緑の神

カームテ

 暗黒点セルヘンベルテの浄化に成功した冒険者達だが、長居は不要とばかりに帝国内から速やかに退散する。のんびり調査などしていて、変に噂になっては堪らない。せっかくこちらの動きは捉えられていないはずなのに、わざわざ知らせてやる必要はない。


 歪みの元になる暗黒点の対策には目算がついた。

 それも急ぎではない。次の魔王の発生までは少なくとも百の猶予がある。

 暗黒点の位置に関しても纏まった記録は無い。勇者の名は残っているのに、どこでどのように魔王を討滅したのか確認出来ていない場合もある。

 各国に散っているであろう記録の収集作業をするにせよ、残る伝承などから詳しい調査を行うにせよ、世界情勢が落ち着いてくれないと困難であると言わざるを得ない。

 ゆえに、そちらにも働き掛けが必要なのだろうが、カイは急ぐ気はなさそうだった。


(この人そのものが特異点みたいなものだものね)

 チャムは失笑する。


 当の本人は今、慎重に延し棒を操っている。

 生地は、カシナ小麦に自家製酵母を加え、バターと砂糖、牛乳を混ぜ合わせて寝かしておいたもの。

 適量を取ると紐状に伸ばし、延し台の上に斜めに置く。手前の端に延し棒を乗せ、向こう側へ捩じるように延ばしていく。すると、内側に引っ張るような力が掛かって、くるくるとカールしていくのだ。

 螺旋状に延ばした生地を、そっと持ち上げて熱した油に入れて揚げる。火が通ると油面まで浮いてくるので、そこから表面がキツネ色になるまで揚げ、網杓子ですくって木皿に上げて冷ませる。


 これはカームテというお菓子だ。

 東方ではどこの街に行っても露店で見掛けられる。一般的には、茶砂糖を振って味付けされた物が多い。食感は、表面はサクッとして中はふわっとしている。

 カイは初めて口にした時に気付いた。それは要するにドーナツである。

 螺旋状にしている理由はドーナツが輪の形をしているのと同じ。揚げた時に火を通り易くするのが目的だろう。

 単に棒状でないのは、普通の鍋でも一度に多くを揚げられるようにする為だと思われる。広げた生地に穴を開けるのではなく、螺旋に伸ばして量を増やす方法が選ばれたようだ。


 最も安価に売られているのが、先に挙げた茶砂糖を振ったもの。他には、果物から作った白砂糖を振ったものも良く見掛けられる。

 白砂糖が比較的高価なので割高になっているのだが、口元に持ってきた時にふわりと香る果物の香りと上品な甘さが高級感を与えて、人気商品の一つになっている。

 子供のおやつとして買い与えるなら前者の茶砂糖の品で、家族でちょっとした贅沢として買い求める時は後者の白砂糖の品といった感じだ。


 カイ達はそのカームテを自前で作ってみようと奮闘中なのである。

 生地のほうの調合は簡単に予想がついたし、パンを作る為に時々小麦酵母の作り置きをしているので、準備は順調に済む。ところが、この螺旋に延ばす方法にコツが必要で、結構皆が苦戦している。

 こういう時にトゥリオは戦力外通告をされるので、揚げ担当のフィノの補助くらいしか出来ない。成功率が低かった彼女が油の番をしている。

 それで、カイとチャムが延し棒を手に四苦八苦していたのだ。それでも慣れてくると失敗も減ってきて、順調に数が揃ってきた。


 十分な数を揚げたら別の準備に入る。

 いつもの二重ボウルに準備していた湯煎したたっぷりのモノリコートの中へ、よく冷ましたカームテを浸す。持ち手部分以外をしっかりと潜らせると、フィノの魔法で一気に冷やした。

 これでモノリコートカームテの出来上がりである。皿の上にどんどん積み上げていき、いそいそとお茶の準備を済ませたら、皆が手を伸ばした。


 嚙り付くと、冷え固まったモノリコートがパリンと砕ける感触の後に、さくりとした歯触りがやってくる。そして最後にはふわもちっとした食感がきて、モノリコートのコクの深い甘みとほろ苦さ、生地のバターのコクと少なめにした砂糖のスッと抜けるような甘みが混然一体となって、口いっぱいに広がる。

 黙ってもぐもぐと余韻を楽しみ、次のひと口を齧り取るのだが、自然と笑顔になり頬を押さえる様子や大きく振られる尻尾が満足以上の結果を伝えて来ていた。


「売れる! 相手が貴族だって自信を持って売れるわ!」

 あっという間に一本を平らげたチャムが断言する。

「は~う~。溶けちゃいますぅ~。口当たりは軽いのにこのお腹に溜まる満足感。堪りません~」

「うん、いい感じ。これは練り込むのを白砂糖にしたら、齧った時に果物が香る感じに出来るかもしれないね?」

 麗人がぎょっと振り向く。

「あなたは何なの? どうしてそんな酷い事を思い付くのよ。そんな事したら止まらなくなっちゃうじゃない!」

「そこは自制に任せるよ」

「もしかしたらぁ、ドライフルーツを小さく刻んで生地に混ぜても美味しいかもですぅ」

 今度は背筋に悪寒が走ったようだ。

「フィノ、悪い子ね!? そんな事したらどうなっちゃうと思うのよ?」

「太らないようにすごく頑張らないとですぅ」

 小さく舌を出して笑う犬耳娘に笑顔が集まる。


「これは、練りにしっかり時間を掛けたらもっとモチモチ感が出るのかな?」

 カイは食感にもうひと工夫出来そうだと考えているらしい。

「それは、寝かせる時間や温度管理をすれば何とかなるでしょうけど、旅暮らしの中で楽しむならこのくらいで十分じゃない?」

「ですねぇ。でもフィノはもっと表面がサクサクしていたら美味しいと思いますぅ」

 歯応えを好む獣人らしい意見が出てきた。

「うん? それは好みの問題だけどバリエーションとしては悪くないね。二度揚げかな?」

「二度揚げ?」

「低めの温度の油でちゃんと火を通してから一度上げて、油の温度を上げて表面だけ一気に火を入れる方法」

 フィノは手を打って満面の笑みを浮かべる。

「それですぅ! 次は絶対にそれをやるのですぅ!」

「はいはい、今陽きょうはこれだけにしておきましょうね? 揚げた分だけでも、全部平らげちゃったら食べ過ぎなくらいよ」

 余ったら『倉庫』に納めておいて、次の休憩にでも食べるつもりだったのだが、減る速度を見るにどうあっても食べ尽くしてしまいそうだ。


「なあ、これはこれでいけるんだぜ?」

 黙っていたトゥリオが、自分が口にしている分を振って見せる。


 それは彼専用に作った物だ。

 揚げたカームテを、樽熟成の蒸留酒に砂糖を加えて煮詰めたシロップに浸してしばらく乾燥させてある。

 表面はしっとりとしてしまうが、蒸留酒の香りと味が染み込んで十分に楽しめているらしく、甘い物が苦手なトゥリオも仲間外れにならないで済んでいる。


「味見したから知ってるわよ。それはお子様には出せない代物なの。お酒が強過ぎるのよ」

 チャムは常識的に考えて、お菓子であれば同席した子供も同じものを欲しがるのを考慮している。

「そうだね。蒸留酒は香り付け程度にしたシロップなら有りかもしれないけど」

「美味ぇんだがなぁ…」

「トゥリオさんとニケア様専用ですぅ」

 フィノの冗談に、皆が大きな笑い声を立てた。


 街道から結構離れているとは言え、普通はこんなに大騒ぎしていれば人目を引いてしまうものだ。誰かの気を引いてしまったとしても不思議ではない。

 しかし、今はそんな事を気にする必要はなかった。

 平原なら遠く響いてしまう声も、周囲の山に茂る樹々が吸収してくれる。広葉樹の森は、音を飲み込んでなお静かに見守ってくれていた。


 なぜなら、そこはコウトギ長議国の北の山間部なのだから。

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