逃走する虎
状況は極めて悪いと言っていい。
大盾の影で防御に徹するといえど、時に金属針は隙間を縫って身体に達する。何もしなくても一人また一人と負傷者が増えていく。
その兵は何人かと一緒に下がらせ、避難する民間人に付ける部隊に混ぜていくしかない。集団で逃げ出していく民間人に護衛部隊を付けて西へ走らせるだけで彼の戦力は減少していくのに、戦況を引っ繰り返す策はどこにもない。ただ耐え続けているのが精一杯だった。
避難民が距離を取るに至ってようやくイグニスは撤退を指示する。盾を掲げたまま徐々に後退していくと、そのまま押し出してくるかと思った正規軍は全く追って来ない。どうやらあの新兵器は機動力が皆無らしい。
それだけは明らかな欠点で、虎獣人にとっては救われた点である。そのままじわじわと後退すると、一転して全力後退を指示した。
(このまま逃がしてくれるのか? あの
イグニスは嫌な予感がしてならない。
そして悪い予感というのは当たるものだ。
南から回り込んでくるように現れたのはデュクセラ子爵軍だった。
◇ ◇ ◇
レイオットの猛攻を退けるも、正規軍の追撃も有ってベウフスト候軍は兵を失う。ディムザの指示を受けているだろうレイオットの子爵軍の騎馬隊の波状攻撃で疲弊していく。
負傷兵を先に離脱させていくうちに、イグニスの兵は三千にまで減じていた。
これ以上負けてしまえば瓦解する可能性が高くなる。夜陰に息をひそめて身体を休めるが、手持ちの食料など幾らもない。英気を養うどころではない。
夜が明けて正規軍の姿を拝んだ時に兵達の気力が尽きないか案じられる。それでも脱走兵が出ないのは獣人の結束力ゆえのことだろう。自分達が粘れば粘るだけ、多くの民間人が西へ逃げ延びられると皆が思って耐えているのだ。
(ディムザ殿下を敵に回すだけの力は、俺には無かったか。この上は、今夜のうちに散開して逃げ散るべきだろうか?)
そう考えて指揮官達に相談するも、皆が首を振る。
(こうなれば死に場所を考えなければならない。俺が目を惹いている間に、出来るだけ兵力を残したまま離脱させる)
獣人侯爵は厳しい顔で決意をした。
◇ ◇ ◇
(なかなか音を上げないか。我慢強い事だな、あの虎は)
帝国第三皇子は、敵ながら純粋に称賛する気持ちのほうが強かった。
(だが、逃がしてやる訳にはいかんのだよ)
それは状況を難しくしてしまう。
西部の情報収集は困難で、遅々として進まなかった。
動きは見えるのだ。連合しつつあると思える西部諸侯が誰と誰なのかも分かる。緊密に連絡を取り合っているのも間違いない。なのに、何を意図しているのかが判然としない。
ラムレキアの王妃に唆されて妄動しているだけでは無いように見える。拡大政策に楔を打ち込もうとしているのは明確なのだが、動きに纏まりが無いようで何かを中心にしっかりと結束しているような印象を受ける。その何かに手を伸ばそうとすると、するりと抜けてしまう感触がする。
ただ、脅威となるほどの勢力にまでは成長していないのは掴めた。
懸念すべきは勢力が兵力に変わること。
発言力では劣らない。経済力は対抗措置を打てる。ただ、戦力として糾合されるのは困る。対抗して戦力を分散させねばならなくなる。
ラムレキアが力を増して搦め手まで用いてくる中、大戦力との二正面作戦は避けたいものだ。
手の内を知り物量でも同等では、勝利を得たところで消耗は激しい。西方に読み切れない動きが有る以上、目前の
西部の要となると目される人物も、単独で挙兵するほどの戦力は持っていないし、集められる兵力も知れている。あとはバランスを崩すほど中心足り得る人物が西部に与さなければ怖ろしさは感じない。
そこで想定上に挙がったのがベウフスト侯爵、通称「獣人侯爵」の存在である。
今は特に誘いになびく気配はないが、彼が西部に与したとすると帝国内の獣人全てに動揺が走るだろう。味方の獣人兵が当てにならなくなるばかりか、最悪反旗をひるがえす可能性も捨て切れない。絶対に西部勢力に渡してはならないと考えた。
ただし、恭順を求めようにも餌がない。
元々、コウトギ寄りの人物である。帝国は、
今以上の忠誠心を求められないとなると出来る事が限られてしまう。ただ殺すなり捕らえるのは愚策だ。獣人の反発を買うだけ。だからと言って獣人に利する約定をもって取り込もうとすれば、宮廷貴族の反発が大きいだろう。
彼一人を標的に絞った場合、どの策にも欠点がある。
しかし、ディムザには秘策があった。全てを根底から引っ繰り返す会心の策である。
獣人が脅威であるのは、その身体能力の所為だ。人族に2、3倍の身体強化が入っていて、やっと通常の獣人と五分で渡り合えるほどの差がある。そこには戦闘技能という要素を加味する事が出来るとしても、その獣人に身体強化が入っているだけで容易に埋められて、おつりが来てしまう。だから戦場での獣人兵の力は不可欠であり、魔法と並行して戦術の要足り得る。
だが、その獣人の戦場での活躍を過去のものとする方法がある。彼の有する新兵器の存在だ。
それはあの魔闘拳士の仲間、チャムの武装を参考にしたもの。金属針を射出する兵器。それは戦場を一変させてしまうだろう。
弓矢では抑えきれないほどに獣人の突撃が鋭かろうとも、魔法士部隊の魔法でなら足留めは出来る。これまでの戦術はそうだったが、戦場に投入出来る魔法士の数に限りがあり、更に魔力にも限りがあれば抑えるにも限界がある。
ところが、ディムザが技術院と技士ギルドを動かして開発した新兵器は、魔石で賄える少ない魔力で稼働する魔法具。弾体だけ十分な数を揃えれば、幾らでも放てる魔法のようなもの。揃えるだけで獣人の突撃を退けられるのだ。
本体重量が重すぎて機動力を失う。
弾体も、チャムのそれのように連射は利かず、一発一発装填しなければならず、発射間隔を要する。
それらの欠点を補う戦法を生み出せば、今後は獣人兵の突撃はもちろん、人族の歩兵も騎兵さえもその砲列の前には瓦解するのは間違いない。戦場の主役は、その新兵器の扱いに長けた者へと変わっていく。
彼は獣人侯爵を、新兵器の力を実証する実験台に用いようと考えた。
もう戦場の主役は獣人である時代は終わったのだと知らしめる為に、彼を人身御供にしようとする。
その為に無理難題を吹っ掛けて、ベウフスト候に叛意有りと思わせるように仕向けた。更に、内通者に獣人が優遇される体制を覆すべきではないかと囁く。野戦でないと新兵器は最大の効果を発揮出来ないからだ。
事態は彼の思い描いた通りに推移し、獣人兵の軍と対峙する形は整えられた。
デュクセラ辺境伯を動かして、ベウフスト候と交流のある子爵をぶつけて追い込まれる印象を持たせ、派手に敗退する姿が見られるようにも取り計らった。
それらの策は収斂し、獣人兵の時代の終わりを示唆するような敗戦の舞台を作り出そうとしていた。
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