遥石 幸 短編集

遥石 幸

雨の降らない街で傘を売る男の話

 ここはレイニータウン。土煙が舞う砂漠に作られた雨の降らない街。


 ここにいる人間の半数近くは定住者ではなく、砂漠を渡って交易を行うキャラバンである。彼らはレイニータウンを重要な休息場所として利用しているのだ。そのためこの街では、次々と人が入っては出て行くという光景が繰り返される。中には何度も訪れる者もいるし、一度きりしか通らない者もいる。来る者拒まず、去る者追わずといった精神がここにはあった。


 砂漠を旅するものにとって、この街はなくてはならない場所だ。


 そんな街の片隅で一人傘を売る男がいた。その男の名前を知るものは少ない。人々はその男のことを「傘売りの男」と呼んでいた。


 なぜみんなこの男の名を知らないのかというと、不気味がって近寄ろうとする者がいないからである。


 なぜみんなこの男のことを不気味がるのかというと、雨の降らない街で傘を売っているからである。


 傘売りの男は今日も誰も来ない露店に立ち、傘を売っていた。




 狐がやって来たのは、お昼も過ぎて太陽がすっかり天高く昇っている頃だった。


「やあやあ、おじさん。傘を売ってるのかい? これは良い店を見つけたよ。傘が欲しかったんだけど、この辺で傘を売ってるところなんてどこにもありゃしない。途方に暮れていたところだよ」


 狐は店に置かれた傘を見て、まるで隠されていた宝石でも見つけたかのように目を大きく見開いた。


「へぇー、品揃えもいいね。こりゃ大都市にある傘屋にも負けないくらいだよ。おじさんもそっちのほうから来たのかい?」

「まあな」


 傘売りの男はボーボーの黒い口髭をポリポリとかきながら低い声で答えた。


「試しに開いてみてもいいかい? おじさんを疑ってるわけじゃないが、開いてみて骨が折れてたり布が破けてたりしたんじゃ使い物にならないからね」

「好きにしな」


 早速、狐は人間の大人用の傘を勢いよく開いた。しかし、あまりに大きすぎて狐の体の大きさには不釣り合いだった。バランスを崩して思わずよろけてしまう。


「お前にはこっちの方が使いやすいだろう」と男は子供用の傘を差し出した。


「ちぇっ、俺は立派な大人なんだけどな。まあ、仕方ないか。貸してくれよ」


 ぶちくさと言いながら、狐は水色の小さな傘を開いた。


「なるほど。これはなかなかものがいいね。大人用の傘よりも完成度は高いとみた。子供用だからってバカにして悪かったよ」


 狐はすっかり反省した様子で男を見上げる。


「買うのか?」

「ああ、買う買う。ちょっと待ってくれ。今お金を出すから」


 そう言って狐が取り出したのは高価な金貨だった。


「これで十分だろ」

「……」


 自慢げに話す狐に対し、男は警戒心をなくさない。狐と金貨を交互に見て何か怪しい点はないか探っている。


 狐は慌てて手を振って否定した。


「おいおい疑わないでくれよ。そりゃ、世間には人を騙す悪い狐もいるけどさ、だいたいのやつは悪さもせずに普通に暮らしてんだ。そのお金だって俺がまっとうに稼いで手に入れたものなんだから」


 男はしばらく考え込んでいたが、やがて納得し、傘と金貨を交換した。狐は小さい傘を受け取ると、周りをキョロキョロと窺って疑問を口にする。


「ありがとよ。それにしてもこの店、商売繁盛してるのかい? さっきから客が全然来ないみたいだけどさ」

「売れないな。あまり」

「へぇー、何でだろうね?」

「必要ないからじゃないか」


 傘売りの男は答える。それを聞いた狐は不思議そうに言った。


「でも、他の街の人間たちはみんな傘を買ってるよ。俺が前に行った店なんかいつだって人で溢れてるんだ。本当に大変な混雑ぶりだよ。それなのにここでは売れない。人間って難しい生き物だね」

