蛍の声

やかん

第1話 蛍の声



 枯葉が舞い散り、風景が秋色へとすっかり姿を変えた頃。紅葉が秋風によって静かに地面へ落ちてゆくように、祖父もまた穏やかに亡くなりました。


 実際にその場面に立ち会ったわけでは無いので、正しくは亡くなったという知らせを受けただけなのだが。

 車に揺られながら意味もなく窓の外を眺める。時間が経つにつれて徐々に少なくなってくる無機質な灰色と光。日はもう既に沈んでいるため、ちらほらとまばらに設置してある古い街灯の薄暗い明かりだけが目立つ。

 すれ違った対向車のライトの強い光に目を細めると一気に疲れがどっと押し寄せてくるのを感じた。昨日の大会の疲れがまだ残っているのか、眠気が一段と強い。どうせまだ着かないのだ、いっそこのまま眠ってしまおうか。

 こみ上げてきたあくびを手で抑えながら隣の運転席の母を窺う。車を発進させてから一言も発さない母のその表情は、いまいち読み取れなかった。

 ――わかる訳がないのだ。私が生まれる前にはもう祖母は亡くなっていたため、これで母は両親を失ったことになる。そんな気持ちなんて、私には到底想像がつかない。

 口にしようとした不用意な言葉はあくびと共に飲み込んで、また再び窓へ視線を戻す。


 こんなことを言うと薄情者と思われるかもしれないが、ちょうど大会から帰ってきた後、顔面蒼白な母から「おじいちゃんが死んだ」と聞かされたときに、私はその祖父の顔を思い浮かべることが出来なかった。

 悲しむべきなのだと分かっている。だが、その時は『自分の祖父がいなくなったのだなぁ』と、ただそれだけで当然涙なんてものは出てこなかった。

 祖父の家まで車で片道約三時間。早々行けるような距離でないため、あまり関わりを持てなかったのがきっと原因なんだと思う。昔、小学生の頃に泊まりに行ったことがあると言われたが、まるで抜け落ちているかのようにその時の記憶は全く無い。


あかり、もうすぐ着くわよ」


 母の声にはっと意識を現実に戻す。前方をみると家の明かりと数人の人だかりが見える。車のライトに気づいたのか人影がこちらを振り返ると誘導するように手を挙げた。


     ◇


 通夜が終わって。

 下の階からはあちらこちらから大声で人を呼ぶ声や大きい物音がする。そんな音から逃げるように人気の無い二階の角の部屋へと来てしまった   私は、その騒音を聞きながらぼーっと夜空を眺めていた。


 自分以外は全て大人ということもあり、通夜中においおいと声をあげて泣くような人はさすがに居なかった。それでも故人を悼む空気はどうしても息苦しく感じる。

 滞りなく通夜が行われたおかげか、お坊さんがお経を唱え始めたところで私の意識はだいぶあやふやとなり、不謹慎であるが式中の記憶があまりない。繰り返し言うが、疲れているのだ。許してくれ。



 音が少し収まる。一階の大広間で通夜ぶるまいが始まったのだろうか。

 ――お寿司は、食べたいなあ。

 寿司は好きだ。しかも、ここの近くにある寿司屋はうまいのだと昔母が言ってたので、非常に気にはなる。だが、またあの空間の中に戻ることになるのかと思うと食欲はそこまで湧いてこない。

 喪主ではないが、肉親ということできっと母は手を休ませる暇なんてないだろう、当然抜け出した娘にも気づくまい。家を出る前にドーナツをつまんだし、もう夕飯は抜きでもいいか。


 寿司の誘惑を振り払うため、深呼吸をして夜を感じることにした。

 夜はいい。私は、夜が好きだ。

 微かに聞こえる車の走行音をかき消すかのように、虫の鳴き声が大きく響く。それとともにどこからか流れてきた花の甘い香りのする風が頬を撫でた。夜風が鼻にツンと刺さるのも心地いい。


 ――ああ、夜の世界だ。


 窓の向こうに目を向けると、日中は黄金色に輝いていたであろう田畑も、今では飲み込まれてしまいそうなほど魅力的な黒が広がっているだけだった。


 小さいころからずっと自分の中にある感覚。昼は生きているものの世界。でも、夜は私たちの領分ではなく、また別の何かの為の世界。そうして世界は、昼と夜で別の世界に分割されているのではないかって。

「なんて」

 そんな夢物語の一説のような妄想に声を上げずに苦笑しつつ、体勢を変えるために横にある棚に手をかけた。

 しまった、と後悔をするのは、それからほんの数秒後のことだった。

 不安定なところに置いてあったのだろうか、手を置いた時の振動でするりと小さな箱が棚から飛び出す。

 反射的に箱を掴もうと手を伸ばすも指は虚しく宙を切り、次いでカラン、と軽い金属音が鳴ると蓋が開いて中のものが辺りに散らばった。

 あーあ。

 案外中には物が入っていたらしく、よくは見えないが小さいものが点々と散らばっているのがわかる。自分の足元にあるものを拾い上げてみると、形状的にどうやら指輪のようであった。

 もしかしたら、貴金属系の入った大切な箱を落としてしまったのかもしれない。そう思うと余計に面倒臭さが倍増して体が重く沈む。全く、ツイてない。

 明かりを点けずに外を見ていたため部屋の中は暗い……この状態ではちょっと拾うのが厳しいか。そう判断した私は一つ溜息を吐くと、月明かりを頼りに壁へ手を沿わせて部屋のスイッチを探す。

「いて」

 足元が見えないせいで、どうやら先ほどぶちまけた物を踏みつけてしまったらしく、足の裏に鈍い痛みを感じる。もし内容物に傷でもつけてしまったらどうしようか。

 なんとか扉の元まで辿り着き、電気を点ける。光に目が慣れていない影響で一瞬明るさに怯んだが、ゆっくりと慣らすように目を開く。すると暗くてよく見えなかった部屋の中を一望することが出来た。

 ――……ガラクタ?

 辺りに散らばっていたのはビー玉や木の切れ端、ほとんど形を保っていない枯葉や押し花など、特に価値の無さそうなものばかりが入っていたようだ。安堵と同時に若干の苛立ちが込み上げてきそうになる。

 中身がなんであれ、どのみち片づけなければならないのだ。愚痴ってる場合じゃない。

 ……でも、そこそこでいいかなあ。

 どうせこの家は祖父が居なくなったことによって親戚の誰かが引き取るらしいし。よくわかんないけど。

 大雑把に目に付いたものを箱へと戻していく。


 大方片付いたと思い、私は確認がてら部屋を見回す。だが、よく見ると花札が一枚だけ机の端の方に落ちているのが見えた。

 拾い上げてよく見てみると、鹿と紅葉が描かれた札。

 手垢がついて若干黄ばんでいるも、絵柄はまだ鮮やかな色を保っていて綺麗であった。……花札をやったことがあったら何の札なのか分かったのかな。

 意外に札自体がしっかりしていることに驚きながら、その札を箱へしまい蓋をしようとしたその時。外から口笛のような甲高い音が響く。


 ピィー。ピィー。

 

 少し間隔を置いて二回鳴ると、もう音は聞こえなくなった。外で何かあったのだろうか。

 様子が気になり、部屋の窓に手をかける。恐る恐る外を覗き込むが、先ほどと同様にただ暗闇が広がっているだけだった。


「あれは蛍の声だねぇ」


 突然の声に驚き、勢いよく後ろを振り向く。すると、さっき下に居た親戚のおばさんが立っていた。私の勢いに吃驚したようで軽く仰け反っていたが、すぐに人のよさそうな笑顔を向けてきた。

「驚かせちゃって、ごめんねぇ。灯ちゃんの姿が見えないもんだから、どこに行ったのかと思ったけど、ここにいたなんてねぇ」

 おばさんは部屋を少し見渡すと口元を緩ませて続ける。

「ここはね、あなたのおじいちゃんの部屋なの。覚えていたのねぇ」

 しみじみとその辺りにある物を触りながらゆっくりと語る。……私個人としては、ただ隅の方に行きたかっただけでこの部屋については覚えてはいないのだけど。なんとなくそうは言いにくいので小さく「すみません」と謝って部屋を出ようとした。

