少年TUNE-UP
馳月基矢
#00 Re- プロローグ
Re- プロローグ
いつの間に、おれの手はマシンより大きくなっていたんだろう?
マシンというのは、モーターひとつと電池ふたつで走る自動車模型のことだ。ミニ四駆という。
ずっとミニ四駆が好きだった。速くなるように改造を重ねて、レースに出ては勝ったり負けたりして、いろんな感情をともにしながら、ずっと大切にしてきた。
なんてね。人前でむきになってそう主張したりはしないけれど。
ミニ四駆が、いわゆるおもちゃだっていうことはわかっている。わかっていても、好きなものは好きだし、やっぱり単なるモノだとは思えないし、ついつい呼び掛けたりもしてしまう。
「なあ、シュトラール」
今日みたいに、マシンを小さなプラスチックケースに入れてカバンの奥に潜ませて、学校に連れてくる日もある。放課後の生徒会室に一人でこもって、予算の振り分け案や行事の要項の資料なんかを作るとき、やる気が折れそうになるたびにマシンに触れる。
おれの手のひらの上に今、一つの完成したフォルムがある。おれの相棒、シュトラール。
ミニ四駆の車体は、F1マシンと戦闘機の中間みたいなデザインだ。塗装では十分に隠し切れない、細かな無数の傷。レースに夢中になっていたのは小学生のころまでだけれど、今でもメンテナンスは欠かさない。
ボディとカバーを外して、ギヤのグリスアップをする。電気系統に触れる金属部分や、駆動の精度に直結するピニオンやシャフトの劣化状態を調べて、傷んでいれば交換する。ローラーやタイヤの掃除もする。ギミックを解体して、ちょっといじって組み直す。
草レースさえめったにやらなくなったから、交換が必要な傷みなんて、ほとんどない。改造したところで、誰かに見せるあてもない。ただ、マシンに触れたいだけだ。
躍動する機械のシンプルな命の構造には、おれの夢が詰まっている。エンジニアになりたい、クルマや飛行機を作ってみたい、宇宙に関わる仕事をしたい。高校二年生、十七歳の今という時間は、夢の途中にある一座標だ。
車体の裏にあるスイッチを入れる。シャァァァッ、と軽快な音を立てて四輪駆動のタイヤが回る。
目を閉じたら、コースが見える。スタートラインにフロントバンパーをそろえて、出走を待つ静寂。シグナルがともる瞬間の緊張感を、今でも心臓は覚えている。
レディー、ゴー!
その瞬間、マシンは一斉に走り出す。歓声に包まれるレース会場。走り抜け、と祈りながら拳を握って、おれは相棒の活躍を見守るんだ。
目を開けてみる。おれの前にあるのは、生徒会室の会議机と、まだ片付かない資料、過去の議事録とメモの山。
「わかってるよ。現実逃避は、ほどほどにしないとな」
白地に赤のグラデーションを配したマシンに、おれは苦笑いでつぶやいてみせた。スイッチをオフにして、モーターの回転を止める。
そのときになって、初めて気が付いた。生徒会室のドアが開いていたこと。ドアのそばに女子が一人、立っていたこと。
彼女は目を丸くしている。何か言い差したような唇の形があまりにも柔らかくて、おれは息が止まった。ドキリと高鳴る心臓。変だな。小学校時代から人前に立ち慣れているおれは、めったなことじゃ上がったりしないのに。
沈黙が、一秒、二秒。
彼女が目をしばたたかせて、少し首をかしげた。
「ごめんなさい。ドア、開いてて。音が聞こえたから、何だろうって。のぞき見するつもりじゃなかったんだけど」
透き通った、落ち着いた声だ。うっかり聞き惚れてしまう。またドキリと心臓が鳴る。彼女の声はきれいで、どこかなつかしい。もっとしゃべってほしいと思った。
いや、待てよ。おれは何を考えているんだ。今、そういう場面じゃないだろ。
「お、おれのほうこそ、ごめん。変なところを見せちゃって。カッコ悪いな」
たぶん、かなり滑稽だっただろう。生徒会長のおれが、はたから見ればおもちゃに過ぎない自動車模型を手に、自分の世界にひたっていた。
油断していた。だって、最終下校時刻も近付いた今ごろになって、校舎の外れにある生徒会室に足を向ける人がいるとは想定していなかったんだ。
ばつが悪くて頭を掻いたら、彼女は口元だけで、そっと微笑んだ。
「そのクルマ、走るの? 速そうな、軽そうな音が鳴ってた」
「走るよ。ただ、リモコンで操縦するわけじゃないから、ちゃんとしたコースを走らせる必要があるけどね。こんな狭い部屋の中じゃ、すぐ壁にぶつかって、車体が傷んでしまう」
そそくさとマシンをケースにしまい込もうとしたら、彼女に待ったを掛けられた。
「見せてもらってもいい?」
「興味ある?」
「うん」
「じゃあ、どうぞ」
マシンを軽く掲げてみせたら、彼女は生徒会室に入ってきた。
「ありがとう」
何気なくてありふれた一言をつぶやく声は歌っているみたいにきれいで、きれいなのは声だけじゃなかった。きれいな顔をした子だ。見つめてしまって、慌てて目をそらす。
おれは手のひらの上にマシンを載せた。せめて表面だけでも、冷静なふりを押し通さなきゃ。
「傷だらけだろ、こいつ。あちこちパーツを取り替えながらだけど、小五のころから使ってるから、もう六年になるのか。小六のときの全国大会も、こいつで出たし」
おい、おれ、全然冷静じゃないよ。見も知らぬ相手に、しかもミニ四駆の公式レースなんて無縁そうな女子を相手に、何を言っているんだ?
