チャムの絶望

 変わらず大地を踏みしめている足がある。(一歩も引かないぞ)という意思の表れか、足を肩幅に開き、腕組みをしていた所為か、下肢から大腿、その上の臀部までは微動だにせずそこに在る。

 ただ、その上は欠片一つ残さず失われていた。



「嫌…」


 冗談交じりに「触らせて」と頼んだ事は良くあった。

 剣士では彼のように、地を這うような姿勢から高く伸び上がるような姿勢まで、技の中で多彩な体勢を取る事はない。その根幹を支える、横腹を斜めに走る筋肉や腹筋には興味があった。

 触れると怖ろしく固く、彼女の拳打などではとてもではなく打ち抜けたりしないと分かる。それも彼の鎧なのだ。


 面白くなってべたべたと触っていると、「くすぐったいよ」と言って身をよじる。その固い腹筋にはもう触れられない。文句を言いながらも、彼女に向けられたにこやかな笑顔ももう見られない。


「嫌…」


 しなやかさ故にそんな風には見えにくいが、触れると厚みが強く感じられる。その胸板が彼女を包み込んだ時に温かさを通り越して熱ささえ感じたように思う。

 筋肉量の所為で元々高い体温に、感情の昂りで上昇した分が加わって、そう感じたのかもしれない。力強い抱擁が彼の深い想いと熱さを伝えてきた。


 興奮を恥じるように息をひそめて抱き寄せられた。その熱い胸板に包まれる事はもうない。情動に負けないよう懸命に力加減をして、それでも伝えられてきた熱い想いを感じる事ももうない。


「嫌…」


 彼女を喜ばせようと、料理に物作りにとその指が繊細に動くさまをずっと横で見ていた。固められた拳は幾度となく彼女の窮地を救ってきた。それどころか、彼とともに行動するようになってからは、ろくに窮地らしい窮地も感じられなくなっていた。

 それは彼が固めた拳で彼女を守り切ると心に誓っていたからだろう。


 彼女の盾として、そして矛として振るわれた拳はもうどこにもない。壊れ物のようにそっと触れてきた手ももうどこにもない。放したくないと主張するように回されてきた腕ももうどこにもない。


「嫌…」


 癖のあまりない柔らかな黒い髪に触れるのは好きだった。

 無頓着な彼が伸び放題にするのが気に入らなくて、幾度となく鋏を入れ整えてきた黒髪は永遠に失われてしまった。


 男らしい太さの眉は、様々に変化し感情を如実に伝えてきた。

 彼女の言動に驚いて跳ね、彼女の悪戯に困惑して尻下がりになり、彼女の苦境に怒って逆立ち、彼女の反応を怖れて震えていた眉は永遠に失われてしまった。


 気が付けば、黒い瞳はいつも彼女を追ってきていた。

 新しい発見にキラキラと輝き、喜びに糸のように細められ、力無き者の苦境に怒りを燃やし、理不尽には酷薄に透き通り、その深奥に多くのものを隠していた黒瞳は永遠に失われてしまった。


