張り水農法
目を瞠る青年は、感動に打ち振るえていた。
「田…、んぼ…?」
それは一見、彼が子供の頃から見慣れていた光景に見えた。
山からの細い水の流れは沢を形作り、やがて大きな川に合流する。その前に
それはいわゆる水害防止や取水の為の堰ではない。聞いた話の通りなら、獣人郷はその上の中腹にある筈なのだ。
一目瞭然なのは、水面からイネ科の穀類特有のスッと伸びる単子葉が伸びている点。しかもその中央には青々とした麦穂が伸びている。明らかに耕作を目的とした堰なのである。
水田耕作される穀物は稲の仲間だけ。それは種として水中に作付けできる性質を持っているからである。
葉から空気を取り込んで根に送る性質だ。単子葉類に多く見られるこの性質があるからこそ、安定した収穫が得られる水田耕作が盛んに行われているのである。
ただ、同じイネ科でも麦の仲間は基本的に水田耕作は行われない。麦が乾燥を好むからだ。根に空気を送る性質が弱いのである。
なので、麦の仲間を水田で育てようとしても、湿害が起こって生育が悪く枯れてしまう。
「どういう事だろう?」
ところが目の前には水面上に生育状態が良好な大麦が、風に麦穂を揺らしている。
「変ですぅ。こんな方法で育つ大麦はない筈ですぅ」
「え? この辺は昔からこうなのよ? 何が変なの?」
西方の状況、中隔地方、東方と見てきたフィノはそこに疑問を感じるのだが、コウトギの状況を知っていたチャムには不思議でも何でもないらしい。
「それじゃ、チャム、コウトギではずっとこういう耕作をしているの?」
「そうよ。ここの獣人達は完全自給自足。この大麦が何て名前か忘れちゃったけど、これが普通の風景」
「うーん…、近寄って見せてもらおう」
何か秘密がありそうな感じはしているのだ。
よく見れば、それは水田ではないのだ。
畔も無ければ、水量調整に必須の区画も無い。ただ川が堰き止められているだけなのである。
見れば水深も深くはない。その辺りは水田と同じだが、川底には石が敷き詰められ、土砂の流出が抑えられている。だが、そんな構造をしていれば、作付けなど出来はしない。
妙な点はもう一つ。大麦は綺麗に四角く茂っているのである。
その四角はどうやら竹を割って網に組んだような物で出来ている。網の隙間から大麦が伸びているように見えた。
一番川岸に近いものに近付いてみるとその構造がやっと解る。大麦は別にその竹の網から生えているのではなく、その下の土壌から生えていた。
更にその下には同じ割り竹の網が組まれていて、生育土壌を挟み込むような構造になっている。それが半ば水中に没するような形で浮いているのだった。
「驚いた…。水耕栽培だ」
カイはぽそりと呟く。
「水耕栽培?」
「こんなので麦が育つのかよ? まあ、育っちゃいるんだがよ」
「うん。麦も別に土に植えなくたって、水と必要な養分が有れば育つんだよ」
よく観察すると、挟まれているのは土ではない。折り重なった枯葉のように見える。おそらく元は腐葉土だったのではないかと思われた。
流水に晒された腐葉土は、土に還った部分や枯葉の細片は洗い流され、半ば分解された枯葉だけが残っているのだろう。そこへ張った大麦の根は、上半分を水上に顔を覗かせて空気を取り込み、下半分は養分を摂り込むべく水中に伸ばしている。
その根同士が互いに絡まり合い、竹の網の支えもあって自立しているようだった。
実によく考えられているとカイは思う。
腐葉土は地上で微生物に分解されて土になる途上のものだが、水中に於いても同様の働きをする微生物は当然存在し、分解されかけた枯葉を分解して有機肥料に変える。その他のミネラルなどの必須栄養素は山から流れている水に多量に含まれている。天然の栽培水の出来上がりである。
それを吸い上げて大麦は元気良く成長し、実りを付けるのだ。
腐葉土ならこの広葉樹の森で幾らでも手に入るし、竹も山の産物だろう。竹網を流れないよう杭に結び付けているのは麦藁を使った綱だろうし、全ての材料がこの周囲で完結している。驚異的な効率と言っていい。
「ふうん、そんな仕組みだったのね」
チャムも納得はしているようだが、青年ほどの感動はないようだ。当たり前のものとして受け止めているからかもしれない。
「説明のし甲斐が無いなぁ」
「カイさん、カイさん、フィノは感動しましたよぅ?」
「フォローありがとうね」
泣き笑いの表情を見せるカイ。
「だがよ? 何でこんな面倒臭え事やってんだ? 不通に植えりゃ良いじゃねえか?」
「それが無理なのです」
新たな声の登場にトゥリオは驚いて振り向いた。
気付いていたのだろう。黒髪の青年はゆっくりと振り返る。
「こんにちは。お邪魔しています。勝手に見させてもらって申し訳ありません。盗んだりするつもりはありませんので」
「ええ、そのおつもりでしたら、こんな昼間には来られないでしょうから」
その声には笑いの成分が含まれている。
「僕はカイ。冒険者です」
「クオフです。このネーゼド
仲間を紹介したカイに、獣人の青年は名乗った。それは郷の副長をやっているという意味だ。
「不案内なので申し訳ないのですが、もう少しお聞きしても宜しいでしょうか? クオフ・ネーゼド」
「ええ、構いません。これは張り水農法というのです」
郷名まで付けて敬意を示したカイに、クオフは察したように説明を始める。
コウトギは全体に多雨地帯である。それはここ北部でも常識で、耕作が困難なのだそうだ。
作物の生育に必要な
かと言って河岸に耕作地を作れば増水した時に何もかもが流されてしまう。
「我々には耕作地が無かったのです」
四人は思い思いに想像を巡らせる。
「不定期とは言え、大雨が予想出来るならそうなのでしょうね?」
「はい。ですから流されない方法を模索した結果が張り水農法なのです。植えられないのなら、浮かせるしかありませんでした」
沢を大きく開削し、平らにすると高さ
それを沢に沿って何段も作り、最も上流には少し隙間を空けて何本もの丸太を縦に打ち込んでおく。そうすれば大雨の時に水は流れるが、流木や岩が張り水に入り込むのは防げる。
流れ降りた水で大きく堰を超える水位になる事は多々あるが、前述の水耕筏は浮いて流出する事はないし、作物にも被害は出ない。
「定期的に固定綱の痛みを点検して張り替えたりする手間は掛かりますが、安定して収穫を得る事が出来るのです」
先人の知恵を誇るようにクオフは笑みを深める。
「ですよねぇ。狩猟採集生活は大変ですからぁ」
「西方の郷ではそうなのですか? ご苦労がしのばれます」
「でも今は違うのですよぅ!」
フィノは嬉しげに両の拳を胸の前で振る。
魔獣の生息数が他の比でない獣人居留地で、こういった複雑な農業をやるのは難しい。ほぼ不可能だと言える。
だが、ナーフスのお陰で西方獣人郷は大きく様変わりしていた。
「フィノ達でも簡単に育てられて、しかも栄養豊富で、すごく高く売れる作物が有りますからぁ!」
犬耳娘は故郷を思い、本当に幸せそうな笑顔を見せる。
「ほほう、そんな作物があるのですか? 教えていただきたいものです」
「いえ、あれは肥沃な大地に高温湿潤気候でなくてはなりません。ここは少々涼し過ぎる」
「そうですか。残念です」
クオフは大きな耳を興味深げにカイに向けていた。
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