深夜、青白いライトの下、僕は駅のベンチに座っていた。季節は秋から冬に変わろうとしていて、夜の風の冷たさが薄い長袖の上着をいとも簡単に通り抜ける。辺りに人の気配はない。静かで凍えそうな夜がここにはあるだけだ。


 また今日も一日が終わる。こうして過ぎていくのだ。何かをしようとして何もしない、そんな一日が。


 何回繰り返してきたのだろう。もうずっとこの状態のまま、何かが変わることを願って、見えるはずもない景色を追い求めていた。


「お客さん、次が最終列車ですよ」


 ふいに声をかけられ、俯いていた僕は顔を上げた。


 年齢は六十歳くらいだろうか。目を細めて、顔をしわくちゃにしながら優しい笑顔を浮かべる駅員の男性が、いつの間にか目の前に立っていた。


「わかっています。『明日』行きの列車でしょう?」

「そうですよ。もしかして乗らないつもりですか?」

「いいえ。おそらく乗ると思います」


 僕が小さく首を振って答えると、彼は訝しげにこちらを見つめた。


「それなら別に構わないのですが、もし良かったら少しお話でもしませんか? 列車が来るまではまだちょっと時間がありますし、私も暇なもので」


 そう言って、彼は僕の返事を待つことなく、同じベンチに握りこぶし二つ分くらいの距離を置いて座り、フウッと白い息を吐いた。


「しかし、今日は冷えますねえ。その上着だけでは寒いんじゃないですか?」

「確かにその通りです。失敗しました。でも、大丈夫です。このくらいの寒さなら耐えられますから」

「我慢するのはあまり良くありませんよ。健康が何よりも大事です」


 彼の芯の通った声が心に突き刺さる。


「健康か。確かにそうなのかもしれませんね」


 納得はできた。誰だって不健康でいるよりは健康でいたい。もしかしたら病弱であることに一種の憧れのようなものを抱く人もいるかもしれないが、それも大前提としてそれなりに健康であることが必要だと思う。


「風邪をひかないように気をつけてください。もし明日、熱でも出たら大変です」

「ご心配をおかけしてすみません。でも、別にいいんです、明日のことは」


 口を衝いて出たのはそんな言葉だった。こんなことを言ってしまうのは良くないとは思っている。この台詞によって相手に余計心配を与えてしまうし、自分に対してもまたひとつ嘘を積み重ねる結果となるのだ。


「そんなことは言わないでください。お客さんだって列車を待っているんでしょう?」


 縋るように見つめられ、僕は無言のまま頷くしかなかった。


 結局はそうなのだ。どんな言葉を言い放ったとしても、一日の終わりにはやはりこうして列車を待っている。興味がないふりをしつつも本当は明日に期待して、線路の続く先が素晴らしい世界であることを望んでいる。


 だけど、今日がこんなだから、昨日思い描いていた明日とはまるで違うから、その現実を受け入れることができないのだ。


「今日も、何もない今日でした」


 下を向いたまま、独り言のように呟いた。隣では駅員が温かい表情でこちらを窺っているのだろうけど、僕は一切そちらを見ずに、それでも誰かが聞いてくれているという安心感はしっかりと感じながら話を続ける。


「さっき、明日のことは別にいいと言いましたが、本当はそうは思っていません。僕

は多分、いつだって煌めくような一日の訪れを待っています。だけど、それはただの願望で、実際は今日のように話すことが何もないような日が続くだけです。そんな奇跡のような物語がやってくるなんて有り得ないということはわかっています。でも、どうしても憧れは消えません。いっそのこと捨ててしまえばいいのかもしれませんが」


 冷たい夜風が二人きりの駅のホームを駆け抜ける。どこからか、カランカランと空き缶の転がる音が聞こえてきた。かつて中に詰まっていた夢がなくなって、行き場もなく寂しく泣いている。そんなふうに思えた。


「お客さんの言うことが間違っているとは言いませんが、私は一つ、決定的にお客さんとは違った考えを持っています。申し上げてもいいですか?」

「いいですよ」

「ありがとうございます」


 初老の駅員は金色の紋章が入った帽子を慎ましく取り、膝の上に置いた。


「先ほどお客さんはおっしゃいましたね、今日が何もない今日だ、と。けれども、私の考えといたしましては、何もない一日というのは存在しないと思うのです。もしお客さんがそう感じられるのだとすれば、それは今日のかけがえのなさに気づいていないだけだと思われます。もう少し、今日のことを考えてみてはいかがでしょうか?」

「そうですね。でも、考えた上での結果なんです。後に今日のことを思い出しても、きっと無駄な一日だったと判断するに違いありません」


 僕の発言に、彼は「そうでしょうか?」と首をかしげた。


 しかし、真っ向から否定するつもりはないらしく、代わりに一つの提案をしてきた。


「ならば、こういうのはどうでしょう? お客さんがこのあと列車に乗って家に帰ったら、今日あったことを書き記しておくのです。もし今日が本当に何もなくて無駄な一日だったなら、もう読み返すことはないはずでしょう? どうです、やってみませんか?」

「わかりました。家に帰ったら書いてみます」


 特別なことは何もなかったわけだし、どうせ書く量も大したことはないので手間はかからないだろう。断るのは何だか悪い気がしたので、「一応」書いてみることにした。


 彼は満足げに笑みを浮かべながら、僕の肩を優しく叩いた。


「約束ですよ。私とこうして話したことも書いてくださいね」

「わかっています。嘘はつきません」


 自分にも人にもよく嘘をつくが、この約束だけは守れる気がした。約束の内容と心が望んでいる方向が少なからず一致していたのかもしれない。


 あるいは、話し相手になってくれた駅員がとても良い人だったからだろうか。


「あっ、お客さん、列車が来ましたよ」


 柔らかな光を放ってホームに向かってくる列車。その先頭車両の上部にある行き先表示は『明日』。


「約束、忘れないでくださいね」

「あの……ありがとうございました」

「いいんですよ。これが私の役目ですから」


 お互いにベンチを立って別れの挨拶を交わす。


 僕が最後に見た彼の表情は、嬉しそうにも悲しそうにも見える、そんな笑顔だった。







 いつか今日のことを思い出す日が来るのだろうか。


 これを書いている今の僕にはまだわからない。


 それでもこうして書いてみると、やはり心のどこかではそれを期待しているのだということがわかる。


 だから、少しくらいは今日という日が無駄な一日ではなかったと信じてみたい。


 それが、仮に「一応」であったとしても。




 ――僕は静かにペンを置いた。

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