信号機の上に止まったカラス
Hana
七歳の女の子であるハナからしたらその車両用の信号機はとても高いところにあった。歩道を歩いていたハナは夕焼け空を見ようとして、たまたま信号機の上のカラスを発見したのだった。
黒いカラス。カラスが黒いのは当たり前なのだが、ハナはそのカラスを見て真っ先にそう思った。赤い夕焼けが背景にあるからかもしれない、などとは考えたりせず、ただ単純に他のカラスよりも黒いと感じたのである。それでハナはそのカラスを「クロ」と名付けた。
名付けたといっても、実際に声に出して名前を呼んだりはしなかった。ただ心の中で「あのカラスはクロという名前にしよう」と決めただけだ。おそらく飛び立ってしまえば見分けもつかないし、名前を付けたことすら忘れてしまうだろう。
だけど、今この瞬間だけは、ハナにとってそのカラスは「クロ」だった。
クロは高い信号機の上から横断歩道のほうを眺めていて、まるで眠っているように動かない。ハナは不思議に思いながらも、ゆっくりとその下を通り過ぎようとした。
そのときである。
「カァー」
クロはいきなり大きな声で鳴いたのだ。遠くまで響くような立派な声。どこかへ飛び立つのかもしれない、とハナは大きく目を開いてクロの動向を窺う。
しかし、クロはすぐに元のように静かになると、また眠ったように信号機の上に止まっているのだった。
Kuro
クロと名付けられたカラスは仕事の真っ最中だった。ただ、信号機の上に止まっているわけではない。ここを通る人の数を数えているのだ。
日頃からカラスは人間の行動を把握するためにいろいろと調査を行っている。その一つがこの交通量調査だった。道行く人を眺め、人が通れば鳴く。一人通れば一回、二人連れだったら二回。その鳴き声は遠くにいる別の仲間に伝わり、その仲間がさらに遠くにあるカラスの基地へ情報を届ける。そういった連係プレーでばっちりと仕事をこなしていた。
眠っているように見えたクロも実はちゃんと働いているのである。あまりに人が来ないのでうとうとしていたのは事実だったが。
ちなみに、このカラスの名前はクロではない。本当はカラスの世界でのカラスに相応しい名前があるのだが、そんなことを言っているとややこしくなるのでここではクロということにしておく。
とにかく、クロは今日もミスなく仕事をこなしていた。
そんなクロのところへ一人の女の子がやって来た。可愛いおさげ髪に真ん丸な目。いかにもおてんばなその女の子は、まるで見るものすべてが新鮮であるかのようにキョロキョロとしながら歩道を歩いていた。ハナというぴったりの名前が彼女にはあるのだが、クロはそんなことは知る由もない。その顔を覚えると、彼女が通り過ぎるのをただじっと待っていた。
すんなりと通り過ぎていくはずだ、と高を括っていたのだが、その小さな女の子が自分に興味を示してしまったことがクロにはわかった。口をほわっと開けながら、好奇心旺盛な目でこちらを見ている。
まずいな。クロは冷や汗が出てきた。この仕事は目立っちゃいけない。影のようにそこにいなくてはならないのだ。そんなに見られたらやりづらくてしょうがない。
クロは声を潜めて、少女の行方を見守っていた。少女は顔をこちらに向けながら、信号機の下をゆっくりと歩いていく。どうやらこのまま通り過ぎてくれそうだ。
安堵したクロだったが一つ大事なことを忘れそうになった。人が一人通ったのだから一回鳴かなければならないのである。
いかんいかんとクロは慌てて大きく息を吸い、少し遅れたタイミングで遠くにいる仲間に向けて高らかに「カァー」と鳴いた。
Hana
ハナは信号機の下を通り過ぎた後も、ちょっと離れた場所に立つ電柱の陰からクロのことをじっと見つめていた。何事にも興味を抱くハナにとって、「信号機の上にカラスが止まっている」というどこでも見られそうな光景も、何故だろうと大いに関心を示す対象となった。自分に見られていたらカラスも本性を現さないに違いないと物陰から様子を探っていた。
しばらくクロのことを眺めていたハナはあることに気がついた。それはクロの鳴くタイミングについてだった。
あのカラス、人が通ったときにしか鳴かない。しかも、一人通ったときは一回、二人通ったときは二回。すごい。きっと、人の数を数えているのね。