 臆面も無く彼女を褒め称えてくる口元を睨み付ける事は多々あった。恥ずかしくもあったが、もちろん嬉しくて仕方なかった。

 基本的には笑みを形作り、時に悪戯っぽく、時に引き結ばれ、時に冷笑に歪み、そして時に彼女への想いを言葉に紡いできた口ももう永遠に失われてしまった。


 その想いを乗せて触れてきた柔らかい唇ももうどこにもない。


「いや ―――――――――――――――――――― !!」


 チャムの叫びが大きくどこまでも響き渡った。



「あ…、ああ…、あ ――― !」

 フィノは突っ伏して慟哭を上げる。

 大地をバンバンと叩き、爪を立てて掻きむしり、無念を露わにする。

 取り戻そうと望むように手を伸ばす。

 失われたものを思い、涙が次々と溢れてくる。

 しかし、そこには何もない。


 確認した事実を認めたくないように、また突っ伏して号泣する。



「おいおい、冗談だろ?」

 トゥリオは認めたくないというようにかぶりを振った。

「お前が死ぬなんて、そんな事ある訳ねえじゃねえか!」

 ただの見間違いで、見直せばまたそこに彼の姿が認められる筈だと思った。

「からかうのは止めてくれよ! さっさと姿を見せろよ!」

 口ではどうと言おうと、目からは滂沱の涙が流れ落ちていた。

「ばっかやろう! 何やってんだよ ―― !」


 天に向けて放った吠え声は、虚しく吸い込まれていった。


   ◇      ◇      ◇


 一時はへたり込んでいたものの、力無くゆらりと立ち上がる。涙で霞む視界を振り払うべく、手の甲で強く擦る。おそらくひどい有様になっているのは間違いないが、そんな事は今はどうでも良かった。

 相手を見据えられればいい。彼を消し飛ばすという暴挙に及んだその存在を。


「御神よ、どうしてですか?」

 声の震えを抑えるように絞り出す。その存在に違える事無く伝わるように。

「彼がどんな罪を犯したというのですか? どうかお答えください」

『そなたも知っておろう、巫女よ。あれは人の世の筋道を変えてしまう危険なものだ。在るだけでことわりが歪められてしまうのだ。止めようにも、我の干渉も受け付けん』

 最後の下りはチャムにも理解出来ない。だが、それが彼を消し去る理由になっているとは決して思えなかった。

「筋道とは勇者が魔王を倒すという事でしょうか? 勇者が魔王を倒さなければ何か不都合があるのでしょうか? 私は魔王が人の世に対する害悪であり、それが排除出来るならばどんな手段でも構わないと思ってまいりました。私にそれが適うのならば、この身を捧げても構わないと思ってまいりました。でも、勇者にしか適わない技であると思い、役目に徹するのが正しいと思ってまいりました。それは誤りだと仰せになるのでしょうか?」

『誤りではない。魔を取り除かなければならないのは間違いがない故に我らは勇者を生み出しておる。だが、大き過ぎる力が世に現れれば乱れるのも道理であろう? 勇者ならば我らで御する事が出来る』

 その言葉に含まれる致命的な意味にチャムは気付いてしまう。

「大き過ぎる力だから、魔王のように取り除こうとお考えになったのですか? それが御神に御する事が出来ない力だから滅してしまわねばならなかったと仰せになるのですね?」

 彼女は鞘からスッと長剣を抜き放った。

「それが神の御心だと仰せになるのですね?」

『待て、巫女よ。そなた…』

 稀なる美貌が驚愕に彩られた。


 チャムは彼が作って与えてくれた長剣を愛しそうに撫でた。

 そして、その剣身にゆっくりと光述を綴り始める。重ねられる文字の数々は、いつもより多くの魔力が込められている所為か、そのまま剣身に吸い込まれていく。長剣は金色の光の文字を食むとともに、内側から黒い霞を湧き立たせてきた。

『巫女よ。それは禁忌の技ぞ。何をするつもりか?』

「魔属性剣」

 何もかも振り払ったような面持ちのチャムは薄笑みさえ浮かべて告げる。

「御神に我が力が届くなどと思い上がってはおりません。ですが、この魔法剣であれば、一筋の傷なりとも付けられましょう。私の覚悟をお受け取りくださいませ」

『待て。滅ぼしてはおらぬ。すぐに再生して…』

「それはダメだよ、チャム。そんな魔法は君には似合わない」

 絶望が幻聴までも生み出して、チャムの耳に入り込んできたのだと思った。

 しかし、背後から伸びてきた手が彼女の手首を押さえる。その力を振るわせないように。


 背中に感じる温かさが新たな涙を溢れさせる。力が抜けて、剣が手から零れ落ちて音を立てた。

 震えながらゆっくりと身体を振り向かせると、そこには黒い髪に黒い瞳。紛う事無き彼の、ちょっと困ったような顔がある。

「っは…! あ…、ああ ―― !」

 まともに呼吸が出来ないままに感情だけが湧き上がってきた。

 縋るように彼の肩に顔を埋めて慟哭する。確かめるように強く強く抱き締めた。


 回された手が宥めるように背を撫でると、その動作とは真反対の冷たい声が耳朶を打つ。


「彼女を泣かせましたね?」

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