獣人侯爵

湖畔の少女

 青髪の美貌は未だ本国を離れられないでいる。建設作業はほぼ完了しているが、それだけで国は成り立たない。

 内部的には神使の不文律があって滞りなく運営されていようが、異邦人を入れるとなるとそうはいかない。きちんとした法整備が必要であり、且つそれには人族社会をよく知るチャムの意見が大きな位置を占める。

 彼女もカイと膝を突き合わせて詰めた草案を基に議論を進めているが、ゼプルの意見を含めてバランスを取らなければならない。

 その為に彼女は連陽れんじつ会議室で椅子と仲良くしているのだった。


 だからと言ってカイやトゥリオ達が暇を囲っている訳ではない。

 状況を見て時間が取れると感じた赤毛の美丈夫は、フィノを連れて実家であるデクトラント公爵家の公邸に帰っている。彼にしてみれば犬耳娘を紹介する意図があるのだが、彼女は賓客として遇されていた。

 もちろんトゥリオの父、デクトラント公爵グライアルは息子のそんな意図などお見通しである。だが、若い時分に色々と頭を悩ませてくれた放蕩息子に悪戯心を抱いての仕儀である。

 邸宅では、雑に扱われるトゥリオを余所に、下へも置かない接待を受けているフィノは戸惑いの色を隠せなかった。


 彼らをレンギアまで見送ったカイは、そのまま西進すると未踏破森林地帯の奥へと足を運ぶ。ゼプルの記録に触れた彼は、そこに古い暗黒点があるのを確認していたからだ。

 そこに赴いたカイは認識修復を行うと、またフリギア門から女王国へ取って返した。


 法整備の進行状況の確認と懸案事項の相談に応じた彼は、やっておきたかった確認作業に着手した。

 それは各地の転移魔法陣の築山、通称「門」の場所の確認である。エルフィンから正確な場所は教示を受けていたが、それぞれの周囲の状況まで事細かに聞き出すのは申し訳無い。

 なので、利用しそうにない人里離れた場所を除き、門の周囲だけでも事前に調査がしたかったのだ。


 門を巡りつつ、時間の掛からない範囲での暗黒点の修復を行っていたカイは、帝国北西部の山岳地帯の門を訪れていた。


「湖かぁ。これはいい眺めだな。釣り場になるか見ておこうかな?」

 山腹から見下ろした眺めに目を奪われた彼は独り言ち、山を降っていく。

「あれ? 何かある。別荘地ってほどじゃないけど、保養地くらいにはなってるのかぁ」

 人目があるのはあまり面白くない。どこからともなく現れて泳いだり釣りしたりしていれば要らぬ噂を立てられかねない。

「大きいけど一軒だけだな。船……、いやボートが出てる。ご在宅とはね」


 湖を臨む好立地に一邸の屋敷。湖畔には桟橋があり、湖上を一艘のボートがゆったりと波を立てていた。


   ◇      ◇      ◇


 その、ふさぎ込みがちなルレイフィアを案じて、家令のモルキンゼスは船遊びに主人を連れ出していた。

 最初は湖上を渡る涼やかな風や、焔光ようこうをきらきらと反射する湖面に目をやって、少しは晴れやかな様子を見せていた令嬢も、いつしか指を浸すだけで憂いを湛えた瞳に戻っている。


 そこへ突然、人の声が遠く響いた。

 このエジア湖の周辺には街や農村は無い。ここは隔離された場所なのである。そうそう人がやってくる筈もないのに、この異常事態にモルキンゼスは気色ばんだ。

 護衛も兼ねている彼は、腰のダガーの握りに手をやりつつ周囲に警戒の目を走らせた。


 すると、山嶺がエジア湖に接する辺りで、何のてらいのない笑顔の青年が手を振っている。

 咄嗟の事に誰何も忘れた彼は、主人の少女が普段は見せないような好奇心を示しているのに気付いた。


 その様子に迷いを感じているうちに、青年が声を掛けてきたのであった。


   ◇      ◇      ◇


「やあ! そっちに行っても良いかな?」

 惰性で徐々に青年のほうに近付いてはいるものの、距離としてはまだ結構な湖水を挟んでいる。

「え? え?」


 湖岸を蹴った青年は、宙を舞って一度水面から頭を出している倒木に足を着けるが、そこもまた蹴ってボートの上空に達する。宙返りで勢いを殺すと、彼は両膝を柔軟に使い、船縁に手を突いて衝撃を抑えた。

