第15章 魔界の王
第15章1話 敗者の喚き声
東方大陸中部、サーペント族の街タルアット。ディスティールから遷都され、新たな魔都として君臨し、真新しいタルアット城がそびえるこの街に、泥にまみれたヴァダルは帰ってきた。
「我輩の兵士はどこに……あれだけいた兵士はぁ、どこに行った!?」
車も無くし、馬に似た魔物であるグルファクシに跨りながら、雨に降られ、焦点の合わない目をして、憤りと落胆に包まれたヴァダル。彼の周りを囲む、彼と同じサーペント族の兵士たちに至っては、槍を杖の代わりに、今にも倒れそうな姿で歩いている。
冷たい雨に濡れ、震えたヴァダルは、この数日間、ろくな食事にもありつけていない。そんなヴァダルをここまで生かしてきたのは、彼の強烈な怒りであった。
「20万いたのだぞぉ! 我輩は20万の兵を率いていたのだぞぉ! それがぁ、今では数百の負傷兵しかおらぬではないか!」
たった1ヶ月前まで、ヴァダルは南部地峡に展開する20万の兵を率いていたのだ。それが、タルアットに帰還した今、ヴァダルが率いる兵士は、たったの数百の負傷兵にまで減ってしまった。
「あの忌々しい勇者と共和国軍共めぇ……我輩はぁ……我輩はぁ……」
唇を強く噛み、顎に血を垂らすヴァダル。自分をここまで追い詰めた人物の顔を思い出し、ヴァダルは腰に携えた剣を地面に投げつける。
7日前だ。南部地峡にて魔界軍と共和国軍が衝突した。この戦いで共和国軍は、ヤカモトの台頭によって共和国に許され、再び人間界の側についた勇者ヤクモを投入する。
勇者は、元女騎士であったルファール、第3魔導中隊隊長の職を捨てたリル、従者のパンプキンと共に魔界軍の兵糧庫を焼き払った。同時に、共和国騎士団が魔界軍へ突撃、魔導師団の支援を受けた歩兵団も混乱した魔界軍を蹂躙し、魔界軍は崩壊した。
さらに、勇者が魔界軍本陣にまで攻め寄せたことで、魔界軍は四散する。あと少しで勇者に殺されかけたヴァダルは、わずかな供回りだけを連れ、なんとか戦場を逃げ出したのだ。
大敗したヴァダルに味方する魔界軍兵士などいない。四散した魔界軍兵士のほとんどが、ディスティールに帰還した魔王に合流したという。
これらの事実を受け入れきれず、ヴァダルはグルファクシの上で喚き散らしていた。ヴァダルの側近は、なんとかヴァダルを落ち着かせようと声をかける。
「どうか、お気を確かに――」
「お前! この我輩が正気でないとでも言うのかぁ!? お前もいつかぁ、ルドラのもとにへりくだりぃ、あの若輩者の靴を舐めるつもりだなぁ! お前など処刑してやる!」
「ヴァダル陛下! 落ち着いてください!」
側近が何を言ったところで、ヴァダルは自分の叫びで側近の言葉をかき消してしまう。実際に、ヴァダルは正気を失っているのだ。ヴァダルはさらに興奮し、雨雲に覆われた空に向かって、恨みを撒き散らした。
「あの女勇者、女騎士、女魔導師、男戦士を前にしてぇ……皆ぁ、逃げおった……。皆ぁ、この我輩を! この魔界の王を置いてぇ! 逃げおった……」
真の魔界の王への忠誠心。魔王亡き世界の救世主という呼び名。そういったものはすべて消え失せた。
多くの魔族は魔王に隷属し、あのアイレーすらもヴァダルのもとを離れた。グレイプニルを失い、魔界軍も失った。勇者の登場により、人間たちのヴァダルへの畏怖すらも、はじけて消えてしまった。ヴァダルにはもう、何もない。
「我輩はぁ……魔界の王だぞぉ……。ルドラなどという若輩者ではなく……我輩こそがぁ……魔界の王に相応しいのだぞぉ……」
うなだれ、力なく呟いたヴァダルは、手綱を強く握り歯ぎしりする。戦場から逃げ出した彼の精神力にも、限界が訪れていたのだ。
しかし、少なくともタルアットでは、ヴァダルは未だ王である。這々の体で帰還したヴァダルに、街の住人たちは街道へ飛び出し、大げさなまでの身振り手振り、口調で、ヴァダルを出迎えた。
「ヴァダル様! ご帰還をお待ちしておりました!」
「真の魔界の王! ヴァダル陛下! 万歳!」
「私たちの救世主様!」