 敷居を跨ごうとした時、不意におばさんの言葉が私の頭をよぎる。

 ――蛍の声。

 蛍に鳴き声などないはずだ。

 今度は意識してゆっくりと後ろを振り返ると、おばさんは不思議そうにこちらを見て小首を傾げた。

「どうしたの?」

「……いえ、先ほど言っていた『蛍の声』というのが気になりまして」

 できるだけ会話はしたくないのだけど、このままモヤモヤしているのも気持ちが悪い。

 私の言葉を聞くと、ああ、と思い出したように呟いて、またにこやかな笑顔に戻った。

「この辺りに伝わる、ちょっとした伝承みたいなものよぉ」

 おばさんはすぐ傍にあった座椅子に腰を下ろすと、こちらにも座るように手で促した。

 確かに立ったまま話を聞くというのもあれなので、促されるまま彼女に向き合うような形で腰を下ろす。私が座るのを確認すると、おばさんはゆっくりとした口調で続きを語り始めた。

「甲高い音がしたでしょう? あれはね、この家の裏の方に見える山から聞こえてるの。たしか、山の形状によって風切り音が反響されて……ええっと、なんだったかしら」

 そこでしばらく間を取って詳しいことを思い出そうという素振りを見せたが、どうやらその先は出てこなかったらしい。恥ずかしそうに小さく笑って「歳ねぇ」なんて言って誤魔化した。

「んふふ。まあ、そんなのはいいの。……この音を『蛍の声』っていうのにも訳があってね。ここからが重要なんだけど、この音が鳴った後に蛍が飛ぶと言われているのよ」

「……蛍?」

 その言葉に訝しげに呟くと、その声が聞こえたのか、おばさんは大きく頷く。

「そう、時期外れの蛍がね、音に向かって集まってゆくんですって……でもね、ここだけの話。私も、多分ここに集まってる人も、その蛍を見たことは無いんだけどねぇ」

 伝承らしい曖昧さに一瞬口元がにやけそうになって慌てて口を押える。そんな私を見て彼女は声を上げて笑った。

「誰も見たことないのに蛍だなんて可笑しいわよねぇ。でも、ちゃあんと、意味があるのよ」

 そこで言葉を切ると表情を引き締めて、私の顔を見つめた。急に空気が変わったことに一瞬驚き、自分も合わせるように背筋を伸ばした。

「……蛍を死者の魂に見立てて考えててね。声に導かれて、蛍が飛んでゆく……魂がうまくお天道様へ昇ってゆくための道しるべの音だ、ってこの辺の地域では語り継がれてて。だから――」

 私をじっと見つめていた視線は下へ俯き、そして窓の方へと向けられた。

「……あの人も、さっきの蛍の声に導かれて、うまくお天道様の元へ行けるといいのだけど」

 話が段々と抽象的になってきたため、いまいち理解は出来なかった。しかし窓の外を見つめる彼女は今、自分の身内の死を悼んでいることだけはわかった。


 彼女につられて見た窓の外は、やっぱり夜の世界が広がっているだけだった。


     ◇


 ここへ来て二日目。

 白い木製の棺が金属の扉に吸い込まれていくのを見送り、金属製の大きな箸の扱いに苦戦しているうちに午前はあっという間に終わった。

 祖父の家へと戻ったことで一時的に緊張感から解放されたからか疲労が一気に押し寄せてくる。机に突っ伏し、大きく息を吐いた。

「……で……この後どうする……」

「だから……は……」

 ざわめき声が鬱陶しい。机に顔を付けたまま後ろの方へ目を遣ると、母を中心に何人かの親戚が集まって会議しているようであった。

「そのことは…………で、この……」

 困ったように眉を下げてながら会話に参加している母の顔が胸に刺さる。そんな母に尚も親戚――顔も知らない年寄り――が一際大きな言葉を続ける。

櫨下はぜしたさん。一応ね、この建物の権利は貴方にあるんだから、そこはしっかりしてもらわんと」

「ちょいと健さん。父を亡くしたばかりですし、今も娘さんもまだ落ち着いてないでしょう……」

 横から昨日自分に話しかけてくれたおばさんがフォローの言葉を付け足すも、母の顔が笑顔で固まったのを見て、もう私は限界だった。

 わざとらしく足音を立てて集団の傍へと行き、母を問い詰めていた老人をキッ、と睨む。

「……少し、外へ行きます」

「あっ、灯ちゃん!」

 後ろから自分を呼び止める声が聞こえたが、聞こえないフリをして、乱暴に玄関の引き戸を閉めた。

 自分でも幼稚だと思う。なんの解決にもなっていない、ただの機嫌を損ねた子どものようだ。

 ――ちょっと、冷静になろう。

「……余計、お母さんを困らせちゃったかな」

 自責の念が広がってくるのを阻止するように大きく息を吸う。するとほのかに甘い匂いが鼻孔をついた。

 突然の強い香りに驚き、思わず原因を探ろうと辺りを見回すと簡単にそれを見つけることができた。

「……キンモクセイ?」

 今自分が立っている玄関先から少し先。花の無い寂しい花壇に囲まれながら、小さな花をいくつも咲かせているキンモクセイが見えた。

 足元をよく見ると、風によって飛ばされてきたキンモクセイの花が木への道しるべを示すかのようにちらほらと落ちている。

 橙色の花弁に導かれるように木の元へと足を進めると香りはより一層強くなり、真下に行く頃にはむせ返るような甘い匂いに包まれていた。

 ――……ああ、昨日の甘い風はここからだったの。

 昨晩、夜風に乗って流れ込んできた匂いを思い出して納得をする。来たときはもう辺りは真っ暗だったし、バタバタしていたせいでこれにはには気づかなかったのだろう。

 そんなことを考えながら、この後どこへ行こうか思考を巡らせる。強張っていた気持ちは知らぬ間にキンモクセイによってほぐされたのか、口元は自然と緩んでいた。


     ◇


 舗装されていない道をのんびり歩く。草の青臭い匂いと土の匂いに不思議と安心感を覚えながら畑を抜けると、広いわけではないが車の通れる道が見えた。

 道沿いに歩いていけば何か店があるかもしれない。しかし、ここはあえて向かい側にある獣道を選ぶことにした。

 店なんて帰ればいくらでもあるし。

 枯草を避けながら坂を下り、細い小川に沿って真っすぐ歩いてゆく。

「……三つシュロの木追い越して、いっぽん、にっぽん、ぴょんぴょんぴょん。真ん丸小山に小さな小穴」

 なんとなく、その場の情景に合わせて童謡のようなリズムを取って謡ってみながら、獣道へと続く短いトンネルへと足を向かわす。湿った落ち葉に足を取られないように気をつけながら奥へと進む。

「ぼっちゃんお揃い、こんにちは。蜘蛛の子こそこそ、おうちに帰る」

 お地蔵様をぼっちゃん呼ばわりだなんて罰当たりじゃあないかな。悪戯っ子のようにクスクスと笑いながら、道順通りに歩く。

 薄暗い樹木のトンネルを抜けると、眩しいくらいの日差しに出迎えられた。どこからか鳥の鳴き声が聞こえた瞬間、ざぁっと風に揺すられて周りの木々も連なって鳴き出す。

 ああ、空気が美味しい。

 非日常的な神秘さを感じながらも、しっかりと足を踏み出す。ざく、ざく、と葉を踏みしめる音がやたら響いて聞こえる。

 どこへ、だなんて目的が頭にある訳ではなかった。

 だが、歩みは止まらずに、真っ直ぐある一点を目指して進んでいた。早く、早く。誰かが私を急かす。家を出てからどのくらいの時間が経ったのだろうか。気づけば辺りを照らす光の色が若干変わり始めていた。

「うぇあっ」

 枝を避ける為に手で道を作ったら、その枝を支えにしていた蔦をおもいっきり被ってしまった。蔦を顔から払いのけると、視界に突如見慣れない色が映りこむ。

「……まっかな鳥居」

 緑に囲まれたこの場所ではいささか不自然と思うほどに、発色のよい紅の鳥居が寂しげに立っていた。

 引き寄せられるように鳥居へと近づく。大きさは私よりもずっと大きいものであったが、それは初詣とかに行く神社のそれと比べると随分貧相で簡単なものと思えた。

 鳥居のずっと奥には上へと続く階段が見える。ああ、段の高さがまちまちで、幼い私は一段一段上がるのに苦労をして――

 

 パキッ。

 

