オオカミ少年

 ある日、少年は狼を見た。確かに狼だった。灰色の美しい毛並みを持つ一匹の狼が、草原にある羊小屋の近くを優雅に歩いていた。


 羊飼いの少年は初めて見る狼にしばらく目を奪われていたが、早く村の大人たちに知らせなくてはと思い至った。飼っている羊はみんな小屋の中にいて、狼も特に襲ってくる気配はなかったけれど、だからといって安全であるという保証はない。油断していたら、次の瞬間には自分も羊も食べられてしまうかもしれない。


 少年は小屋の戸締りを確認して、急いで村へと戻った。


 少年から「狼が出た」という知らせを受けた大人たちは一様に驚き、慌てふためいたが、皆恐る恐る武器を手に取って羊小屋に向かった。


 これだけの人数がいれば狼だって怖くない、と少年は恐れをかき消すように唱えながら、勇敢に大人たちを先導した。


 しかし、再び羊小屋まで戻ってみると、狼はいなかった。


「なんだ、狼なんてどこにもいないじゃないか」

「昼寝して夢でも見てたんじゃないのかね」


 大人たちはやれやれと呆れながら村へと帰っていく。そんなはずは、と少年は先ほど狼がいた場所から辺りを懸命に見回してみるが、灰色の毛をした狼は緑に広がった草原のどこにも見当たらなかった。


 そんなことが三度あった。初めは少年の言うことを聞いてくれた大人たちも、三度目ともなると信じてくれなくなり、挙句の果てには噓つきだと言われるようになってしまった。


 少年は悲しかった。自分は嘘などついていない。確かに三度とも狼を見たし、羊を守ろうという正義の心で行動したのだ。嘘をついて大人たちをからかってやろうなんて一度たりとも思ったりしていない。


 村の嘘つき少年となってしまった羊飼いの少年は、それでもめげずに羊飼いとしての仕事をサボることなく続けた。


 そんなある日の夜、少年が家のベッドの上で眠っていると、トントンと家のドアを叩く音がした。


 こんな夜更けにいったい誰だろう、と少年は不安になった。両親は旅に出ていてしばらくは帰って来ないはずだし、他の村人たちだって今はもう眠っている時間だ。


 なおもトントンと鳴り続けるので、少年は恐る恐る家のドアを開けた。


 すると、そこにいたのはなんとあの灰色の毛をした狼だった。


「夜分遅くにすまないね。ちょっと話がしたいんだ。上がらせてくれるかな?」


 狼はすまなそうに頭を下げると、真摯な瞳で少年の顔を見つめた。


 狼を家にあげるなんて普通だったら危険な行為だが、この狼に限って言えば嘘はつかなそうだし、騙して人間を食べてしまおうなどという卑劣な考えは持っていなさそうだった。


 ちょっと間をおいてから少年は頷くと、狼を家の中へ招待した。


「いやあ、やっぱり家の中は暖かさが違うね。外は夜風が冷たくてたまらん。いくら体毛があったって夜はどうしても寒さが応えるよ」


 狼はブルブルっと体を震わせて、家の中を物珍しそうに見回す。


「その辺に座ってて。今、お茶を出すよ」


 そう言ってから、狼ってお茶を飲むのだろうか、と少年は首を捻る。


 悩んだ末に、結局温めた水を大きな容器に入れて出した。体が冷えないように、でも熱すぎないように、温めのお湯にしておいた。


「至れり尽くせりとはこのことだな。そんなに気を遣わんでもいいのに。そもそも、俺がここに来たのには訳があってだな」


 狼は容器の中の白湯をガブガブと飲みながら、訪れた理由を語り始めた。


「いやはや、なんというか今日は君に謝りに来たんだよ。噂に聞いた限りじゃ、俺のせいで村の大人たちに嘘つき呼ばわりされてるみたいじゃないか。まったくひどいことするなあ、人間って奴も」


 他人事のような、けれども突き放した感じもない不思議な口調で、狼はなおも語り続ける。


「言い訳をするようだけど、俺だって武器を持った人間が大勢押し寄せてきたら逃げ出してしまうよ。だいたい、俺はあそこで飼われている羊をこっそり食べてしまおうとかそんな邪な考えは持ってない。もちろん世の中は弱肉強食で、日々食うか食われるかの戦いをしているわけだけど、俺はできる限り卑怯なことはせずに誇り高く生きようと誓ってるんだ」


 目を軽く閉じた狼は天を仰ぎ、一度だけ長い遠吠えをした。


 それが誰に向けられたものなのかはわからなかったが、少なくとも少年の心にはとても美しく響いた。


 同時に不甲斐なさが押し寄せて、少年は嘆息した。


「僕には崇高な理想も気高い誓いもないよ」


 そんな落ち込む少年の顔を狼は優しく見つめる。


「君は立派だと俺は思うがね」

「そんなことない。だって、僕は嘘つきだってみんなに思われてるんだ」

「でも、君は嘘をついていないじゃないか」


 少年は言葉を詰まらせる。狼は一つ息を吸って話を続けた。


「周りの奴らにどう思われようと君は嘘つきじゃない。そもそもだな、世の中のあらゆる物事が嘘か本当かなんて簡単にわかることじゃないんだ。見えないからそれが存在しないとか、見えたものがそれであるとか、そんなに易々と決めつけてしまうのは危険だね。そういった判断は時間がかかるものなんだ」


 元気をなくした少年の肩を叩く代わりに、狼は言葉によって精一杯励ました。


「けれど、それじゃ僕はいつまでもみんなに信用してもらえない」

「心配するな。時が来たら、君のことをわかってくれる奴が現れるよ」


 迷いもなく堂々と、狼の台詞が少年に向けて届けられる。


「だから大事なのは、いつだって誠実であることだ。そりゃあ生きてる以上は小さな嘘をつくことくらいあるだろう。でも、ここは正しくあらなければならないってところでは嘘をついてはいけないよ。それさえ守っていれば、いずれ君の味方は増えていくはずだ」


 少年は凛とする狼の姿を見据えた。狼の言葉の一つ一つが(先ほどの遠吠えさえも)少年には貴いものに感じられた。


 まだ、それらの意味を完全に理解することはできない。


 けれども、忘れないようにしっかりと心に刻んでおこうと、少年は密かに誓ったのだった。




 それからというもの、少年はこれまで以上に羊飼いとしての仕事を全うした。


 その後、あの灰色の毛の狼とは会っていない。もしかしたらこの草原を離れて、どこか遠くへ行ってしまったのかもしれない。まあ、もし見かけたら、やはり村に戻って「狼が出た」と告げることになるだろうけど。


 少年のことを相変わらず嘘つきだと呼ぶ人はいる。だから、今狼の出現を伝えても、信じてくれる人はそれほど多くないかもしれない。


 それでも、少年のやることは変わらない。




 オオカミ少年は、今日も誠実に生きる。

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