魔族たちの言葉は、決して本心ではない。ヴァダルの機嫌を損ねれば何が起こるかを考えれば、彼らはこうするしかない。そしてヴァダルは、彼らの思惑通り、機嫌を良くする。
「ああぁ……我輩にはまだぁ、まだ、これだけの従者がいるのかぁ……」
見捨てられ続けた日々に苦しめられていたヴァダルは、タルアットの住人たちの仮初めの言葉に満足していた。タルアットの住人たちのおかげで、自分がまだ魔界の王であると、思い込むことができた。
そんな、雨に濡れるタルアットの街を見下ろし、感情だけで動くヴァダルに哀れみの視線を向ける男が1人。翼を広げ、空中に静止し、マントをはためかせる、紫色の瞳を持った、魔王だ。
「労しい姿であるな、ヴァダルよ」
不敵に笑い、空から言葉を浴びせかけた魔王。ヴァダルは空に静止する魔王の姿を確認すると、赤い瞳に怒りをほとばしらせ、顔を歪め、獣のように叫ぶ。
「……ルドラぁ! ルドラルドラルドラぁ! ルドラぁ!」
この怒りだけで、ヴァダルはここまで生きながらえたのだ。魔王を目にしたヴァダルは、疲労感も絶望感も何かも忘れてしまう。ヴァダルは命を燃やしながら、唾を飛ばし、魔王に指を指し、魔王を糾弾しはじめた。
「お前が手を結んだあの女勇者がぁ、魔界軍20万を壊滅させたぁ! ルドラぁ! お前自身も、10万の魔界軍を壊滅させぇ、メギドとエッダ、2つのネメシスゴーレムを破壊したぁ! そんなお前はぁ、魔界の敵以外の何物でもない!」
これだけ魔王には欠点があるのだ。だからこそ、自分は真の魔界の王としてふさわしい存在なのだ。ヴァダルの言いたいことは、つまりはそれだけである。
魔王はため息をつき、紫の瞳でヴァダルを嗤った。
「お主、どこまで愚かなのだ?」
「なんだと!? ルドラぁ、我輩になんと言った!?」
「愚かだと言ったのだ」
自分を真の魔界の王だと思い込むヴァダルに対し、魔王は説教でもするかのように言葉を続ける。
「魔界軍もネメシスゴーレムも、魔界の王の道具でしかない。道具は誰が使うかによって、その存在意義を変える。偽りの王に率いられた魔界軍やネメシスゴーレムなど、魔界の害悪でしかないのだ」
正当性なき道具など、むしろ破壊すべき。魔王の今までの行いは、魔界のためとなるのだ。
「女勇者についてはどうしたぁ? 反論もできぬのかぁ?」
醜くも魔王への糾弾を止めようとしないヴァダル。魔王は冷淡な口調で、ヴァダルの言葉に返答した。
「勇者はもはや、我の味方ではない。彼奴が何をしようと、我には関係がない」
「女勇者の力を取り戻させたのはお前だ! ルドラぁ! お前は魔界の裏切り者だ!」
「『魔王は魔界そのもの。魔王の死は魔界の死そのもの』であり、『利用する相手に、味方や敵の区別はない』のだ。『人間は魔族の脅威であり続け、勇者は魔界の最大の敵』であろうと、我は勇者を利用し、こうしてお主を見下ろしているだけだ」
真の魔界の王を名乗りながら、魔王学も知らぬヴァダルに、魔王は呆れ返ってしまった。ところが、ヴァダルはまだ諦めない。ヴァダルは雨を払い、顔を真っ赤にして、魔王を睨みつけ叫ぶ。
「詭弁を口にするなぁ! 見苦しいぞぉ! 偽の王めぇ! 真の魔界の王である我輩が――」
どちらが見苦しいというのか。いよいよ魔王は、ヴァダルと話をする気すらも失せてしまった。
「時間の無駄だ」
何を話したところで、この会話に意味はない。魔王は、ヴァダルに裏切りの代償を払わせるため、ここに来たのだ。魔王は言葉を魔力に乗せ、タルアット上空、雨雲に隠れたドラゴン族部隊に指示を下す。
「攻撃を開始しろ」
《市民が数多くいます。彼らは?》
「構うな。ヴァダルに反抗することもできぬ者たちなど、排除して当然。むしろ、市民を狙え」
必ず後悔させてやる。死と生の狭間を歩かせ、地獄の淵を見せつけ、殺してくれと呻いたところで殺さず、生かしてくれと泣き喚いたところで生かさず、ただ苦しみだけに悶えさせてやる。
魔界を追放された際、魔王が放ったこの言葉は、現実のものになろうとしていた。
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