 それでもやはりボートは揺れて、怖ろしくなったルレイフィアはつい立ち上がってしまう。


「あっ!」

 余計にバランスを崩した少女は、力強く抱き留められているのに気付いた。

「ごめんごめん。さすがに結構揺れたね? 大丈夫かい?」

「あ……、はい」

柔らかな微笑みが上から降ってきた。

「危害を加える意志は全く有りません。それを抜くのは止めていただけませんか?」

「言葉だけで信用する訳にはいかないと心得よ」

「ごもっともです。釈明させてください」

 紳士的な所作でルレイフィアを元の位置に座らせてくれた青年は、説明の機会を求めてきた。


「僕はカイといいます。詳しく明かす訳には参りませんが、ここへは調査目的でやってきました」

 家令の目付きが厳しくなる。しかし、黒瞳の填まった顔は柔和なままである。

「人が住んでいるのはおろか、こんなに綺麗な湖があるのも知りませんでした。無論、こちらのお方がどなたかも存じません。ただ、今後は周辺での活動の可能性が有る以上、ご挨拶を欠かす訳にはいかないと考えたのです」

「知らんと申すのか? この方を」

「ええ、何せ初めてこの地を訪れたのです」


 ルレイフィアは船縁に腰掛けて朗らかな笑顔を欠かさない青年を見上げる。

 黒髪黒瞳の、どこにでも居そうな何の変哲もない若者である。容姿にも大きな特徴が見られない。戦士風の装束を纏っているが、腰回りにも何の武器も帯びていない。

 山賊野盗の類でもなさそうだ。装いは清潔感に満ちていて、少しも不潔なところが見られない。先ほど抱き締められた時にも洗浄薬草の良い匂いがした。

 世情に疎い彼女には、カイと名乗った若者がどういった生業に就いているのか想像も出来ない。ただ、慇懃な口調やそうした生活習慣から多くの人に接する職業なのかもしれないと思った。


「キンゼスさん、わたし、この方とお話ししてみたいです」

 俄然興味の湧いたルレイフィアは、そうお願いしてみる。

「む、お嬢様がそうおっしゃられるのでしたら申し上げる事はございません。武器も持たぬようですし」

「僕は徒手格闘技を使います。武器も用いますし、『倉庫持ち』でもありますが、今は使う機会は無いと思いますので」

「そこまで言わんでも良かろうに?」

 モルキンゼスの口元に苦笑が浮かぶ。

「いえ、秘密にして疑われたくもありませんので」

「面白い人。わたしはルレイフィアです、お兄様」

「お兄様なんてそんな上等なものじゃないよ」

 顔の前で手を振って、剽軽な表情を作る。

「ふふふ、じゃあ、お兄ちゃんで」

「うん、それで良い。僕は君の素性まで訊く気は無いから、えっと……、ルルで良いかな?」

「はい、そう呼んでください」


 捉えどころがないようで、なぜかこの若者は彼女の心にするりと入ってきた。


   ◇      ◇      ◇


「お兄ちゃんは何をしている人なの?」

 主人ルレイフィアが打ち解けた様子で尋ねる。

「こんな軽装備でうろちょろしていると言えば冒険者と決まっているようなものなんだけど、聞いた事無いかな?」

「冒険者! すごい! 東方中を旅していたりするの?」

「東方どころか、大陸中を旅しているよ。これが有れば入っちゃダメっていう国はまず無いからね」

 青年は隠しから冒険者徽章を取り出して主人に見せている。


 モルキンゼスにはその時、彼の隠しの中に別の物が入っているのがちらりと見えた。

浮き彫りレリーフの紋章のように見えたぞ? この者、もしや名の有る戦士か?)


 家令は考えを改める必要に迫られている気がしていた。

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