神秘との対立

 間断なく上がってくる嗚咽が吐き気に変わってくると身体を伏せているのが辛くなってきた。

 顔を上げても涙で歪む視界はちゃんと映っていないように思える。薄暗くも眩しくもない場所なのに、チラチラと光が舞っているようにフィノには見えたからだ。

 手の甲の毛皮を涙で濡らすとようやく視界が戻ってきたが、しゃくり上げて揺れる視界にも光の粒のような物が見える。それが向こうを透かし見るのが難しくなるほどに増え、一ヶ所に集まっていく。


 そこはカイの上半身があった場所だ。


「!!」


   ◇      ◇      ◇


起動アクティベイト

 細められ、貫くような視線が慈愛神アトルを見据えている。

神々の領域第三段階ラグナブースター・トリプル


 魔力の乱流がチャムを取り巻き、その感覚を擾乱する。彼女のものとは違う、カイの固有波長の魔力だ。その流動に巻き込まれ翻弄されると、一種の魔力酔いのような状態に近付いていると感じた。

 なのに、それが不快ではない。酩酊感はチャムの芯までをも揺り動かし、揺蕩たゆたうような心地良さまで感じてきてしまっている。おそらく、彼を見上げるその顔は恍惚に溶けているだろうと思った。


「ヤバい! こりゃマズいぞ! 本気なんてもんじゃねえ!」

 慌てふためいたトゥリオが救い出そうとフィノに手を伸ばす。

「これは危険ですぅ!」

 既に気付いていた獣人少女もその手を取って引っ張る。

 二人は手に手を取って、その場から身を逃すのが精一杯だった。


 爆発したかのように吹き上がった魔力にアトルは数歩後退ったように見える。

『そなた、その力、我に振るう気か?』

「どうせ覗いていたから知っているんでしょう? 僕は言ったはずですよ? 彼女を泣かせるものは決して許さないと」

『たったそれだけの事で神に盾突こうと言うのか? その意味が分かっているのか?』

 口調は強気を譲らない。なのに、自然に持ち上がった手が制止しようとこちらに翳されている。

「たったそれだけ? 僕にとってはほとんど全てですよ。心も身体も行き先に迷い、ただ何かの意思が僕に事を成せと突き付けてくる切迫感が貴女に分かりますか? どれだけ力があろうとも、その向ける先を見失えばどうしていいのか苦しくて仕方がないんですよ。そんな時に彼女が、チャムだけが異世界からやってきたありのままの僕を全て受け入れてくれたんです。その時、僕の存在意義が決まりました。報恩の思いと、彼女に恋する想いだけで生きています。これからもずっと」

 カイは峻険なる眼差しで傲然と言い放った。

「相手が誰でも同じ事です。例えそれが神であろうと!」


『何が出来る、人の子が。その拳や魔法で我が滅せるとでも思うか?』

 それでも表に現れる感情のようなものには乏しい。不可能と思い、諭すように問い掛けてくる。

「何も出来ないと思っているんですね? 確かにその身体は物理的に破壊出来るようなものじゃないみたいです。でも、その基質マトリクスを破壊したらどうです?」

 スッと差し出された指がアトルの背後を透かすように差した。

「その情報体に飲まれて個が保てなくなるのではないですか?」


 それと同時に色が溶け崩れて流れていく。蒼穹を表していた青も、草原を彩っていた緑も、何もかもがどこかに流れ落ちていった。

 カイ達四人もアトルも、何も無い藍色の空間に浮いているだけだ。


「きゃっ!」

 小さく悲鳴を上げたフィノが美丈夫に縋り付く。そのトゥリオにしたところで、不安げに足を動かして落ちない事を確かめるのが限界だ。

「どうなってやがる」

 悪態を吐いて下唇を噛む。

 ほんの少し前に、無念を感じて拳を打ち付けた大地も、フィノが悲痛な泣き声を上げながら削った爪痕もどこにもない。一瞬にして消え失せてしまった。

 そこはもう自分達の常識など通用しない場所だというのだけは分かった。


(情報体?)