ハナは自分の大発見に嬉しくなって、心の底から叫びたい気分になった。
だけど、本当に叫んだりはしなかった。当たり前である。そんなことをしたらクロが驚いて飛び去ってしまうかもしれないから。
それに、まだ自分の考えが正しいと決まったわけじゃない、とハナは考え、もう一度、クロが止まっている信号機の下へと歩き出した。再び自分が通って、鳴くかどうか確かめてみようと思ったのである。
一歩一歩近づくごとに高まる緊張。
果たして、自分の考えは正しいのか。クロは「カァー」と一回鳴いてくれるのか。
とうとうハナは信号機の下までやって来た。しかし、クロはこちらを見ているだけで声を上げない。
どうして。私の発見は間違いだったの。ああ、せっかく素晴らしい発見をしたと思ったのに。
ハナはとても悲しくなった。期待が大きかっただけに、その反動でより大きなショックを受けてしまったのだ。顔をガクッと俯かせ、下を向いたままトボトボと立ち去ろうとした。
そのとき、大きな鳴き声が一回、天高く響いた。
「カァー」
鳴いた。やっぱり間違ってなかったんだ。
ハナは元気にクロのほうを振り返り、ぱあっと輝く笑顔を浮かべた。信号機の上のクロは何事もなかったかのようにまた静かに止まっていた。
Kuro
クロは先ほど通った少女が、電柱の陰からずっとこちらを覗いていることに気がついていた。本人は隠れているつもりなのかもしれないが顔が半分ほど出ていて、クロが少しそちらに首をひねると慌てて引っ込めるのである。
やりにくいな。クロは心の中で思ったが、仕事を中断するわけにはいかなかった。その後も通った人の数だけ鳴き声を響かせる。
クロの仕事は日が暮れるまでと決まっていた。一日中鳴き続けていたら声がかれてしまう。朝には朝の、夜には夜の担当がいて、交代で行っているのだ。
中でもこの夕暮れの時間帯は人気が高く、クロは運よく希望が通ったのだった。他のカラスが羨ましそうにしていたのをクロは覚えている。
ちなみに、なぜ夕暮れの時間帯がそんなに人気なのかというと、それはカラスの中で広まっている、「夕陽を背景に佇むカラスはかっこいい」という通説によるものであった。どこからそんな説が生まれたのかは不明だが、カラスの間では昔からそう信じられてきたのである。
そんなわけで、念願叶ったクロは浮かれ気分で仕事を始めたのだが、好奇心旺盛な少女の登場というのは全くの想定外だった。
花形も楽ではないな、とクロは痛感していた。
そして、そんなクロに追い打ちをかけるような事態が起こる。先ほどから電柱の陰で様子を窺っていた少女が再びこちらへ歩き出したのだ。その視線はひとときもそらされることなくクロのほうを向いている。
いよいよ本当にまずいことになったぞ。クロは焦る気持ちを落ち着かせ、冷静に状況を分析する。
もしかしたらあの小さな人間の女の子は、俺が交通量調査をしているのを見破ったのかもしれない。そうでなければあんなに熱心にこちらの様子を観察するはずがない。交通量調査をしていることが人間にばれるなんてあってはならない。ここは無視をして、後で一人分追加すればいい。そうだ、そうしよう。
そんな風に考えているうちに信号機の下に来ていた少女は、期待に満ちた輝く目でクロを見ていた。
でも、もし俺がここで鳴かなかったらこの人間の少女は悲しむだろうな。だってあんなに夢で溢れた顔をしているのだ。絶対に鳴いてくれる。そう思っているに違いない。もちろん、彼女のことを悲しませたくはないが、カラスの世界の掟もあるからな。
クロが迷っている間に少女の表情は段々と影を見せ、とうとう笑顔も消え、俯いて去っていこうとした。
ああ、もうしょうがないな。
「カァー」
クロは耐え切れなくなり鳴いた。残念そうに歩き出していた女の子は勢いよく振り返り、花が咲いたような笑顔を浮かべたのだった。
Kuro
ハナが去った後、信号機の上のクロは冷たい風に当たりながら考えていた。
やってしまった。帰ったら怒られるだろうな。せっかく良い時間帯を与えてもらえたのに、これでまたしばらくは回ってこないだろう。
……でも、あの笑顔が見られただけでも良しとするか。
クロは沈みゆく夕陽を眺めながら、今日の光景を深く心に刻み込んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます