朱色の夜
第二皇子マークナードは跪いている。
プライドの高い彼にしては珍しく、その面に屈辱の色は無い。目の前の人物はそれだけの権限の持ち主であり、組織の統制にも比類なき力を発揮してきた。
「首座様におかれましてはご機嫌麗しゅう」
椅子に掛ける老婆は笑みを掃いている。
「
「これはご冗談を。お聞き及びでしたか?」
首座アメリーナともあろう人物なら帝都の現状くらい掌握しているだろう。このくらいの揶揄は覚悟の上である。
「聞いておるぞ。そなたが吾の為に魔闘拳士を帝都に誘い込んだ事もの。取り逃がしてしもうたかえ?」
「申し訳ございません。どうやら情報が不明確だったようで、想定以上の武威の持ち主だったようです」
「それは残念であったのう。
責任転嫁の成功に、マークナードは悔いるように顔を伏せつつ、下ではほくそ笑む。
「それには及びません。大事なのは過去の失敗ではなく、これからの事であります」
「それよの」
第二皇子は殊勝な言い回しをしつつも、その実、自分の失策も過去のものとして語ろうとする。この辺りは抜け目がないと言えよう。
失策に関して首座よりの叱責は無いが、全て耳に入っていると考えているのだ。三度の失策は落胆させるに足るだろうが、それで見捨てられては困る。
「困っておるのかえ?」
首座は、水を向けたマークナードに乗り、問い掛けてきた。
「本来であれば私の手の者で始末を付けるべきなのでしょうが、何分ラドゥリウスは世界の中心となる都市、人も多く難儀をしております」
「仕方あるまいの。うむ、助力をやろうぞよ」
アメリーナが指を軽く動かしただけで、第二皇子から少し下がった位置に同じく跪く者の姿が現れた。
全く動きを感じる事が無かった、いや、今目の前にしてさえそこに居ると確信出来ない相手に息を飲み、脂汗が背筋を伝う。首座の命令が有れば、彼は一瞬にして命を失うであろう。
「
見つめていると、首座の声に顔を上げる。その額には朱色の鉢金を着けている。
「これに従ってやれ。協力して魔闘拳士を捕らえるぞよ」
「しかと。よろしくお願いいたします、殿下」
「あ、ああ…、頼む」
第二皇子である自分に顔を曝さない無礼を咎める余裕もない。
それほど異様な人物だった。
◇ ◇ ◇
ディムザは邸宅のソファーに身を委ねていた。
決して本意ではない。今すぐ街に出てカイの様子を窺いたかった。可能なら接触してもいいとまで思っている。
しかし、それを見咎められれば要らぬ悶着の種になる。
「どうした?」
背後に人の気配。意図的に出した挨拶のようなものだ。
「朱が動きました。首座様が第二皇子殿下にお貸しになったようです」
「恥を捨てたか。さすがに四度目はないと思っているな」
頭を巡らして相手を見る。向こうが透けて見えるのではないかと思えるほどに気配がない。
額の鉢金は藍色。彼らは「藍」と呼ばれている。
細身ながら、ディムザ子飼いの諜報工作員とは格違いの威圧感がある。彼が手向かってくれば、いくら
「朱ならお前達の邪魔にはならないだろう? 監視出来るか?」
藍に比べて朱はワンランク下の班である。悟られずに動きを報告出来るか問う。
「可能です。しかし、彼の近くは遠巻きにするのが限界でしょう」
「無理は言わない。顛末だけ把握出来ればいい」
「承りました」
アメリーナとの面会のあとに遣わされてきたのが藍ともう一つ、黄土色の鉢金の
それ以降は、付かず離れずの距離で彼らを運用している。信頼はしていないが便利な連中だ。今回動いた朱よりは藍も黄も格上。この場合は使い易いと言える。
空気の動きさえ感じさせずに去った男に、ディムザは溜息を一つ吐いた。
◇ ◇ ◇
夜陰を割いて銀光が迫る。黒瞳の青年は躱しもせずに眼前で挟み取ると、銀爪を軽く振り被って投げ返す。しかし、慣れない投擲など熟練者相手に通用する訳もなく、舗装路に突き立った。
(よくもまあ、あんな物を持ち歩くね)
ちらりと目にした暗器は細長い菱形で、全ての辺が刃となっている。短い対角に窪みが作って有り、そこだけは薄く皮が巻いてあった。
(走り回るだけで身体の色んな所に刺さりそう。投擲武器って事はそれなりの数、持ち歩いてるだろうに。『倉庫持ち』かな?)
並行して屋根上を走りながら妙な感慨を抱く。
気配無き間諜は、左手を口元に持っていく。鋭く息を吹きかけると、耳鳴りのような極めて高い音が響いたような気がした。
(可聴域ぎりぎりの高周波音。これは呼子のようなものかな?)
仲間への合図だと考えていたほうがいいだろう。つまり、これから集まってくるという事だ。
(早めに仕留めたほうがいいみたいだね。出来れば確保して色々訊きたいところなんだけど)
果たしてどれくらいのダメージを与えれば止まってくれるか分からない。こういう手合いは痛みへの耐性訓練を受けていたりするし、場合によっては薬で麻痺させていたりもする。
飛来する銀光を忠実に送り返してやっているのだが、相手に動揺は見られない。その程度で驚かないのか、それとも表に出していないだけなのかは不明だが、あまり効果が上がっていないのは確か。
次の一投はマルチガントレットで弾く。上がった火花に観察する様子が見られたところで、
ふくらはぎを焼かれた間諜は悲鳴も上げないが、舗装路を転がる。動けなくするくらいは可能なようだ。
飛び降りようとしたところで、倒れた間諜に同じ装束の二人が駆け寄って攫って行った。しかも、幾つもの違う方向から銀光が飛んでくる。
(集まって来ちゃったかぁ)
カイは苦い顔で一つを弾くと、別の屋根に飛び移った。
(これは面白くない。手加減していられそうにないなぁ)
確保は難しくなったように感じる。まずは撃退を優先しなければならないようだ。
相手が複数になると戦術も変化してきた。
相変わらず投擲武器も飛んでくるが、合間合間に急接近しては斬り付けてくる。剣と呼ぶには小振りだが、ダガーと呼ぶには長い。小剣に分類される諸刃の斬撃が空を斬る。
基本的に一撃離脱で斬り結ぶような事はしないが、一撃の鋭さは彼も舌を巻くほどで、いつまでも躱し続けたいとは思わない。
(どうやらこれが「夜」みたいだ)
ラムレキア王妃アヴィオニスが口にしていた組織の名が頭をよぎる。
(確かに多少は使える程度の戦士や間諜では荷が重いだろうね。複数は防ぎ切れない)
脇から斬り上げてくる一撃を左腕の甲で滑らせながら、そんな風に思った。
カイも一時も止まらず走りながらいなしているのだが、彼らは同じ速度で付いてくる。強めの身体強化が入っている人間を集めているのだろう。その上で、相当訓練を積んでいるに違いない。
が、そんな事は彼には関係ない。仲間に危険が及ぶ可能性が低くない以上、排除するまでだ。
また、銀光が襲い掛かってくるが、今度は掴み取ったりはしない。光が円弧を描くと菱形の投擲武器は真っ二つになる。
二本の鉤状になった
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