「そうだな」


 短く答える男の目はどこか遠いところを見るような目だった。


「まあいいや。じゃあね、おじさん。大事に使わせてもらうよ」


 細かいことは気にしないといった調子で狐は空を見上げると、雨も降っていないのに傘をぱっと広げて、嬉しそうにクルクルと回しながら遠くの方へ消えていった。




 また別の日。小さな女の子とその母親が店の前に姿を現した。


「あー、傘だ。私これ欲しい」


 髪を三つ編みにした女の子は、ピンク色の傘を手に取って母親にアピールする。


「えー、いらないでしょ」

「だって私、傘持ってないよ」


 女の子は意見を譲らず、強い声で主張する。


 傘売りの男はその様子を黙って見ていた。


「お願い。お母さん。いいでしょ?」

「えー、どうしようかな」

「絶対あったほうがいいよ。持ってないと私、雨が降ったとき濡れちゃうもん」

「でも、この街では雨なんて降らないし」


 値段をチラチラと見ながら母親は渋った態度を示している。女の子はそれでも諦めずに懇願を続けた。


「万が一降るということもあるでしょ? そのときに傘がなかったら困るよ。お願い。大切にするから」


 娘の熱心な頼みに母親はとうとう決断した。


「……わかったわ。買いましょう」

「やったー」


 女の子はピョーンと飛び跳ねて喜んだ。


「すみません。これ売っていただけますか?」

「もちろんいいですよ」


 男は母親が出した代金を受け取る。そしてそれらを数え終えると、彼女のほうを向いて「確かにいただきました」と承認した。


「ありがとうございます」


 母親は丁寧にお辞儀をして、手に入れたピンク色の傘を目をキラキラと輝かせながら待っていた小さな娘に与えた。


「ありがとうお母さん。おじさんもありがとう」


 傘を受け取った女の子は、それはそれは無垢な笑顔を浮かべていた。




 それからまたしばらく日が経って、一人の少年がレイニータウンに到着した。


 少年はキャラバンの一員としてこの街にやって来た。そのキャラバン隊の中で少年は最年少だった。周りはみんな大人ばかり。少年は一人寂しく毎日を過ごしていた。


 果ての見えない砂漠を行くキャラバンにとって、この街は心休まる場所である。バーに行けば飲み物があるし、市場に行けば食べ物も売っている。空いている宿屋がたくさんあってふかふかのベッドで眠れる。砂漠の過酷さを考えたらこの街は天国だった。


 街に着いたキャラバン隊は早速バーへと赴く。キャラバンの大人たちはそこで賑やかに酒を飲み始め、そこにもとからいた大人たちも交わり、店内は大盛り上がり。一人ポツンと座る少年は、仕方なくグラスに注がれた水をちまちまと飲みながら大人たちの話を聞いていた。