 ばっ、と後ろを振り返る。

 今、何かがいた。

 しかし、振り返った先にはうっそうとした茂みしか無く、なんの影も見られなかった。きっと、狸か何かがいたのだろう。こんな山の中だしいてもおかしくはない。

 乱れた心拍数を戻そうと大きく深呼吸をしてから前へと進む。落ち葉を踏んだ時の音は奇妙に木霊して、私のすぐ後ろからついてくるようにも感じられる。

 ざく、ざく。

 風が冷たい。首元にかかる冷たい風が私の中まで入ってくるみたいだ。

 ざく、ざく。

 あ、椎の実。炒って食べたなぁ。懐かしい。

 ざく、ざく。

 うーん、よく覚えてないけどなんか椎の実好きなんだよなぁ。足元にある分だけ、少し拾っていこうか。実を拾おうと足を止める。

 ざく。

「え」

 しかし私の耳に入ってきたのは、先ほどまで自らが発していたであろう音。

 もう一度、後ろを振り返る。しかし、やっぱりそこには何もなかった。

 今確かにもう一つの音が聞こえた。

 頬を撫でる冷気とは違う寒気に、体を揺らす。

「気の、せい」

 そう、気のせいだ。と繰り返し呟き無心で拾い続ける。しかし、いつしか指先に力が入らなくなり、すり抜けるように手の中から一粒零れた。慌てて手を伸ばすも落下する実を掴むことは出来ず、最後にカサッと音を出したきり落ち葉の中へと消えてしまった。

 伸ばした指先をひっこめ、腕を胸に抱き寄せて立ち上がって前へと進む。

 ざく、ざく。

 まだ、階段へたどり着かないの?

 ざく、ざく。

 ああ、もう。気味が悪い。

 ざく、ざく。

 ついに私は耐え切れなくなって、腕の中の椎の実が零れるのも気にせずに走り出した。わざと大きな音を立てながら目の前の階段へと急ぐ。静かな森の中に潜む自分以外の何かの存在なんて感じたくなかったのだ。

 階段の前まで来ると私は急いで昇った。昇りにくくはあったが、幸いそこまで段数がなかった為あっという間に上へとたどり着くことが出来た。

 二頭の狛犬の横を通り過ぎると、今まで私を突き動かしていた恐怖が綺麗に溶けていったように感じ、思わずその場にしゃがみこんでしまった。

「はぁ……」

 耳を澄ましてもただ自身の荒い息が聞こえるだけで、もう音は聞こえない。その事実により安心を覚える。

 本当に、勘弁して欲しい。

 昔から幽霊とかおばけとか、そういう一般的には目に見えないものが苦手であった。お墓参りだったり肝試しだったり、そういったものに触れるとすぐに頭がくらくらして気持ち悪くなってしまう。


 カサッ。


 また。

 もう後ろを向きたくはなかった。どうせ、振り返ってもそこには何もないのだろうから。

 なんで見えないの? いい加減、姿を見せてくれたっていいじゃない――

 半ば自棄になって勢いよく後ろを振り向く。


 振り向いた瞬間、目を疑った。

 私の予想は見事裏切られ――同時に叶ったのだが――そこには驚いた表情で固まっている青年が立っていた。

「えっと……大丈夫? 具合悪い?」

 心配そうにそう呼びかけながら、彼はこちらへ手を伸ばしてくる。しかし、私の脳内ではぐるぐると新たな混乱が生まれ、思考の渦に飲み込まれてしまいそうになっていた。

 なんでもない言葉なはずなのに、彼の放った声が頭の中で反響し続ける。駄目だ、くらくら、して、気持ち悪い。

 この目の前の存在は、なんなのだろう。

「だ」

 大丈夫、と続けるつもりだった。

 だが彼の顔をはっきり見た、その時。頭が割れるように痛み、視界が急に遠ざかっていくような感覚に陥る。

 ――なんだ、これ。

 霞む世界。影がこちらへ近づいてくるのをぼんやりと他人事のように眺めながら、眠るように私は意識をそのまま手放した。




     ◆





 ――蛍。

 暗い景色の中で、一つの小さな光が漂っている。

 それが蛍であることを、どうしてだか私は理解していた。


 蛍が、呼んでる。


 光へ手を伸ばそうとした時、甲高い音がそれを遮る。


 ピィー。


 その音を聞いた瞬間、私は夜の湖にでも溶けてしまったかのように、完全な暗闇に包まれて消えた。




     ◆





 目が覚めた。

 視界に映るのは軒下と、そこに貼られたいくつかの古い千社札。視界は先ほどよりはだいぶクリアになっており、体もいくらか軽く感じる。

 体を起こすと、自分にコートがかけられていたことに気付く。

「……これ」

 恐らく、彼のものだろう。畳もうと手に取ると、珈琲の香ばしい匂いがふわりと香る。

 するとタイミングよく、そこに先ほどの男性が缶を二つ抱えて帰ってきた。起き上がってる私を見て、安心したように笑う。

「ああ、目が覚めたんだね。よかった」

 こちらがその言葉に応えるように軽く会釈をすると、そのまま私の方へと向かってくる。

「……はい、これ。温まるかと思って買ってきたんだ」

 自販機で買ってきたのだろう。よくみかけるコンポタージュの缶をこちらに手渡すと、私の隣に腰かけた。

「ありがとう、ございます」

 隣をチラリと窺いみる。さっきはあんまりよく見れなかったが、歳は私よりも少し上――二十代前半――ってくらいだろうか。黒縁の眼鏡の影響か少々幼くも感じるが、それでも大人びた雰囲気を纏っている横顔にどきりとする。

 そう、なんてことない。

 彼は私と同じ人間じゃないか。それなのに言葉も返せないまま倒れてしまうなんて。

 自分の精神力の無さが途端に恥ずかしく思えて、それを誤魔化すように渡された缶へと口を付ける。中身は少しぬるくなっていた。

 ……自販機なんて、こんな森の中じゃ置いていない。

 きっと急いで買ってきてくれたのだろう。そう思うと手の平に感じるほのかなぬくもりが、優しく体の中心へと伝わってくるような感覚がした。

「あー、ちょっと冷えちゃったな。ごめんね」

 同時に缶へ口を付けた彼が横で苦笑いをする。

「いえ! あの、えっと私、これがいいです! 猫舌なので」

 慌てて声をかけるも、自分の発した言葉の支離滅裂さに頬がカァと熱くなる。何言ってんだろう。

 すると「よかった」と彼は言うと、コンポタを一気飲みして明るく笑った。

「実は俺も、このくらいの方が飲みやすくて好きなんだ」

 彼のそれは、胸が温かくなるような笑顔だった。さっきまでの不安がどこかへ消えていくのを感じながらも、同時に罪悪感が沸々と体の奥底から湧き上がってくる。それを抑えるかのように手の中の缶をきゅっと包み込んだ。

