飛び立てぬ少女
「大陸中!?」
ルレイフィアの瞳には憧憬と羨望の色。
「なんて素敵」
「綺麗なものもいっぱいあるよ。それだけじゃないけどね? 危険もいっぱいさ」
「それでも見たい、知りたい事ばかり」
彼女の瞳を憂いがよぎる。それは十四、五歳に見える少女が見せる表情ではない。まだ希望に満ちていなければならない時期だ。
「君には世界は優しくないって思えるみたいだね? でもそんな事はない筈だよ」
「聞かせて! お兄ちゃん、お願い!」
頷いた青年は「その前に」と『倉庫』からボトルを取り出した。
コップに注がれたのは果汁を薄めたジュースのようだった。
だが、ルレイフィアはそれに手を付けられない。許されない事なのだ。彼女はモルキンゼスの顔色を窺うが、緊張は解けていないようだ。
彼は更に取り出したコップにもボトルから注ぎ、それを家令の前にも置く。そして全てを了解しているように、自分のコップに同じボトルから注いだジュースを口にする。
次に、手の中に現れたのは揚げ菓子。
螺旋状の菓子を折り分け、一部を家令に差し出すと残りも半分に折って齧り付く。モルキンゼスも菓子を口にして目を瞬かせた。
「美味い」
ひと言零すと、確かめるようにしばらく味わっている。
「美味しいでしょう? ドライフルーツを練り込んであります。何種類も。好みの問題も有りますけど、色々試した結果、僕はこの配合が一番好きなんですよ」
「甘みも酸味も程よく混じり合っている。この揚げ油もそれなりの品だな。全然くどさを感じさせない」
「獣脂だけじゃなくて植物油も使ってますから」
青年の言葉にうんうんと頷きながら家令は食べているが、そこでようやく少女が不機嫌そうに頬を膨らませているのに気付いた。
「あ、申し訳ございません!」
「ずるい!」
彼は失態を繕うように姿勢を正すとルレイフィアに頷いて見せる。
「どうぞ」
「やった! ありがとう、お兄ちゃん!」
少女はやっと揚げ菓子を手にする事が出来た。
揚げ立てで格納されていたのか、仄かに温かい。香ばしい香りが鼻をくすぐる。
堪らずルレイフィアは頬張る。すると、上品な白砂糖の香味が口に広がった。ふわっとした食感が歯を伝わり、その中にくにゃりとした粒やサクッとした粒、他にもカリカリとした食感も感じられる。
甘酸っぱい味と芳醇な香り、香ばしい味も混じって、唾液が溢れて止まらなくなった。
「ナッツも入ってる! びっくり! これはどこで売っているの?」
美食にも触れているつもりだが、これは初めて食べる食感と味だ。
「これは僕が作ったんだ。お気に召したかな?」
「わあ! お兄ちゃんはお菓子も作るの?」
「うん、作るよ。どうせ食べるなら、自分好みの美味しいものを食べたいだろう?」
手に持った菓子をかざしながら言う。
「でも、これの元はどこの街でも売っている、みんなが食べているお菓子なのさ。考えた人をすごいと思わないかい?」
「思う! その人はきっと天才!」
「頑張ったんだと思うよ。もちろんお金を稼ぎたいからっていうのが動機でも、みんなが食べて幸せになれるように一生懸命考えたんだろうからね?」
とても現実的でいて、でもとても夢があると少女は思う。
「そんな人達の暮らすこの世界は、ルルにとってはつまらないものかな?」
その言葉はルレイフィアにとって衝撃的だった。
捨てられ、遠ざけられた我が身の不幸を憂いていた自分を、この青年は知っているのだろうか? まるで見透かされたような台詞は、少女の心の奥深くを白日の下に晒してしまう。
「違……、う。そんなはず、無い。みんな、幸せになりたくて頑張ってる。一生懸命生きている。目を逸らしたいのはルルだけ」
瞳が揺れる。
(子供みたいに閉じ籠りたいと思うのはただの我儘。子供でいたい甘え。でも、それじゃ何も変わらない)
大人でなくてはならないと囁く自分がいる。なのに、今の自分には足りないものが多過ぎる。
