お邪魔することになって、ご迷惑をおかけします。これから一週間、よろしくお願いします」

「迷惑なんて、全然。こちらこそ、よろしく。ぼくも楽しみにしていたんだよ。みや先輩から、ぼくのことは聞いてる?」

「うかがってます。田宮先生の、大学時代の研究室の後輩なんですよね? 工学部の機械工学科で流体力学の研究をしていたって。その経験を活かして、今は風力発電や海流発電の仕事をなさっているんでしょう?」

 田宮先生は、おれのクラスの担任だ。理科が専門の三十八歳。スバルさんは、田宮先生の二学年下の後輩らしい。でも、額がずいぶん後退している田宮先生に比べて、スバルさんはずっと若々しく見える。カッコいい顔立ちをした人だ。

 スバルさんはクスクスと、楽しそうに笑った。

「ユリトくんは、田宮先輩が言っていたとおりだね。中学三年生とは思えない逸材って。流体力学なんて言葉をサラッと口にするとは恐れ入った」

「え、いや、サイエンスというか物理学というか、そういう世界が好きなだけです。あ、田宮先生も本当は一緒に島に来たかったと言っていました」

「だろうね。先輩はこの島のこと、ずいぶん気に入ってくれていたから」

「スバルさんが担当されている発電用の設備にも興味津々でしたよ。よかったら、ぼくにも設備を見学させてください」

「大歓迎だよ。自分の専門分野に興味を持ってもらえるって、すごく嬉しいことだから」

 ハルタが手を挙げながら割り込んできた。

「おれもおれも! 兄貴と違って難しい話はわかんねえけど、でっかい風車とかさ、回るもんって、すげえ好き!」

「じゃあ、ハルタくんもぜひ、近くで風車を見てよ。初めてなら、けっこう迫力あると思うよ。それにしても、二人とも似てるよね。双子みたいだって言われるだろう?」

「言われるよ。おれは中二で兄貴が中三だけど、よく勘違いされんだ。でも、メチャクチャそっくりってわけじゃねぇだろ? 性格とか特技とか、まったく逆だしな」

「雰囲気は全然違うね。似てるとは思うけど、間違えたりはしないよ」

「だよな! 兄貴はこのとおり口うるさいインテリ系。おれは完璧にスポーツ系で、部活はやってないけど、陸上部と体操部とサッカー部から助っ人に呼ばれんだ」

「へえ、それはすごい。運動神経がいいんだね。学校の外で何かスポーツをやってるの?」

「レーシングカート。サーキットで、一〇〇ccのカート走らせてる。おれ、将来は絶対、プロのレーサーになるんだ」

 運動神経も動体視力も抜群のハルタなら、時速三百キロを超えるF1マシンも乗りこなせるかもしれない。でも、今ここで問題にすべきなのは、こいつの失礼さだ。スバルさんにはちゃんと挨拶しろって、あれほど言っておいたのに。

 ハルタが失礼ですみませんと、おれはスバルさんに謝ろうとした。喉まで出かかった声が止まったのは、いつの間にかスバルさんの隣に立っていた人物のせいだ。

 女子、だ。すごくきれいな子。おれやハルタと同じくらいの年だろうけど、スラリと手足が長くて背が高い。おれもハルタも、少し彼女を見上げる形になる。

「え。この子、誰? なあ、兄貴」

 声変わり途中のハルタのささやきが、微妙に裏返った。誰って訊かれても、おれも知らない。田宮先生は何も言っていなかった。

 彼女が首をかしげた。無造作に背中に流した髪は太陽の光を浴びて、茶色くきらめいている。白いタンクトップとジーンズのショートパンツ。小麦色の素肌がまぶしすぎる。

「わたしは、カイ。きみたちが、とうさんのお客?」

「とうさんって、スバルさんのことですよね?」

「そう」

 スバルさんが頬を掻いた。

「娘のカイリだよ。ユリトくんと同じ中学三年生だ。父ひとり、子ひとりの暮らしでね。カイリはこう見えて料理も家事もできるし、この島のことなら何でも知ってる。こっちにいる間、何かあればカイリを頼ってくれていいよ」

 カイリさんは一瞬だけ笑った。薄い茶色に透き通る目が、じっとおれを見つめる。

「よろしく」

 少し低い、澄んだ声。はしゃいで甲高く叫ぶクラスの女子たちとは全然違う。化粧をした上目遣いの制服姿なんて、カイリさんは無縁なんだろうな。そう思うと、頬はほてったままだけれど、いくらか気楽になった。

「よろしくお願いします。お世話になります」

「敬語じゃなくていい。同い年だし」

「え? あ、それはそう、です、けど」

「呼び方も、カイリでいいから。わたしも、ユリト、ハルタって呼ぶ」

 名前を呼ばれた瞬間に、またドキッとした。合わせていられない視線を、うろうろとさまよわせる。

 新たに視界に入ってきたのは、カイリさんの華奢な鎖骨、軽く持ち上がった胸元の布地。スタイルいいな。クラスの女子もこのくらいあるっけ? じゃなくて。

 胸から目をそらしたら、今度は、むき出しの二の腕や脚が気になる。ああもう、目のやり場がない。しかも、いきなり呼び捨てって、おれにはハードルが高すぎる。

 スバルさんが、別に助け舟を出してくれたわけじゃないだろうけれど、ポンと手を叩いて陸のほうを指した。

「さて、ここにいても暑いだけだし、我が家に移動しようか。改めまして、ユリトくん、ハルタくん、龍ノ里島へようこそ。海と空と風と山を、ゆっくり楽しんでいってほしい」

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