 チャムは半ば夢うつつの状態でカイが指差すほうに目をやる。

 そこに在る慈愛神の背後には、虹色に揺れる水面があった。海のように広大さを感じさせ、どこまで続いているのか計り知れない水面は、海ではないと一目で分かる。それはゆらゆらと揺らめきながらも、壁のように垂直にそそり立っているからだ。

 なのに圧迫感はない。それが水に見えれば見えるほど雪崩落ちてきて、押し流されていってしまうように感じる筈なのに、連想する事も適わない。

 ただ、そこからは懐かしさだけが感じられた。


ことわりの外側に佇む者よ。そなたは神殺しも已む無しと言うか?』

 未だ表情に焦りの色はない。元々それも不可能なのかもしれない。しかし、その言葉はカイの主張を認めるのだと読み取れた。

「一片の躊躇も望まないでいただけますか?」

『神をも屠るか…。我に出来る事はもう無さそうだ。巫女よ、そなたの良識に託そう』

 そう言い残すと、アトルの姿は徐々に霞んで消えていこうとする。同時に斜め下方より、霧のような白い何かが吹き付けてきて何もかも覆い尽くした。


 警戒に身を固めたが、何事も起きずにいつの間にか足に大地の感触が戻ってきていた。


   ◇      ◇      ◇


「ちゅりー!」

 転移魔法陣の上に立っている四人に向けて、薄茶色の小動物が飛び付いてきた。

 主人の腕にしがみ付くと確かめるように頬擦りし、駆け上がって頭の定位置に収まると黒髪に頭を埋める。

「キュー」

「キュラル」

 口々に鳴きながらセネル鳥せねるちょう達もやってくる。彼らはただここに転移させられ放置されていたようだ。四人が消えてしまった不安に戸惑いながらも、どうしようも出来ずに待っていたのだろう。

「ごめん。怖がらせちゃったね。こんなとこに罠を掛けられているとは思いも寄らなかったよ」

「ちゅー…」

「キュー…」

 首筋を撫でてやると少しは落ち着いてきた様子を見せる。

 トゥリオも突いてこようとするブラックのクチバシを宥めるように叩き、フィノはイエローの首に抱き付いてまた涙を流していた。


 ただ、未だ落ち着かない人物もいる。カイの胸に顔を埋めたまま、鼻をすする音ばかりが聞こえてくる。

「チャム?」

「いや!」

「もう大丈夫だから」

 転移してすぐに青年は神々の領域ラグナブースターを解除しており、あの感覚が彼女を揺るがしはしない。でも、チャムはまだ蕩けているであろう顔をカイに見られるのが気恥ずかしかった。


 石室は使わせてもらっているだけなので、あまり長居すべき場所ではない。

 チャムを抱き上げたカイは、土山を後にしつつ独り言ちる。


「ふーん、神様ってああやって出来て・・・いるんだ」


   ◇      ◇      ◇


 魔境山脈を速やかに駆け抜け、十分に距離を取ったところでようやくひと心地つく。


 敷物の上にぺたりと座り込んだチャムはようやく黒髪の青年から離れていた。

 フィノがお茶の準備をするかたわら、手桶にぬるめの湯を張って布を濡らして彼女に手渡す。同じ女として、泣きはらした顔をあまり曝したくはないだろうという配慮からだ。

 その間に、二人乗りに耐えてくれたパープルを労い、カイ達は彼らに食事を与えている。


「あれは…、何だったのでしょうかぁ?」

 皆がお茶とお菓子で身体を休め始めてしばらくすると、フィノが切り出した。

「どこか、と問われるとちょっと困るね。正直想像もつかない」

「カイさんでも無理ですかぁ…」

「でも、みんなにはどう見えていたのか分からないけど、僕には最初からあんな空間だったよ?」

 その言葉に三人はハッと息を飲む。

「草原だったわ。とんでもなく広い」

「なるほど。そういう風に見せられていたんだね?」

「見せられていた? あれが幻覚だっつーのか?」

 ちょっと考えたカイは「厳密には違うかな」と告げてくる。


 青年はその意味の説明を始めた。

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