思わぬ危機
何も起きない。
魔法陣が力を失っただけで、範囲内の人の身体には変化が起きていないかのように思えた。
しかし、現実に
「
カイが持ち上げた右手を振り下ろすと下向きの突風が起こり、大地に当たると四方八方へと吹き抜けていく。ただ、その風の中には極めて細かな真空の刃が含まれていた。
魔法陣の中に立っている
彼らは一様に違和感を感じる。自分の身体から薄く光る粒子が立ち上り、失われていくのに気付くのにそう時間は必要なかった。
「わ、わ、私の腕が ── !」
「溶けてしまう! これは何だー!」
「あああっ、嫌っ! 死にたくない!」
振り乱す髪もその先から消えていく。分解は加速度的に進行し、薄い光に覆われて拡散していくので、筋肉を剥き出しにしたり血が噴き出したりといった凄惨な状態にはならないが、確実に身体は空間へと溶け消えていっている。
効果範囲内にいた人間は固有形態形成場を完全に破壊され、僅かな傷を負っただけで形態を保持出来なくなり、そこから分子にまで分解されていく。分子間結合力は強制的に解除され、光エネルギーとなって周囲に放散されている。
それはもちろん、首座アメリーナ・ユークトスの身体にも起こっていた。
「おおおおっ! 吾の身体が! 吾はー!」
悲痛な表情で天に両手を差し上げ見上げる。
「
「そんな慈悲深い真似はしませんよ。貴女は一片も残さずこの世界から消え去るのです」
「なぜぇー!」
(最期の瞬間までそれが分からないような人間だからこそ消し去ってしまわなくてはならないのですよ?)
そこまで行くとカイには憐れとも感じてしまう。
歪みの最たる存在はけたたましく騒ぎ立て、それが声とも分からないほど濁りが混ざっても止めず、溶けて失われていった。
◇ ◇ ◇
固唾を飲んで見守っていた人々は、それで東方動乱の全てが終わったのだと確信する。互いに手を打ち合わせ、歓声を上げる様も見られた。
(終わった? ううん、何か忘れてる気がする。何?)
チャムはその空気に飲まれず周囲を見回すが、誰もが喜びに包まれている。ハッと気付いて振り向くと、黒髪の青年は険しい顔で見上げていた。
「次元壁の穴が閉じていない!」
あまりの衝撃に彼女は大声を上げてしまった。
その波は青髪の美貌を中心に広がっていく。空を見上げては得体の知れない物がまだそこに残っているのに驚き、指差して喚く。
不安の輪はヘクセンベルテを包み込んでいった。
◇ ◇ ◇
(どうして閉じない? 僕は
カイにもその意味が飲み込めず、頭脳を回転させる。
(
穴の輪郭は未だしっかりとしていて、閉じる気配さえ見せない。
これまでは微弱な魔力波の反射による検知でも修復は行われていた。
幾度かの実験で
なのに今回は何ら反応が無い。
(もしかして)
彼は最悪の予感に捉われる。
(暗黒時代の長きに渡り、ここには穴が空いていたんだろう。その終焉から四百
背筋を冷たい汗が流れる。
(大いなる意思でも簡単には閉じる事が出来ないような穴だったとしたら……?)
次元壁が希薄な状態が恒常化しつつあるところへ、あの巨大な魔王を復元する為にここへと一気に黒い粒子が集中して経路を開けてしまったとしたら? その為に次元壁が崩落のような状況を引き起こし、誰の目にでも見えるような大穴が空いてしまったのだとしたら? これは世界の融合の端緒になってしまうかもしれない。
(速やかに世界の接触を断たなくてはならない。繋がっている状態を切らないと)
何をすれば良いのか思案を巡らせる。
(魔力の流入を防げばいいのか? 僕が
それなら即座に解除すればいい。
(違う。僕の身体に供給されている魔力は、常時接続の経路が確立されている。その経路が太いだけに過ぎない。この穴とは別物だ)
他に変化が無いか観察する。
周囲の魔力量は怖ろしいほどに高まっている。穴を介して高次空間媒質の流入が収まらないのだ。
よく観察すると、魔法士がへたり込む様が散見される。中には急に暴れ出して取り押さえられている者まで現れ始めた。あまりの魔力濃度の高さに、魔力酔いのような状態に陥っているのだと思われる。
(ライゼルバナクトシールが来た。やはりこれは異常事態なんだ)
金色のドラゴンが飛来してきて周回を始める。憂慮しての事だろう。
(待てよ? 他の暗黒点ではこんな現象は見られなかったぞ? フィノほどの魔法士でも修復前の暗黒点で異常行動は見せなかった)
記憶を必死に探る。
(もし、この魔力の流入自体が穴の修復を阻害しているのだとしたら? いや、それは変だ。魔王発生時には少なからず似たような状況になったはず。その時は自然修復力でも塞がって、今回は塞がる気配もないのはおかしい)
見上げれば、認識出来ない物質が自分に襲い掛かってきているように感じた。
(まるでこちらに向かってきているみたい……な!? まさか特異点である僕を取り込もうとしているのか? 高次空間が腕を伸ばしてきている!?)
単なる思い付きだったが、それで説明が付いてしまうのは事実。
(だったら、僕を取り込めばこの穴は塞がるのか?)
カイは奥歯を噛み締めて覚悟を決めようとしていた。
◇ ◇ ◇
(あれは何かを覚悟した時の顔!)
チャムはそれがすぐに分かってしまう。
何かをしようとするのだとしたら、それは次元壁の穴を塞ぐ為に他ならない。世界の融合の予兆だとしたら、カイはその身を犠牲にしても防ごうとするだろう。彼女の為に。
(穴を塞ぐ為にそこへ飛び込もうとしているの? シトゥラン翁は、あなたなら高次空間でも自己を失わないと言ったわ。存在は変容したとしても、あなたはあなたのまま帰ってくるはず)
その言葉を疑ってはいない。
(でも、高次空間はこの世界とは大きく違う性質を持っているのよ。あなたの世界とこの世界で時間の流れ方が違うように、高次空間では何が起こるか分からないの)
それが麗人は怖ろしい。
確かに彼は帰ってくるだろう。ただ、それが二千
「行かないで!」
祈りの巫女は強い願いで存在の格を上げる。
「あなたはこの世界に必要な人! ここに戻りなさい!」
両手を広げて自分を示すと同時に願いを口にした瞬間、彼女は強い神気を放つ。それは一帯にまたたく間に広がり、漂っていた黒い粒子を全て分解して見せた。
チャムが二つ目に手に入れた激情は、狂おしいほどの恋情だった。
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