「無理に一人で立たなくていい。まだルルはそんな年じゃない。ちゃんと見据えていれば、支えてくれる人は君の周りにもいっぱいいるんじゃない?」
「あ……」
振り向けばモルキンゼスが引き締まった真摯な面持ちで頷いてきてくれる。
「うん……、うん」
一人で苦しんでいたつもりの自分が恥ずかしかったし、それ以上にちゃんと身近に味方がいるのが再認識出来て嬉しくて、ルレイフィアの瞳に涙が膨れ上がる。
伸ばされた、少し固い戦士の手が頬に優しく触れ、親指が水滴を攫っていった。
◇ ◇ ◇
(この御仁、ルレイフィア様の光明になるやもしれぬ)
モルキンゼスにはそう思えた。
ひとしきり啜り上げた少女はもう機嫌を直して、カイに揚げ菓子のお代わりをせがんでいる。瞳の色こそ銀色に青や緑が差す変わった色をしているが、同じ黒髪の青年とじゃれ合う様は本当の兄妹のように見えた。
「お嬢様、カイ殿に屋敷でお休みいただいては如何でしょう?」
家令がそう提案すると、彼女はずいぶんと驚いた様子を見せる。
安全を思って、普段は出来るだけ人を遠ざけるように動く自分が、そんな言動を取るのが意外だったのだろう。
「うん! お兄ちゃん、おうちに来て。もっと旅の事聞かせて?」
「分かったよ。行こうか?」
彼は櫂を手にして苦笑する。
「どうしたの?」
「僕の母国だとこれの事をカイって呼ぶんだ」
「お兄ちゃんは東方の人じゃなかったの?」
当然そうだと思っていたモルキンゼスも傾聴する。
「僕の故郷はすごく遠く。ルルが想像も出来ないくらいにね?」
「むー、馬鹿にしてるー!」
「してないよ。さあ、冒険者の腕の見せ所だ」
強い身体強化の片鱗を見せる青年が漕ぐボートは、ぐんぐんと邸宅に向かって進んだ。
「どうしてルルの事、分かったの?」
テラスでメイドの淹れてくれたお茶を前にしたルレイフィアは、当然の疑問をぶつける。
「湖水を見つめるルルの瞳かな? あれは君くらいの時分の女の子が見せていい顔じゃなかった。だから心配になったんだよ」
「……恥ずかしい」
その目が湖水を捉えた時、彼女はそこに自分の境遇を見てしまったのだろう。
深い緑色の向こうに潜む闇。迷い込んだら最後、捕らえた者を絶対に離さないかのように見える深淵。そこに雁字搦めになってしまっていると感じる自分が見えてしまったのだ。
ずっと付き従っている家令には、その心の動きが手に取るように分かった。
青年は元気付ける言葉を二三言挟むと、少女が望んだ旅の事を話す。
草原を包む朝霧を切って走る爽快さ。荒野を真っ赤に染める夕焼けの美しさ。魔獣の蠢く森林を割って進んだ先にある泉の水の透明さ。鮮やかな緑色にも見える暑い北の海の広大さ。高い山の上で朝陽を眺める時の空気の冷たさ。
想像の翼をはためかせるルレイフィアの瞳は輝きを増していった。
それでも時間は容赦なく過ぎていく。
「そろそろお暇するね?」
青年が視線を向けると、木立の間から紫色の大きな騎鳥が駆け寄ってきた。
「行っちゃうの、お兄ちゃん? もう会えない?」
「お部屋をと考えていたのですが?」
モルキンゼスも宿泊を示唆する。
「ありがとうございます。ですが、仲間が待っていますので」
「そうですか?」
無理強いは出来ない。少女は消沈した様子で俯く。
「また来るよ。今度は仲間を連れて、にしようかな?」
「本当!?」
「うん。皆、気持ちのいい人ばかりだから安心していいよ」
騎鳥の背から頭に登ってきた薄茶色の動物を撫でながら続ける。
「でも、ここ以外で会えるともっと良いと思うよ? ルルはもう飛び立てるくらい心の力が蓄えられていると思うから」
ルレイフィアは真剣な顔で頷き返す。髪に差し入れられた手を、大事なもののように両手で包んだ。
青年が発った後、少女は少し泣いた。
だが、次に会った時には涙を見せないと家令に決意を語ったのだった。
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