出雲残照
唐橋史
序 海のあなたへ
私は決して徐福のようになりたいと思ったわけではない。
東海の彼方に仙境があり、そこには不老不死の妙薬があるなどと、そんな話を信じただけで、海に漕ぎ出したりできるだろうか。
私は知っていたのだ。
日出づる水平線の彼方には、蛮族の住む島がある。文字を持たず、髪を結わず、服をまとわない人々が住む。そこには食うだけを採り、食うだけを狩る生活しかなく、富や名声のための戦いはない。
かつて魏に使者を遣したその国の人々は、そう述べたという。
医者としてつつましく暮らしてきた私の妻子が、略奪に狂った呉の兵になぶり殺しにされてからというもの、私の脳裏にあったのは、戦いを避けて伯夷・叔斉のように世を離れて暮らすことであった。しかし安らかに暮らせる山中などもうこの大陸にはないように思われた。三国が相食むこの大陸では、どこへ流れて行こうとも、そこはいつでも戦場となりえた。
そこで私は、住んでいた家と家畜のすべてを売って、代わりに一艘の船を買った。漕手として雇った幾人かの奴隷と、およそ一月分の食料を積み、大陸を離れた。目指すのは誰にも邪魔されない海の向こうの世界だった。魏に使者を遣したという東夷の国である。
私に雇われた奴隷たちはまったく不幸だったといっていい。自分を買った主人は、どこにあるかも定かではない蛮族の島を目指していて、しかも例え海路を見失って遭難しようとも、それも天命であろうと決めてかかっていたのだから。そう、むしろ私は、海の藻屑と消えることが、助けてやれなかった妻子への贖いと信じ、いづかたへ赴くとも知れない死出の旅を望んでいたのだ。
そして、海原を漂うこと一月あまりのある日、嵐が船を襲った。灰色の雲が空を覆い、むせかえるような夏の湿気を帯びた風が吹いたかと思うやいなや、船は内からはじけるように木っ端微塵に砕け散って、私は真っ黒い海の中に落ちた。
息苦しさに四肢をばたつかせながらも、やがて遠のいて行く意識のうちに、これでようやくの安息を得るのだと、私は少なからず喜びを感じたといっていい。
だが、私は死ななかった。
目を覚ましたとき、私は砂浜に横たわっていたのである。夏の日差しを受けて真っ白に照り映えた砂浜の中に、ただぽつんと私の体は置いてあった。掌には熱い砂の感触が確かにあった。
私は、流れ着いたのである。
随分長いあいだ、私はそのままの体勢でいたように思う。再び気付いたときには、砂浜は夕焼け色に染まっていた。そしてこのとき初めて、私は人影を見た。
磯の岩群の隙間にいくつもの黒い頭がのぞいていた。やがてそれらは、岩群を這い出し、猿のように背中を丸めたまま、私のほうに一歩一歩近づいてきた。海草のような髪を振り乱したその姿は、まさしく妖怪の類としか私には思えなかった。しかし、彼らのうちの一人が、私に向かって椀を差し出したとき、私は彼らが人間であると知った。与えられた一杯の水を飲み干すと、彼らのうちから歓声が沸き起こった。
これが、私と、倭人との出会いである。
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