「……あの」

 遠慮がちに隣へ声をかけると、すぐに簡単な返事を返してくれた。

「うん? どうしたの」

「迷惑、かけてしまったなぁって思って。……すみません」

「ああ、なんだ。別に俺は構わないよ。それより体調は平気?」

「……ええ、だいぶ落ち着きました」

 そう返すと、彼は安心したように肩の力を抜く。こちらを気遣う仕草に胸がチクリとする。

「私」

 短い単語だけ呟くと、隣の彼は不思議そうにこちらを見て首を傾げる。そんな反応を見て、やっぱり言うのをやめようかと口を閉じる。

 ――でも。

 このままでは、こんなにも良くしてくれた彼に対して不誠実なのではないか。そんな想いが私に勇気を与えた。

「――貴方のこと、おばけかと思ったんです」

「え?」

 気の抜けた返事。

「突然ごめんなさい。でも、こんなに親切にして頂いたのに、そう思ってしまったのがなんだか申し訳なくて」

 返事はない。彼の顔を見るのがなんだか怖くて一気に捲し立てるように続けた。

「本当なんです。声をかけられた時からずっと気分は悪いしくらくらするから、てっきりいつもみたいにおばけなんだと思って。その。それに……元々見える方なので」

「見える方……?」

 どこか言葉の真意を探るような声色に、後悔の念が一気に襲いかかってきた。

 なんで、言っちゃったんだろう。そんな小さな後悔が私に次の言葉を紡ぎ出すのを躊躇わす。

 それでもなんとか気力を振り絞って震える口を一度きつく結ぶと、再び口を開いた。

「昔から、皆には見えないものが見えたんです。妖怪、とかじゃなくて、ちゃんと人の形をした幽霊が。だから……」

 だから、皆に――

 いけない。過去の記憶を振り切るように目を強く瞑って歯を食いしばる。そこまで続けるとようやく納得がいったように「ああ」と声を漏らす彼。

「なるほど」

 そう頷いたきり、彼は黙って空を見上げた。二人の間には沈黙が流れる。私にとっては耐え難い沈黙であった。

 間を繋ぐように、ちびちびとコンポタを飲んで彼の返事を待つ。

 缶は徐々に冷えてきていた。

「……さて、そろそろ帰ろっか」

 しかし、ようやく口を開いた彼はなんてことないようにそう呟き、おもむろに立ち上がろうとする。もちろん、私は慌てて声をかけた。

「えっ!? あの、それだけですか?」

「それだけ……って?」

「だ、だって、自分をおばけ扱い、とか。おばけが見える、とか、気味が悪いじゃないですか。しかも、初対面なのに」

「はは、なんだそんなこと。初対面、ねぇ……そりゃ後ろから人がいきなり近づいてきたら誰だってびっくりするって。しかもこんな人気のないところなら尚更」

 再び腰を下ろすと、私を安心させるようにゆっくりと語りかける。

「それにさ、この辺じゃ別に幽霊がどうとかってことは、そんなにおかしいことじゃないんだ」

「え、そうなんですか……? もしかして、皆さんそういうものが見える、とか」

「いや、ほとんどの人は見えないよ。……ああ、『蛍の声』って、話知ってる?」

 昨晩のおばさんの話が頭によぎる。

「ええ、なんとなくは。えっと、山から聞こえる甲高い音を蛍の声ってここでは呼んでる、んですよね?」

「そうそう。この世に未練を残した魂が、無事に天へと戻っていけるように、って伝承。知ってるなら話が早いや」

 彼はこちらの方を見る。そして、何故かフッと頬を緩ませてから口を開いた。

「そんな伝承が伝わってるくらいだから、この辺では別に霊的なものに関してそこまで敏感じゃないっていうか。珍しくないんだよなぁ。むしろ見えるなんて言ったら『見送り人の素質がある!』なんて騒がれるんじゃないかな」