でも、口数が増えたのは、緊張しているせいとは違う。どっちかというと、緊張感が足りないせいだ。気が緩んでしまった、というか。
なぜ?
彼女とは初対面じゃないような、不思議な感じがする。おれのことを何もかも知っている、気の置けない相手みたいだ。
そんなはずはない。出会った人の顔も名前も、おれはいつも完璧に記憶している。こんなきれいな声と姿の持ち主なら特に、絶対に忘れない。
彼女が少し体をかがめて、おれの相棒をのぞき込んだ。無造作に背中に流しただけの彼女の髪から、いい匂いがする。その髪に触れてみたくなって、おれの心臓がドキドキと暴れた。
「ほんとだ。この子、実は傷だらけだね。丁寧に色を塗ってあるから、あんまり目立たないけど。大切なものなんだ?」
「ああ、大切だよ。おれにとっては、昔からずっと、すごく大切な相棒で親友で、将来の夢を教えてくれた存在。絶対に手放せない」
彼女がおれを見上げた。思いがけなく近い。おれはまた息を呑む。笑顔の作り方さえ忘れてしまう。
なぜ?
「会長さんって、ほんとはそういうしゃべり方するんだね」
「え? しゃべり方?」
「普段は、おれじゃなくて、ぼくって言ってる。素行も口調も仕草も徹底的に礼儀正しくて、こんな王子さまが現実にいるんだって騒がれるくらいなのに」
「そう……いえば、そうだ。何か、ごめん。失礼だよね、たぶん」
「どうして?」
「だって、態度、変えちゃって。なれなれしくて、ごめんね。あ、じゃなくて、あの……」
舌が回らない。なぜ? 自分が自分じゃないみたいだ。体にコントロールが利かない。
「謝らないで。わたしは気にしない」
「だけど、変な意味で特別扱いみたいな、こういうのって」
ルール違反をしているようで、あせりが募る。ルールなんて定めたのは、ほかでもないおれなのだけれど。
なぜ、いきなり、おれの言葉も態度も砕けてしまったんだろう? 猫かぶりのおれが率直な話し方をするのは、弟の前だけのはずだ。
弟の前だけ? いや、何かが引っ掛かる。ずいぶん前に似たようなことがあった気がする。いつ? どこで? 誰を相手に?
彼女がマシンのリヤウィングを指差した。
「シュトラールって、この子の名前?」
銀色でつづった、
マシンに自分だけの名前を付けるレーサーは、小学生のころでも珍しかった。もし付けていたとしても、表立ってマシンの名前を呼ぶなんて、そんな子どもっぽいことは誰もしなかった。おれも、シュトラールという名前について、尋ねられたって明かさなかった。
昔の習慣で、おれは口ごもった。彼女は頬に小さなえくぼを刻んだ。
「シュトラールは、ドイツ語で、輝きっていう意味だよね。ドイツ語は、響きがカッコいいけど、日本人にとってはつづりが読みにくいから、模型やクルマや機械の公式の名前には、あまりならない。だから、自分だけの名前にしやすいんだよね」
思わず「えっ」と言うのと、息を呑むのと、同時にやらかそうとしたおれの喉は、間抜けに上ずった声を詰まらせた。おれは咳払いをしてごまかして、つぐんでいた口を開いた。
「名前、付けたりするの? きみも模型とか、好きだったりする?」
「うん」
まっすぐにおれを見つめて微笑む彼女の目は、透き通りそうに薄い茶色。
強烈なデジャ・ヴを覚えた。この場面をどこかで経験した気がする。
「もしかして、おれ、前にどこかできみに会った?」
「え?」
つい訊いてしまった。彼女に小首をかしげられて、おれは猛烈な恥ずかしさに襲われた。
「ごめん」
おれは視線をそらした。まるで下手なナンパだ。頬が熱い。何だ? どうしたんだ、おれは? おかしいだろう、こんなの。胸の高鳴りが、まったく落ち着く気配もない。
クスッと、彼女が笑った。
「デジャ・ヴ、なのかな。わたしも何となく、シュトラールの名前を知ってるような気がして。いつ、どこで会ったんだろ?」
「シュトラールと?」
「うん。それと、会長さんも」
シュトラールの小さな車体を隔てて、おれの手のひらと彼女の指先が、ごく近いところにある。その気になれば、簡単に触れてしまえる。その距離は、でも、なぜだか限りなく遠い気がして。
どうしよう。どうすればいいんだろう。
口を開けば、自分が何を言ってしまうかわからない。けれど、話をしたい。
「おれ、会長じゃなくて、ちゃんと名前あるんだけど」
「そっか。そうだね。知ってる」
彼女に名前を呼ばれたら、きっと、おれの化けの皮は全部、はがされてしまう。
でも、それもいいかな。この出会いにはきっと、甘ったるくて珍しくもない名前が付いているはずで、おれはその名前を確かめてみたい。
彼女のまなざしがくすぐったくて、おれのひどく熱い頬は、自然と笑ってしまった。おれは小さな深呼吸をして、言った。
「きみの名前、教えてもらっていい?」
その瞬間、なぜだろう、海の匂いを思い出した。遠い島で過ごした二年前の夏が脳裏によみがえった。
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