「しかし、何でこの街はレイニータウンっていう名前なんだ? 雨も降らないのにレイニーなんて何かおかしくねえか?」

「たまたまなんじゃねえの? 特に意味もなく、『何となく響きがいいから付けた』とかよ」

「俺は雨が降らないからこそそんな名前を付けたんだと思うな。雨が降ることを祈ってさ」

「なあ、マスター。本当のところはどうなんだよ? もう長いことこの街にいるんだろ? 名前の由来教えてくれよ」


 一人の男が尋ねる。カウンターの向こうの年老いたマスターは大きな声で一言、「わしも知らん」と叫んだ。


「マスターでもわからねえとなると、いよいよ謎は深まるばかりだな」

「あいつなら何か知ってるんじゃねえか?」

「あいつ?」

「ほら、街のはずれで傘売ってるやつ、いるだろ?」

「ああ、傘売りの男か」

「あいつなら理由を知ってるかもしれないぜ。なんたって雨も降らないのに傘を売ってんだ。何か秘密を握ってるに違いねえや」


 しかし、その案に乗り気なものはいなかった。


「でも、何か近づきにくいよな。訊いても答えてくれなさそうだしさ」

「俺も嫌だな。そもそもそんなに知りたいわけでもねえし。気になるならお前が訊いてこいよ」

「俺だって嫌だよ。だいたい気になるって言い出したのはあんたじゃないか」


 そんなこんなで結局、傘売りの男に訊きに行こうとする者はいなかった。


 一方で、その話を聞いていた少年は噂の傘売りの男に興味を持っていた。


 雨の降らない街、レイニータウンで傘を売る男。


 会ってみたいと思うのには十分すぎるほどの魅力を持っていた。少年は探求心をくすぐられる。


 怖いけど店に行ってみよう。心の中で少年はそう決断していた。




 次の日。少年は傘売りの男がいる店の前にやって来た。


 そこに並べられている色とりどりの傘を見て、想像していたよりもちゃんとした店だ、と少年は思った。もっと地味で、傘もボロボロなのを想定していたのだ。


 傘売りの男のことも少年は誤解していたことがわかった。確かに野暮ったくて近寄りがたい雰囲気はあるものの、よく見たら優しそうなおじさんである。今、少年を見つめている目も穏やかなものだった。


「好きなだけ見ていってくれ。手に取ってもらって構わんよ」


 傘売りの男が笑って言う。


 少年はその言葉に甘えて、次々と傘を開いては差してみた。


 しかし、少年には傘を買うだけのお金はなかった。そんな余裕はない。旅を続けるための最低限のお金しか持っていないのである。


 そもそも少年は傘を買いに来たわけではない。ただ、雨の降らない街で傘を売っている男がどんな人なのか興味があっただけだ。


 そうだ、あのことを尋ねてみよう。


 少年は昨日の大人たちの会話を思い出し、尋ねた。


「おじさんは何でこの街が雨も降らないのにレイニータウンっていう名前なのか知ってる?」


 少年の問いに、男は青く晴れ渡った空を見上げながら答える。


「それはこの街にも雨が降るからさ」


 レイニータウンにも雨が降る。それは当然のことだった。いくら降らないとはいっても、いつかは降るのである。以前にも降ったことがあるはずだ。みんなが忘れているだけで。


 それはそうだけど……。


「でも、ほとんど雨が降らないのは確かでしょ?」


 少年は納得ができなかった。質問の答えに不満があるわけではない。レイニータウンの名前の由来がなんであるかは少年にとってはそれほど重要ではなかった。少年が知りたいことは別にあったのだ。


「それなのにどうしてこの街で傘を売ってるの? 他の街で売ればもっと売れるし、変な目で見られることもないよ」


 本当に少年が気になっていたのは、滅多に雨の降らないこの街で男が傘を売っている理由である。


「どうして……か」


 傘売りの男はしばしの間考え込んだ。そして、答えを待つ少年にポツリと言ったのだった。


「必要だと思っているからだな」

「周りの人がそう思ってなくても?」


 少年は間をおかずに尋ねる。それに対して、男は当然のように言った。


「雨が降ってから傘を売ったんじゃ、みんなが濡れちゃうだろう」


 少年はハッとなった。まさにその通りだと思ったのだ。


 考えてみれば当たり前なこと。だけど、忘れていたこと。少年の脳裏には雨に濡れて嘆き悲しむたくさんの人々の顔が思い浮かんだ。


 同時に少年は目の前の傘売りの男のことが不憫で仕方なくなった。


 みんなのためを思ってやっているのに、どうして誰も気づいてあげられない。


 みんなにとって必要なことをやっているのに、どうして笑われなければならない。


「どんなに馬鹿にされても、これからもここで傘を売るの?」

「そうだな。それはたいした問題じゃないからな」


 太陽の光に当てられて、男の顔が眩しく輝いていた。


 いや、太陽のせいではないかもしれない。これは男がもともと持っている光……。


「また来るよ。次はお金を持って」


 少年は最後に一言、言葉を残した。


 今度この街に来るときには一人前になって、ここに傘を買いに戻ってくる。


 そう決意して、少年は太陽のほうへ駆け足で去っていった。




 ここは雨の降らない街、レイニータウン。


 今日もこの街に雨は降らない……。

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