こころなし

星永静流@ホシ

第1話

 こころなし

                        the134340th


「どうやってここまで来たのか覚えてないんだ。」そう青年は泣きながら漏らした。

 私がドイツの大学を卒業して日本に戻ってきた時、新宿駅からさらに電車で五十分程にある私の実家に帰る最中彼に出会った。彼は玉川上水駅のロータリーで一人泣いていた。

「どうしたの?」

 と、ガラガラと小石にぶつかりながら跳ねるキャリーバックの音と、久しぶりに話した日本語が曖昧だった。

「全部夢を見てるみたいだ」そう漏らした。

 瞳から次々と流れる涙をこぼす彼のことがほっておけなかった。何か持ち物で住所がわかればいいのだけど、彼は何も持ってなかった。財布も、携帯も。警察に行けば彼は救われるのだろうか。そう考えた。でも警察に行っても彼は拘束されるだけで彼にとっては何もいいことはないだろうということで、少しためらったが一度私の家に一緒に帰って、そのうち彼が思い出すのを待とう。そういう考えに落ち着いた。

「名前はなんていうの?」

 彼に問いかけた。

「覚えてない」

 手を引きながら、まるで子供をあやすみたいに。年齢は私とたいして変わらないと思うのだけど、どこか少年ぽさが彼にまとわりついていた。彼は泣きながらこう言った。「助けて」と。


私の部屋の机にはずっと昔に買った雑誌とずっと昔に父に強請った家庭用ゲーム機がおいてあった。本棚には古い小説と中高生の時に使っていたの参考書にお気に入りのマンガ。

「懐かしいな」

 実家に帰ってきたのは二年ぶりだろうか。ドイツの大学は日本の大学と違って遊んで卒業はできない。でも勉強しか能がない人にはオススメだと思う。私のように。

「あの」

 ああ、そうだった。彼を待たせてたのだった。

「あぁ、ごめんごめん。何か飲む?」

 彼は泣き止んだけど、目の周りが充血していて痛々しかった。彼はまだ何も思い出せていない。

「紅茶飲める? ストレートティーとダージリンどっちがいい?」

「ストレート? ダージリン?」

 彼は子供のように首を傾けた。彼は紅茶のことも忘れてしまったのだろうか。それとも。

「紅茶飲むのは初めて?」

「うん、初めてかもしれない」

 本当に初めてなのだとしたら、美味しく入れてあげようと思った。彼は身長は高くてすらっとしてるのに、子供っぽさがいつまでも抜けなかった。そうだ、重要なことを言ってない。

「私、香子っていうの」

 名前も忘れた彼にはどうしたらいいかわからなかった。名前を忘れるなんて普通の人ならありえないことだ。赤ちゃんの頃から、下手をしたらお腹の中から母親が語り掛けてくれた名前を忘れるなんて。彼に何があったのだろうか。

「まだ名前が思い出せないんだ」

「いいのよ、気にしないで」

 そう私は彼に言った。彼が怯えないように、優しく。沸騰したお湯に葉が沈んでいく。

「口に合わないかもしれないけど」

 彼が初めて飲む紅茶。彼は少し怖がりながら紅茶を口に運んだ。

「美味しい」

「よかった」

 私たちはゆっくりお互いの距離を縮めた。慎重すぎるぐらいに。それが彼のためだと思った。彼はあっけに取られるような反応もあったが、ちゃんと反応してくれたこともあった。私の歳のこと。彼の歳のこと。私の好きな小説のこと。彼は仕事で作家をしているということ。私の電話番号、メールアドレス。彼は携帯は契約してないということ。時々家の電話とパソコンで連絡を取るよということ。彼はだんだん落ち着いたのか、いろんなことを思い出してくれた。あとは彼が帰れる場所を探してあげるだけだった。

手袋をしてない彼に手袋をあげた。私はマフラーを巻いて冷たい手はポッケの中にしまった。

駅前に戻った私たちはいろんな道を歩いた。久しぶりに日本に帰ってきた私は懐かしい気持ちでいっぱいだった。ここは私の高校の帰り道。ここは小学校の頃に遊んでいた公園。ここは私が中学生の頃好きだった男の子の家。

「ここを通った気がする」

 彼はぼっそっと呟いた。ここら辺はマンションよりも一戸建てが多い。彼はひとりで一戸建ての家に住んでるのだろうか。それとも婚約者がいるのかもしれない。

「誰と住んでるの?」

 私は真っすぐ彼に聞いてみた。

「一人、だと思う」

 彼は曖昧に答えた。先導していた私は彼に道を譲って、彼の記憶が思い出すままに進んだ。

「ここ」

 彼が指を指して示した家は木造の古い家だった。雑草は大量に生い茂っていて、外から覗ける障子は穴が空いていた。彼は鍵のかかってない玄関を開けた。

「ちゃんと帰ってこれたみたい」

「よかったね」

 私は心の奥底からそう思った。

「私、あなたの名前知ってるのよ」

 私は冗談めかして言ってみた。

「え、本当? 僕の名前はなんていうの?」

「歩っていうのよ」

「なんで知ってるの?」

「そこのポスト」

 ポストには歩と書いてあった。

「本当だ」

 彼は笑った。私もつられて笑った。彼は自室に案内してくれた。

「ここに女の子が入るのは初めてかもしれない」

 そういって案内してくれた部屋は独特な雰囲気でいっぱいだった。白と黒で表現されたジオラマ、原稿の束で埋まった机、ブルーライトで光る壁紙。

「ここは僕の好きなものが詰まった部屋なんだ」

彼は帰り際に飴をくれた。とても甘くて不思議な味がした。ドイツでもこんな飴舐めたことなかった。帰り道は真っ暗だった。彼の別れ際の顔がいつまでも私の頭から離れなかった。その日は彼からの連絡を待って夜が過ぎた。でも連絡は来なかった。とても大事な人が出来た気がした。


夢の中で彼はメールをくれた。私は嬉しくてすぐに返信をした。でも彼は消えた。アドレスも、彼の名前も。私は電車の中で彼を待った。流れる駅のホームの人混みの中の一人が、流れる田んぼの風景の案山子が彼に見えた。私は電車のドアを必死に叩いて駅の改札に立った。彼を見つけた。でも私は駅の改札から出れなかった。

 彼がどこか遠くに行く。そう本能が感じた。私は飛び起きて彼のもとへ向かった。コートも着ず、サンダルで、ぼさぼさの髪で、パジャマで。必死に走った。走って走って走って走って、走った。はぁはぁと息する呼吸が、足の筋肉が限界を迎えた。彼の家が見えた。私は勝手に玄関を開けて彼の部屋に入った。彼はぐっすり眠っていた。

「あゆむ、あゆむ」

 私は彼を必死に起こそうとした。でも彼は目を覚まさなかった。それから彼は病院で植物状態になった。半年経っても、一年経っても彼は目は覚まさなかった。

私は日本で外資系のコンサルタントとして働いていた。彼の入院費も全てではないが私が働いて得たお金で賄っていた。彼には大切な人どころか、家族もいなかった。もしかしたら目が覚めても私の名前も、せっかく教えた自分の名前すらも忘れてしまっているかもしれない。

時々の休みは彼の机の上にあった小説を読んで過ごした。彼の最後に書いていた小説の最後にはこう書いてあった。

「おやすみ」


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