羊の居場所
目を覚ますと、羊は広い草原の上にいた。三百六十度どこを見渡しても、見えるのは青空と白い雲と緑の草。他に動物の姿もなく、その羊はただ一匹、だだっ広い草原にポツンと立っていた。
そういえば自分には名前があった、と羊は思い出した。
その名は「ハッピー」である。
それを誰につけられたかは名づけられた本人ももう忘れていた。気がついたらそう呼ばれていたのである。羊はその名前をとても気に入っていた。
そんな幸せ羊も、今は迷える羊になってしまった。さあ、どの方向へ歩き出したらよいのやら。羊は目いっぱい首を横に回す。
そのとき、風がビューっと音を立てて吹いた。強い風だった。あれよあれよという間に体は流され、羊はそちらの方角に向けて歩くことになった。
緑が広がっている。どこまで行ってもこの緑は続くのではないか、と思えるほどだった。果てのない緑の上をふわふわな白い毛の羊は歩く。その緑の広さに比べたら、とてつもないほど小さなその足で。
今、自分はどこにいるのだろう。羊は考え出した。
草原の上、と言ってしまえばそれまでだが、羊はもっと明確な答えが欲しかった。それは現在地の緯度や経度のようなものでもなく、今いる場所の名前だった。それさえあれば、誰かに説明するのも、自分自身を納得させるのも容易なのである。
だけど、自分の居場所を示す言葉は出てこなかった。羊はとりあえず考えるのをやめた。
歩き続けて、一日、二日と日が経っていった。しかし、どこまで歩いても草原の果
ては見えなかった。今いる場所の名前もわからなかった。
でも、夜の間は自分の居場所がわかるような気がした。夜空に輝く星がそれを教えてくれているように思うのだった。
そんな日が何日も続いた。幸いなことに食べ物には困らなかったので、羊は冒険を続けることができた。どちらかというと喉の渇きのほうが深刻な問題だったが、何日かおきに雨が降るので、それを飲んで喉を潤した。
果ての見えない冒険だったが、辛いことばかりでもなかった。誰にとやかく言われることもないので自分のペースで歩けばいいし、ちょっと休憩して周りを見渡せば、大草原のパノラマを独り占めできる。今までに味わったことのない感動だった。
だが、やはり辛いことも多い。何より一番辛いのは自分が一人ぼっちだということだった。
ある日の夜、羊は星に向けて語りかけた。
「なぜ、僕は一人ぼっちなのだろう?」
星は何も答えない。羊は星の言葉を知らないし、星もおそらく羊の言葉を知らない。会話が生まれることはないのだ。
しかし、羊はそれでも良かった。星は確かに聞いてくれているような気がしたからだ。
羊はなおも語り続ける。
「ここに来る前はもっと別の場所にいたと思うんだ。ちゃんとした居場所があって、その場所には名前もあった。それから、僕は一人じゃなかった。今みたいに一人きりじゃない」
悲しい声で羊は呟く。
……でも、今は一人だ。
その瞬間、一つの星が「そんなことないよ」と言わんばかりに明るく輝き出した。羊は驚いてそちらのほうに顔を向けた。キラキラとした光が羊の目に飛び込んでくる。暖かくて優しくて、全ての辛いことや悲しいことを包み込んでくれるような光だった。
羊は夜の間ずっと、その眩い光を見つめていた。
次の日の朝、羊は勇ましく歩き始めていた。歩く方角が決まったのである。
目標は――昨日見たあの星。
その先に何が待っているのかはわからなかった。困難で険しい道のりかもしれない。辿り着けないかもしれない。
それでも、歩みを止めることはない。
羊は見つけたのだ。自分の居場所を、その名前を。
――たとえ一人ぼっちでも心の中には「君」がいる。
夢を抱いた羊は今日も広大な草原の上を行く。
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