「『見送り人』……?」

「あれ、これは知らなかったか。うーん……誰にこの話聞いた?」

「えっと、親戚のおばさん、です」

「……さん、……まぁ……て当然か」

 何やらぼそりと独りごとを呟くもよく聞き取れなかった。そのまま少し考え込むように顎へ手を当てて俯くが、すぐに顔をあげてにっこりと笑いかけてきた。

「そうだ! ねぇ、ここにはいつまで居る予定なの?」

「あ、っと。一応、明後日の朝にはここを出る予定です」

 そう返すと目を細め、緩やかな弧を描いて微笑んだ。

「よかった。……ねぇ、良かったら明日もここへ来てくれない? 見せたいところがあるんだ」

「それは大丈夫ですが……」

「よしっ、決定! ……あ、コート。ずっと持たせたままだったね。ごめんごめん受け取るよ」

 促されるままコートを手渡すと、彼は立ち上がって私の正面に回り込む。

「じゃあ、明日の……そうだな。お昼ご飯食べたら、またここで――」

「あのっ!」

 とんとん拍子に話が進んでいくのを止めるように声を張った。だって、なんだか、おかしい。

「ずっと気になっていたのですが……貴方の名前を聞いても、いいでしょうか?」

 すると、彼の表情が一瞬強張ったかのように見えた。しかし、すぐに申し訳なさそうに眉を下げて自己紹介を始めた。

「ああ、なんてこった。すっかり自己紹介を忘れてたね。……俺の名前は、赤樫透あかがしとおる。赤い樫の木が透き通る、で覚えてね」

「赤樫……さん」

「透でいいよ。……それじゃ、明日ね」

 私に向かって大きく手を振りながら――まるで浮かれたように――彼は急いで走り去っていった。


「――透、さん」

 そう口に出すと心臓がドクンと脈打ち、胸を掻き毟りたいような衝動に襲われる。


 ――なんで、私が今日帰らないことを知っていたんだろう。

 そんなちょっとした疑問だった。

 もしかしたら、なんてことない少し考えればわかること、というだけの推測から導き出された言葉だったのかもしれない。

 だが、一度疑問によって立ち止まってしまった思考はそこから不安をいくつにも枝分かれさせ、次第には私全体を言いようもないモヤモヤで包み込む。



 昼間よりも一段と冷えた風が吹く。空を見ると、夜の世界の訪れを感じさせる藍色が橙色へと侵食し始めていた。

「……私も急いで戻ろう」

 すっかり冷えた缶を落とさないように強く握り、私は亡き祖父の家へと向かった。


     ◇


 家の戸を開けるや否や、中からパタパタと足音を立てながら母が廊下から顔を出した。

「ああ、灯」

 私の顔をみた母は心底ほっとした表情で出迎えてくれた。

「もう。どこに行くかくらいは言いなさいよね。連絡も取れなくて心配したんだから」

 慌ててポケットの中の携帯を確認すると、そこには確かにいくつもの不在着信の履歴が表示されていた。

「ごめん、気付かなかった」

「全く……まあいいわ。……あら、森にでも行って来たの? 頭や体、葉っぱだらけよ」

 呆れたように溜息を吐きながら、頭や服を大雑把に手で払う母。なんだか自分が小さな子どもに戻ってしまったようで少し恥ずかしい。

「……さ、夕飯もうすぐ出来るから早く着替えてきちゃいなさいな」

「ええ、早くない?」

 はいはい、と私の不服を受け流して母は奥へと消えていった。時計をみるとまだ六時少し前。

 あまりお腹は空いていなかったはずなのに香ばしい醤油の匂いというのは随分な力をもっているようで、途端に脳は空腹を訴え出す。

 一人で苦笑いをしながら、言われた通り着替えにいくことにした。ふとポケットに違和感を覚えて探ってみると、そこには椎の実が一粒だけ入っていた。

 指で軽く撫で、もう一度ポケットの中へと戻した。


     ◇


「――あ」

 風呂から上がって、なんとなく外を見ようと縁側へ行くとそこにはもう既に先客がいた。腰をかけて外を見ているようだったが、ここからだとその表情はよく見えない。

「……お母さん」

 呼びかけに気付いたのか、顔だけこちらへ向けて笑った。

「あら、灯も月を見に来たの?」

 ちょいちょい、とこちらを手招きする。別に月を見に来たわけではないが、呼ばれるまま隣に腰を下ろす。

 座るとふわりとキンモクセイの甘い匂いが香る。

「キンモクセイ、いい匂いだね」

「そうねぇ……お母さんにとっては、懐かしい匂い」

「そうなの?」

「……私の母……灯にとってはおばあちゃんね。おばあちゃんが亡くなってから、おじいちゃんが庭にキンモクセイを植えたからねぇ」

「……そっか」

 短い相槌を打つと、それっきり会話は途切れた。

 冷たい夜風が頬を撫でる。少し間を置くと、母は独り言のようにぽつりと語りかけてきた。

「ここは光源があまりないから満天の星が見えるはずなんだけどね。今日は満月だから、他の星がすっかり霞んじゃってる」

 ぼうっと、月のまわりが薄く膜を張っているように光っているのがわかる。その周りの星々は確かに月の強い光に負けて後ろの方へと隠れてしまっているようだった。

 不意に母が星をなぞるように指を動かす。

「……あれは……何座なんだろうねぇ。ほら、月の横にある、四角いやつ」

 母へと顔を寄せて指し示す方向を一緒に見るも、やっぱり私にもわからなかった。首を傾げると「そうだよね」と呟いて軽く笑った。夜の静寂に、母の落ち着いた声だけが響く。

「こうして星座をなぞったことは覚えているのに、肝心なところは消えてしまっている。……そんなものよね」

 諦めたように腕を下ろして続けた。

「私の記憶は無くなってても、こうして星は同じ位置で輝いてるのがなんだか悔しようで……嬉しい」

「……なんで?」

 初めて母の独白に近い語りかけに言葉を返すと、困ったように微笑んで私の頭をゆっくりと撫でた。

「灯も、そのうちわかるわよ」

 消えてしまいそうな声色。もしかして母は泣いているのではないかと顔を上げて見たが、変わらずに微笑を浮かべたまま夜空を眺めていた。

「……あんまり夜風に当たってると風邪引いちゃうわね。そろそろ戻ろうか」

「あっ、ちょっと一つだけ聞いてもいい?」

 頭から手を離し、立ち上がろうとする母を制す。すると、浮かせた腰を再び落ち着かせて不思議そうな顔をする。

「いいけど、どうしたの?」

「昨日聞いたんだけど、お母さんって『蛍の声』って知ってる?」

「そりゃあ、ここの生まれだからね。灯には話したことなかったけど……」

「そっか、ありがとう」

 母は私が霊的なものを極度に嫌っていることを知っている。恐らく、それを気遣ってくれたのだろう。

「それが、どうかしたの?」

「いや……ただ、おじいちゃんが蛍になってないといいなぁって」

 そういうと母はびっくりしたように目を丸くした。

「灯、なんでまたそんなこと」

 そこには私の発言を責めるような響きが含まれていて、私も母同様に目を見開く。そんな反応をされるとは思っていなかったため、しどろもおどろになりながらも返事をした。

「え。だって、蛍ってこの世に未練がある魂が、なるんでしょう? だがら、思い残したことがあるままだったなら、悲しいなぁって。あれ、違うの?」

 神社で会った青年の言葉を思い返してみても、確かにそう言ってた気がする。

「あら、そうなの? うーん。お母さんは『死んだ人は蛍になって天へ還っていく』とだけしか知らないから……そうなのかもね」

 あっさりとそう結論付けて母は今度こそ立ち上がる。

「さ、灯も早く寝ちゃいなさい。本当に風邪引いちゃう」

 自分の中ではまだ納得がいってなかったが、渋々その言葉に従って立ち上がる。


 ――やっぱり、あの人は何かを知っているんじゃないか。

 はっきりしたことはわからないし、本当に母が伝承に興味がなかっただけなのかもしれない。

 しかし私の中に芽吹いた不安は、確かに色を持って現実味を帯びはじめていたのだ。


 部屋へ戻ろうと一旦足を中へと向けるが、もう一度外へと目を遣る。月は雲がかかり少しぼやけてみえた。


 明日、彼にもう一度会う。

 そこで何かしらの答えを見つけられるはずだ。


「灯ー?」

 自分を呼ぶ母の声に返事をして縁側から立ち去った。


 日中、私に向けてくれた彼の笑顔が脳裏によぎる。

 確かに彼の言動とその存在に対してはいくつも不安には思うが、不思議と彼に恐怖は感じなかった。ただ、何か零れてしまったかのような切なさに似た感情が、私に何かを訴えかけてくる。


 視界の端に淡い光が映った気がしたが、目を向けてもそこには何もなかった。



     ◇


 三日目。

 午前中は片付けやら何やらで忙しなく時間が過ぎて行った。一瞬午後の約束に間に合わないのではないかと危惧したが、元々物が少なかったらしく、なんとか作業を終えることができた。

 それでもお昼を食べ終わった頃にはもう一時半は超えており、慌てて神社へと向かった。

 息を切らせながら階段を上がりきると、やはりそこには既に彼の姿があった。ぜぇぜぇと荒い息遣いが聞こえたのか、彼はのんびりとこちらへ向かって歩いてくる。

「あー、そんな急がなくてもよかったのに」

「す、みませ、遅れ、って」

 運動部あるまじき姿だ。まともに言葉が話せないのがもどかしい。

「向こうで少し休んでからいこっか。何、見せたいといってもここからそう遠くは無いんだ」

 羞恥心から顔を真っ赤に染める。黙って首を縦に振り、その言葉に甘えさせてもらうことにした。

「はは、まるで紅葉みたい」

 そんなとどめの一言によって私はさらに頬を赤らめ、金魚のように口をパクパクさせるしかなかった。


 腰を掛けて数分。なんとか呼吸も整い、顔のほてりも冷めてきた。

「……すみません、もう大丈夫です」

「あれ、もう? さすが、若いってすごいな」

 からかうような口調に少しだけムッとして返す。

「赤樫さんはいくつなんですか」

「透でいいって言ったでしょ。俺は、二十一」

 想像通りの年齢であった。しかし、彼は私の反応をそうとらなかったのか、不満そうに口を尖らせる。

「絶対もう少し下だと思ったでしょ? よく言われんだよなーくそ」

「え、いや、そのくらいだと思ってましたよ」

 なおも疑わしげな視線をこちらへ向けるも、パッと明るい表情へと変わって「よかった」と微笑んだ。

「さて、それじゃあそろそろいこうか」

「そういえばどこに行くんですか?」

「まぁまぁ。ついてきてよ」

 にこりと笑って彼は立ち上がる。その笑顔にいくらか訝しげな顔を作って見つめると、肩を竦めてみせた。

「そんなに怖い顔をしなくても、別に変なところには連れて行かないさ。そうだな……さながら、『森の散策ツアー』ってところかな」

「散策ツアー?」

「そ。……昔、よくこの辺で遊んでたからある程度は詳しいんだ」

 そう言って彼はゆっくりと前へ歩き出した。

「まず一つ目は、ここからすぐ傍だよ。……おいで」

 その声が妙に優しくて、なんだかこそばゆくなる。黙って横に並ぶと彼は満足げな表情で笑った。


 ――『蛍の声』について。

 ちらりと横を窺う。彼は私の視線には気づいていないのか、口角を上げて前を見つめていた。

 聞かなきゃ。……でも、何を?

 彼に対する疑問を聞いたところで、果たして私に理解できるのだろうか。蛍について。見送り人について。そして――

 ……彼が、私の何を知っているのか。


   ◇


「……傍って、なんだっけ……」

 道なき道を突き進んでゆく赤樫さん――透さんって言わなきゃ怒られるか――に精一杯ついていこうとするも、慣れない山道に思いのほか体力が削られ、疲労が若干溜まり始めていた。

 そんな私に気付いたのか、こちらへと近づく。

「ああ、悪い。いつもはもっとサクサク行ってたもんだから」

 すみませんね鈍くさくて。そう内心毒づいた瞬間。

 景色が揺らいだ。

 ――あ、やばい。

 斜面に枯葉が重なっている。この状況で足を滑らせた場合、どのような結末へと至るのかなんて一つしかないだろう。

 右足が後ろへと滑ったのをきっかけに全体的に後方へと傾く視界。宙に舞う色とりどりの落ち葉。予期される後頭部および腰への衝撃に備え、瞼をキツく瞑った。

「――っ」

 しかし、痛みはいつまで経っても訪れない。怖々と目を開いてみると、そこには視界いっぱいに映し出された透さんの顔。

「っ、ま、にあった」

 えっと。現状確認をしよう。

 どうやら、私は彼に支えられたお陰で落葉に埋もれる未来は回避できたようだ。

「あー……焦った。この辺は日陰で地面がぬかるんでるから気をつけてね」

 彼は私の腕を少々荒く引いて自分の胸へと寄せ――半ば抱きしめられているような格好で――、元の場所まで体を引っ張り上げる。

 返事が無い私を不審に思ったのか、そのままの体勢で顔を覗き込む透さん。

 お礼を言わなきゃとは思っていても、こんな至近距離にもちろん耐性の無い私はそれどころでは無く。やっと言葉に出た言葉が、

「珈琲、の香りが、しますね」

 である。これが年齢イコール彼氏居ない歴の力だ。

 当然私の言葉に唖然とする彼。その反応にますます顔に蒸気が集まって、そのまま沸騰してしまいそうだった。

「……ああ、俺か! はは、自分だとあんまり気づかないんだよなぁ。苦手かな、ごめんね」

 そこでようやく彼が腕を緩めて距離を取る。彼の熱が離れていったのがどことなく寂しく思わなくもなかったが、これでやっとまともに呼吸が出来る。

「あの、珈琲の匂い、好きです。えっと、ああ! 助けてくれてありがとうございました!」

 慌ててお礼を付け足すと彼は可笑しそうに笑い、こちらへ手を差し伸べる。

「……ほら、足場悪いから手ぇ繋ごうか」

 それがあまりに自然な言い方だったため思わずそのまま手を取ってしまいそうになるも、すんでのところでハッと正気に返った。

「い、いえっ! そこまでは大丈夫です!」

 そういうと透さんはどこか気まずそうに頭を掻きながら歩き出す。

「あー……もう子どもじゃないんだもんな。はは、悪い。つい」

 その反応に少しだけ罪悪感を覚えるも、さすがに手を繋いだ状態で冷静に過ごせるだけの自信はない為これは賢明な判断だった、と自身に言い聞かせることにした。

「赤――んんっ、透さんは下の兄弟がいるんですか?」

 歩きながら、ふと疑問に思ったことを口にしてみる。すると驚いたように「なんで?」と返す彼。

「いえ、なんだかそんな雰囲気があって。私もよく助けてもらってますし……」

「そうだな……」

 そこで思案するように顎に手を当てると、目を伏せて寂しげに笑った。

「うん、妹。みたいな人って言ったほうが正しいか。それならいる。いや、……いた、か」

 いた。

 その意味を汲み取れない程、私は幼くない。

 しまったと思った。青ざめた私に気付いたのか、慌てて彼は明るい表情を作る。

「ああ、ごめんね。死んだ、訳じゃないんだ。……多分ね」

「……行方不明、ってことでしょうか……?」

 あまり掘り下げないほうがいいとは分かっているのだが、口からは無責任な言葉が意志と関係なしにでてきてしまう。

 しかし、彼は私の問いには曖昧に微笑むでだけではっきりとは答えず、会話はそこで途切れた。



「ん、到着。意外と遠かったね。……ここだよ」

 ここだと示した指の先にあったのは小さな湖であった。

「わぁ……」

 湖に映り込む樹木の影と、その水面に落ちている色づいた葉によって、その場がまるで一枚の絵のように完成されていた。風が吹く度にその表面は揺らぎ、水彩画のように淡く色が混ざり合う。

 感嘆を漏らす私を見て得意げに鼻を鳴らす。

「綺麗だろ?」

 その言葉を肯定しようと、後ろを振り返った時。

 まるで彼の顔が塗りつぶされているかのように、顔があるはずのところが黒く抜け落ちていた。

 喉がヒュっと鳴る。

 しかし顔が見えなかったのは一瞬で、すぐに透さんのいつもの顔が現れる。

 今の、は。

 パニックに陥りそうになるのを必死に抑える。駄目だ、しっかりしないと、また迷惑をかけてしまう。息を整え、できるだけ笑みを浮かべて応えた。

「……すごく、綺麗です。びっくりしました」

 反応が遅れた私に少し怪訝そうな顔を向けるも、ひとまず笑みを返してくれたので胸を撫で下ろす。内側に未だくすぶり続ける不快な感覚を誤魔化すように、会話を切り出すことにした。

「こんなところ、よく見つけられましたね。結構奥なのに」

「ああ。さっきも言った通り、よく森で遊んでたからさ。いつもみたいに探検してたら偶然ここに出て」

 彼は湖へ近づいて、おもむろに手を水の中に入れる。「冷た」と小さな悲鳴を上げ、意味ありげにこちらへと振り向き、にやりとする。

 嫌な予感というのは総じて当たるものである。

「うぁっふぇっ」

 冷たい水を飛ばされ、言語化出来ない声が出てしまった。キッ、と相手を睨むも、当の本人は心底楽しそうに笑いながらこちらを見ていた為怒るに怒れなくなってしまった。

「……透さん」

「あっはっは、ごっめ、はは、いやね。やっぱりここはやっておくべきかと思って」

 なんの基準だ。

 頬を膨らませると彼が私の方へと近づく。身構えるも、「もうやらないから」という苦笑交じりの声に少し肩の力を抜いた。

「……気分、ほぐれた?」

「え?」

「いや、なんか体調悪そうだったからさ。……多分、俺のせいだし」

 こんなところに連れてきちゃって、と続ける彼に慌てて否定の言葉を返す。

「違うんです! ただ、私がひ弱なだけで!」

 そう、決して彼のせいではない、と思ってる。

 だって、大して口もうまくない私にここまでしてくれるような優しい人なのだ。それなのに誤解され不愉快にさせてしまったらと考えると怖かった。

 透さんに詰め寄るような形で訴えると、眉を下げていた彼の表情は次第に明るくなる。

「……優しいね」

 そう言うと彼は腕時計を確認する。

「……本当はもう一箇所くらい行こうかなと思ってたんだけどあんまり連れ回してもあれだし、俺も久々なせいで距離感が掴めないから……そろそろ戻ろうか」

 正直「もう?」という気持ちが大きかった。……蛍の声のことについても結局聞けていないのだし。

 しかし、実際自分の体調が不安定なことは事実である為彼の心遣いは嬉しかった。

「……そうだ。まだ時間あるし、うちに来ない?」

「へっ!?」

「ああ、変な言い方しちゃったか。俺の家、寿司屋なんだよ」

 頬が熱くなる。単純に恥ずかしい。

「だから、連れ回したお礼になんか食べさせてあげる」

 連れ回された覚えはないけど、寿司を食べさせてくれるっていうなら黙ってついていくしかない。一昨日食べられなかった分がまさかここにきて回収出来るだなんて思ってもいなかった。

 その喜びが顔に出ていたのか、透さんは嬉しそうに微笑んだ。

「はは、寿司好きだもんな」

「ええ、寿司小さい頃から好きで――」

 と、ここで私の笑顔は止まることになる。

「――なんで、私が、寿司が好きなことを知っているんですか?」

 彼の笑顔も、またここで固まった。

「……透、さん」

 消えかけていた不安が息を吹き返したかのように一気に私の内部を駆け巡る。


「貴方は、何者なんですか」


「何者、ね……」

 視線をこちらから逸らす。口元には依然として笑みを浮かべたままだったが、それは私が何度も感じた『胸が暖かくなるような』それではなく、もっと暗い水底の世界のものであるような寒気を感じた。

 不意に泣き出してしまいそうな気分にすらなった。――昨日。そう、昨日始めて会ったばかりであるはずなのに、酷い喪失感に襲われる。

「透さんは、私を、知ってるんですか?」

 頭がくらくらする。視界が霞む。

 彼と出会った、あの時のように。

「私は、私はなにを、しらないの?」

 気を失いそうになるのを必死にこらえながら記憶を遡る。私がここへ来たことがあると母が言っていたのは小学生の頃。小学校、……ダメだ、なんで――

「……なつの記憶が、ない」

 彼が近づいてくる。やめて、来ないで。あたまが、いたい。

 透さんは私の肩を両手でしっかりと押さえる。

「俺は……――」

 だが、その先に言葉は続かないまま、肩から手が離れる。涙で歪む視界では彼がどんな顔をしているのかはわからなかったが、それでも、笑っていたのだと思う。

「……この道を、まっすぐ行けば通りに出るよ」

 やっと聞き取れるか、という声量でそう告げるも、私はそれにどう返していいかもわからないままに立ち尽くしていた。すると、透さんは私の背中を乱暴に押す。

 前のめりになって何歩か前へと足が進む。急いで後ろを振り返ると、透さんは動かず、その場で手を振って立っていた。

「透、さん」

「今日は楽しかったよ。ありがとうね」

 それは彼なりの拒絶だったのだろうか。

 しかしもう私にはまともに物事を考えられるだけの余裕は無く、悲しげに笑う彼に背を向け、駆け足でその場を去ってしまったのだ。

 背中に投げかけられた小さな言葉は、もうよく聞き取れなかった。



 彼の前から立ち去ると次第に頭痛は収まり、視界もクリアへとなる。しかし、胸にぽっかりと穴が空いたような喪失感が体を重くする。夕飯も食べる気が起きず、私はそのまま眠ってしまった。


     ◇


 寒い。

 薄らと目を開けるが、外はまだ暗い。

 寒さの原因を探ろうと体を起こすと、正面の窓が無用心にも開いていることに気付いた。

「……このせいか」

 寝起きのせいか体はうまく動かない。ゆっくりと背伸びをしてから布団から這い出る。

 身震いをひとつする。元々寝てたからか暗闇には既に目は慣れており、特別電気を付けずに窓までたどり着くことができた。

 外は室内よりもずっと明るく、空の星々はやっぱり月明かりによって霞んでいた。ほうっ、と息を吐くと白い息が出るのが見える。

 虫の鳴き声さえもしない静寂。今は何時かなんて確認するのも野暮だろう。

 ――だって、ここはもう私たちの世界じゃない。

 窓のサッシに寄りかかって外へ乗り出す。夜風は私を包んでいたぬくもりを丸ごと剥ぎ取っていくけども、それもまた心地よく思えた。

 昼間はあんなにも感情が乱れて息苦しかったというのに、今は驚くくらい呼吸が楽だ。

 もしかしたら、私は夜の住人なのかもしれない。

 そんなぼうっとした思考を軽く笑い飛ばした。


 ピィー。ピィー。


 甲高い音……ああ、蛍の声、か。

 暗闇に響いたその音の余韻を噛み締める。山から出た音とあのおばさんは言っていたけども、これはまるで指笛のよう。

 『――中指と親指で円を作るんだ』

 いつだかに聴いた指笛の吹き方が記憶の底から蘇ってくる。無意識にその声になぞるように、自分も指を動かしていた。

 『――舌を口の中で丸め、その舌先に指を付けるように入れて』

 そう、そして。


 『――思いっきり、吹く』


 ピィー。


 できた。できてしまった。初めて、だったのに。

 思いのほか大きい音が出たことにびっくりする。

 いけない、母を起こしてしまったらどうしよう。そんな焦りと共に慌てて窓を閉めようと窓枠に手をかけた時、一段と強い風がこちらへと吹いた。

「ぅあ」

 風に怯み、瞼を瞑る。そろりと目を開けると、そこには淡く小さな光。

 するりと自分を横を通りすぎて部屋の中へと入ってくると部屋の中を一度大きく旋回し、再びこちらの方へと戻ってきた。

 無意識にその光に手を伸ばす。

 どこか、この指先に止まってはくれないだろうかという淡い期待を胸に指を差し出すも、それは滑らかな動きで腕をかわし、自分の周りを一周する。

 そしてもう一度正面へと戻ってくるとそれはゆっくりと私の胸へと近づき、そのまま吸い込まれるように消えていく。その様子を夢でも見ているかのような心地で呆然と見送っていた。

 なんだろう。これは。

 暖かい光が完全に自分に溶けていくのを感じながら、私は静かに意識を手放した。



     ◆



「きっれいな、はっぱ!」

 地面に落ちているイチョウをいっぱいに拾い集める。こうして重ねていくと綺麗なバラのようになることを私は知っているのだ。

 小さい手のひらに収まりきらないほど大きなバラを作れたことにホクホクしながら、私は人を探した。

 一番に彼へ見せたかった。その一心で、彼の名を呼び続けたのだ。

 しかし、彼は一向に前に現れず、次第に胸がモヤモヤと不安で押しつぶされそうになっていく。

 消え入りそうな声で呼ぶも、やっぱり返事はない。手の中にあるイチョウをきゅっと握り締めて前へと進む。

 しかし、足元に注意する余裕も無かった私は、そこで足を滑らせてしまった。大切に大切に拾い集めた葉っぱは綺麗に私の上に舞い散り、顔へと覆いかぶさってくる。

 歪む視界。手で葉を払い除けると、鼻に熱いものが集まってくるような感覚を覚える。

「……っうぇ、おにーちゃん……」

 黄色い絨毯の上で、ポロポロと涙が零れる。

「――灯!」

 聞き覚えのある声がする。水の中みたいな世界に、ひとつの影が駆け寄ってくるのが見えた。

「灯、どうしたんだ?」

 優しい手が私の頭をゆっくりと撫でた。その手から伝わる体温に、段々と悲しい気持ちは収まっていく。

「おにーちゃんに、わたそうとッ、おもった、のに」

 そこで、彼は私の周りに散らばっているイチョウに気付いたのだろう。困ったように微笑むと、私の腕を強く引っ張った。

「……しょうがないなぁ。そんな灯には、俺のとっておきのところに連れてったげる。ちょっと遠いけどね」

「とっておき……?」

 おにいちゃんは口に指を当てて「ひみつだからな」っと何度も言った。私は慌てて口に手を当てて頷くと、おかしそうに彼は笑った。

「さぁ、歌でも歌おうか」

「歌……?」

「……三つシュロの木追い越して、いっぽん、にっぽん、ぴょんぴょんぴょん」

 軽やかに歌いだすおにいちゃんを呆然と眺めていると、なんだか私も楽しくなってきた。

「真ん丸小山に小さな小穴。ぼっちゃんお揃い、こんにちは」

 お地蔵さんを通り過ぎると、目の前に大きな蜘蛛の巣が張っていた。ひぃっと、小さく悲鳴を上げると、おにいちゃんはそのへんにあった木の枝で蜘蛛の巣を突く。

「……蜘蛛の子こそこそ、おうちに帰る」

 悪戯をしたみたいに、小声でこっそりと歌を続ける。私たちは顔を合わせ、笑い合ってから先へと進んだ。



 彼が手を引いて連れてきてくれたところは、大きな水たまりだった。

「わぁ!」

 テレビで観たような綺麗な絵が目の前にあるみたいだった。

「綺麗だろ?」

「うんっ!」

 大きく返事をしておにいちゃんを見る。すると、彼もまた嬉しそうに私のことを見ていた。なんだかそれが、ずっとずっと嬉しいことに思えて、私は口が切れてしまいそうになるくらい笑った。

「ねっ、おにいちゃん。あの水たまり、持って帰ろう!」

「ええっ? そんなの、無理に決まってるだろ」

「だって、おじいちゃんにも見せてあげたい!」

「ひみつだって、言ったばかりだろう?」

 拗ねたように言うおにいちゃんが可哀想に思えて、私はすぐに謝った。

 すると、彼は眉毛を下げて「しかたないなあ」と、笑ってくれた。

「じゃあ、今度は灯のおじいちゃんも一緒に来よう」

「やったー!」

 両手を上げて喜ぶと、今度はお兄ちゃんも楽しそうに笑ってくれた。

「ありがとうっ! とーるおにいちゃん!」

 隣の彼をぎゅっと抱きしめると、慌てたように自分の名を呼ぶおにいちゃんの声が聞こえる。それも胸がくすぐったくなるくらい嬉しかった。


「そろそろ帰ろう。……ほら、もうこんなに手が冷たい」

 彼は私の手を強く握った。

「おにいちゃんの手は温かいねぇ」

「そりゃそうだろう。お前が水に手なんて入れるからだろ」

 それでも彼は私の手を離さず、家の前までずっと握っていてくれた。

 家の庭にはおじいちゃんがお花の手入れをしている最中だった。私たちに気付いたおじいちゃんはこちらに向かって手を振った。

「――おお、おかえり」

 手を止めて、こちらへと向かって歩いてくる。

「透、いつも悪いなぁ」

「いえ、こちらこそ。……じゃあな、灯」

 ぱっ、と手を離しておにいちゃんは自分の家へと帰っていった。なんとなく空いた手が寒く感じてポケットの中へと入れる。

「灯、どれ体が冷えたろ。家の中へ入りなさい」

 確かに寒かったが、おじいちゃんが花を綺麗にしているところを見るのは好きだった為、それには横に顔を振った。

「ううん! おじいちゃんとお花見る!」

「はは、そうかあ」

 それっきり、おじいちゃんは黙って作業を続けた。

 おじいちゃんはおしゃべりでは無かった。でも、怖いとは全く思わなくて、お花をいじったり、私を撫でてくれる手はとっても優しいということを知ってる。

「おじいちゃん、この甘い木って、なんていうの?」

 自分の丁度横に生えている木を指差すと、おじいちゃんは「ああ」と言って教えてくれた。

「それはなあ、金木犀っていうんだ」

「キン、モクセイ……?」

 まるで宇宙人の言葉みたいに思えて、私は一人でずっと「キンモクセイ」と呟き続けていた。

「そうだ。金木犀」

 おじいちゃんは作業してた手を止めて、そのキンモクセイへと近づく。

「この木も……大きくなったなあ」

 木に触れるおじいちゃんの手はやっぱり優しくて、私も同じようにキンモクセイへと触る。すると、おじいちゃんは嬉しそうに私に笑いかけてくれた。

「……ばあさんも喜ぶなぁ」

 ぽつんと呟いて、おじいちゃんはまた花壇の方へと戻る。

「そうだ、灯。明日はー、花札をしようか」

「はなふだー?」

「ああ。前見せたろー?」

 そう言われると、頭の中には色とりどりの綺麗な札が広がる。

「あ! あの綺麗なやつ!」

「ああ、そうだ。あれも使ってやらんと勿体無いからなぁ」

 あの綺麗なものを使えるんだ! その喜びから私はその場で何度も飛び跳ねた。その様子を、黙って微笑みながらおじいちゃんは見ていた。



 夜。

 ガタン。と、音がした。

 なんだろう。窓から覗くと、まっくらい中、おじいちゃんが外へと出かけていくのが見えた。

 『夜はな、生き物の世界じゃないんだ。夜の世界の住人に食べられてしまう。だから、外に出たら危ないんだぞ』

 そんな風に言っていたおじいちゃんの声が過ぎる。

「おじいちゃんが、あぶない」

 慌てて廊下へと出て階段を降りる。靴を急いで履いて外へと出ると、丁度おじいちゃんが角を曲がったところだった。

 ぱたぱたと後を追いかけても、おじいちゃんには追いつかない。

 急がなきゃ。急がなきゃ。

 おじいちゃんは木の中へと入ってしまう。

 ぱたぱたと、その背中を見失わないように一生懸命ついていく。けれどもやがてその背は木の枝に隠れてしまい、おじいちゃんは見えなくなってしまった。

 どうしよう。

 見失ってしまったことへの不安に身を震わす。ふと周りを見渡してみると、木の影が私を襲ってくるようにも感じて、小さく悲鳴をあげそうになった。

 どうしよう。ぐるぐると焦りと恐怖が私の心を支配していく。

 その時。大きな音が鳴った。


 ピィー。ピィー。


 音だ。私は、この音を知ってる。

 音の方へと進む。多分、そんなにおじいちゃんとは離れてない!

 ざくざくと音を鳴らしながら、前へと進む。すると少し開けた場所へと出た。


 ピィー。ピィー。


 もう一回、音が鳴った。これは、笛の音。

 この先におじいちゃんがいる。

 少し高い階段を一生懸命昇る。あと、ちょっと。

 階段の上へとたどり着いた、丁度その瞬間。


 おじいちゃんと、ひとつの光が見えた。


 優しくて明るい光はおじいちゃんへとゆっくり近づき、そしてそれは消えていった。

 胸に手を当て、おじいちゃんは俯いていた。

 私はその悲しげな姿に、声を、かけようと、して。

 そして私は、静かに目を瞑った。



     ◆



「どうして着いてきたんだ。あれほど夜は危ないと言っただろうが」

 札を切りながら責めるように私へ問いかける。

「だって、おじいちゃんが危ないと思って……」

 すると呆れたように溜息をひとつ吐くと、おじいちゃんは裏返して札を並べ始める。

「全く……、あの時は肝が冷えたぞ。……いいか、灯。覚えておきなさい。わしがやっていたのはな。蛍との会話なんだ.。」

「蛍との……会話?」

 おじいちゃんは七枚並べ終えると、今度は表向きで八枚を並べる。

「そうだ。それが、見送り人の役割だからだ」

「みおくりびと……」

 それが終わると、残りの札は中心へと置いた。

「今のお前に言っても、ピンと来ないだろうけどなぁ……大切で、そして神聖な。そして誰の関与も許されない、一対一の語らい。それを灯は見てしまったんだよ」

 私は自分の前に置かれた札を集めて、中を見る。赤札が二枚揃っていた。

「むずかしくて、わからないよ。おじいちゃん」

 困ったように目の前の人をみると、同じように困った風に眉を下げて笑った。

「わからないなら、それでいい。それでも、聞いてくれ」

 おじいちゃんは手札に目を通すと、一枚抜き取って場へと出す。代わりに表に出ていた桔梗の札を取って手札に加えた。

「わしは、見送り人だ。……羽が濡れて飛べなくなった蛍を、胸の中で温めて空へと送り出してやる。……灯。お前も、その素質はもっているんだぞ」

「私が……? やっぱり、わからないよ……」

 手持ちのカスを場に置き、山から一枚取る。

「……見送り人は、誰もがなれる訳じゃあないんだ。わしらはいろんな魂に触れ、その様々な痛み苦しみを胸に生きていかねばならない。だからこそ、痛みを知れる、優しい人間じゃないといけないんだ」

「……そんな、だったら、やっぱり私じゃないよ。私は、優しくなんてない。いつも、自分勝手で、わがままで。すぐに、逃げちゃう」

 手に持っていた鹿と紅葉の札にぼたりと雫が落ち、そこだけ染みのように広がってしまった。それをきっかけに、止めどなく涙が溢れてきた。

「どうやったら、素直に生きられるのかな。皆が見えないものを、見えないままで、なんで生きられないのかな」

「灯」

 そっと、私の頭に優しい手が乗る。

「お前は変わらなくていい。お前が感じ、受け止める痛みの分だけ、お前の心を見てくれる人はいるのだから」

 その体温は私に溶けていくように、するりと流れ込んでくる。バッ、と前を向くと、そこには温かく微笑みながら、光へ消えていくおじいちゃんの姿があった。

「待って、待ってよ」

 まだ何も聞いてない。何も、話せてないのに。

 ここでの思い出。おじいちゃんとの会話。今まで溜まっていた分が一気に頭の中で溢れだして様々な色を私に見せる。

 ――なんで、私はこんな大切なことを忘れていたのだろう。

 私は、夏がいつも楽しみで、好物のスイカを用意して待ってくれるおじいちゃんが、大好きだったのに。

「ねぇ、なんで。私は、やっと、おじいちゃんのことを思い出せたのに! いかないで、ねぇ、おじいちゃん!」

 学校に居場所が無かった。お母さんは仕事で家には全然いなかった。そんな私の、大好きな帰る場所だったはずなのに――

 私の頭を撫でる手が止まる。

「どこにもいかないさ、わしは。……灯と、花札ができて、良かった」

 自分から離れていく腕を掴もうと指を伸ばすも、おじいちゃんはひとつの小さな光となって私の指をすり抜けていった。

「強く、優しい、灯(あか)りになりなさい」



「おじいちゃん……っ!!」




 目が、覚めた。

 急いで体を起こすも、視界は暗い。


 周りを見渡すと、そこは確かに私が寝ていた部屋であった。しかも、最初に眠りについたときと同じ、布団の中。

 窓はきっちりと締められ、月明かりが一人で寂しそうに輝いていた。


 夢だったのかもしれない。

 胸を撫でるも、やっぱりそこにはなんの違和感もなく、いたって普通の寝巻きであった。

 なんで、あんな夢を見たんだろう。あれが果たして本当に事実なのか、それとも私が勝手に作り出したお話なのかは、もうわからない。

 この胸の寂寥感が一体どこからきたのかもだって。


 今度こそ、ちゃんと寝てしまおう。きっと疲れているんだ。

 もう一度眠りにつこうと右手を床へつく。


 その時、手に何か当たった。

 不審に思い、指先で探り当ててそれを目の前へと持ってくると、それは。


 ――鹿と紅葉だった。


 あの時確かに箱へしまったはずの、札。


 慌てて窓へと駆け寄り、その札をよく見る。

 すると、そこには覚えのある染み。

 指でなぞると、それはまだ微かに湿っていた。






「……おじい、ちゃん」


 私は、ここで初めておじいちゃんの死を、理解した。






     □





「いやあ、灯ちゃんも大きくなったわねぇ。すっかり美人さんになっちゃって」

「ふふ、やだなぁおばさん。おばさんこそ変わらずにお元気そうでなによりです」

 玄関先でひとしきり笑い合うと、おばさんは懐から鍵を取り出す。

「これ。……別に無理して掃除しなくたっていいんだからねぇ?」

「いえ、私がやりたかっただけですので! わざわざありがとうございます」

 その場で深くお辞儀をすると、頭の上からは軽やかな笑い声が聞こえた。

「……ふふ、大きくなったのねぇ。立派になっちゃって」

「そ、そんな……!」

 頭を上げて慌てて否定するも、おばさんの生暖かい視線を直視することはできなかった。

「……えっと、あの。で、では! しばらくここをお借りしますので!」

「あらあら、恥ずかしがり屋さんなのは相変わらずかしら」

 じゃあねぇ、とにこやかな笑顔を残しておばさんは去っていく。その背中をなんとも言えない表情で見送ると、私は大きく溜息を吐いた。

 受け取った鍵を鍵穴へと挿そうとした、その寸前で慌てて手を止める。

「いけない! 忘れるところだった!」

 鍵を持っている手を下ろし、裏にそびえる山を見遣る。



「――ただいま。おじいちゃん」


 また私の大好きな夏に、帰ってきたよ。





 山から視線を外し、今度こそ、玄関の戸を開ける。

 どこからか、「おかえり」という声が聞こえた気がした。







                         了

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蛍の声 やかん @yakan_

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