女優誕生

 焼きたてのクッキーが甘く香ばしい香りを上げている。運が良かった。気紛れに果実のジュースでもと思って厨房に顔を出すと、甘い香りが漂ってきたのだ。

 料理人や下働きがワッと寄って来たのには辟易したが、すぐにクッキーを包んでくれたのには感謝している。


 自分がちょっとした有名人になってしまったのには困惑している。これくらいの余碌がないとやっていられないとチャムは思った。

 もらったジュースとクッキーを持っていけば、目立たない一画を借りて作業をしているカイは喜んでくれるだろう。あんな物を作る気になったということは、彼はこの地を重要視するつもりだと言える。王宮の人間と仲良くなっておいて損はしないが、この加熱具合には少々閉口気味だ。


「こんにちは、青髪のお方。どこへ向かわれているのですか?」

 振り向くと、そこには王の間でアヴィオニスに食って掛かっていた婦人の姿。

 彼女は深紫の髪をなびかせ、大きな目をこちらに向けてにこやかに笑い掛けてくる。王宮内でもそればかりを見掛ける流行りのドレスに身を包み、屈むように覗き込んでくる姿は媚びを感じてしまう。

「何か用かしら?」

「そんな言い方なさらないで。わたくし、貴女と話してみたいと思っていましたのよ?」

「そう。機会があればその時にね」

 チャムは露骨に距離を取ろうとするが、彼女は回り込んできた。

「お待ちになって。そんなにつれない事をおっしゃらないで、少しお付き合いくださらないかしら?」

「ずいぶん強引ね。言いたい事があるなら聞いてあげるわ」

 振り切るのは難しくはないが、それでは場所を変えても付き纏われそうで気が重い。さっさと済ませたほうが後腐れが無さそうだと思い、仕方なく向き直る。

「もったいないとお思いにならない? 貴女はそんなに見目麗しいのですのよ? きちんと着飾ればもっと殿方を喜ばせて差し上げられるのに」

「生憎とそういう習慣が無いのよ。私にとってはこれが正装なの。ドレスに佩剣はいけんなんて不似合いにもほどがあるでしょう?」

「常に小道具を身に着けておくなんて、立派な心掛けですこと」

 美しい形の眉が疑問に跳ねる。彼女の言っている事が理解出来ない。

「小道具? 何のこと?」

「ですから普段から役作りなさっているのでしょう?」

「役作り? さっぱり分からないわ」

 彼女の頬が不機嫌そうに少し膨らむ。

「おとぼけはお止めになって。貴女は女優なのでしょう?」

「はぁ?」

「だから陛下がお招きになられた一座の」

 チャムはやっと誤解に気付いて笑いの発作に見舞われた。


「あーはっはっは! はぁ、はぁ…。ああ、お腹痛い…」

 ひとしきり大笑したチャムはまだ、お腹を押さえて悶え苦しんでいる。

「どうしてバレちゃったのかしら?」

「…? どうしてって、あんな子供を連れてきて『魔闘拳士』だなんて無理にもほどがあるでしょう?」

 当然反応がおかしいと思ったのだろうが、自分がそう看破したのだからと納得したようだ。

「やっぱり騙されてくれたりはしないかぁ」

「騙す気ならもうちょっと工夫しなさいよ」

 チャムが愉快極まりないという笑みを見せているのを、どうやら悪戯がバレた時の表情だと受け取っている。不機嫌さは口調に含まれてはいるが。

「そうかぁ。困ったわねぇ」

 そこへ渡り廊下の向こうから数名の一団が歩み寄ってくるのが見えた。

「あ! ザイード!」


 その時、深紫の君の表情はこれまでにないほどに歪んだ。


   ◇      ◇      ◇


(な、な、何ですって ―― !)

 思わず外に零れそうなほどに、胸の内に驚嘆が溢れかえる。

(愛しのお方に対して何という不敬! ましてやラムレキアの至高の方を呼び捨てにするなんて許されると思われているの!? この女、陛下が寵が厚いからと言ってどれだけ驕り昂っているのかしら!)


 その当人は、素早く勇者王に駆け寄ると手招きして耳打ちをしている。

 付き従う近衛騎士が阻むかと思いきや、一歩引いて控えていた。最近はこれが日常茶飯事だったからに過ぎないが、彼女にはそれもチャムの驕りに映ってしまう。


(許さない! 許さない! 許さない! この女、用済みになったら滅茶苦茶にしてやるんだから! でも今は我慢。まず潰すのは偉そうにしている王妃のほう。冷静に、冷静に)


 耳打ちされているザイードがいつにないくらい目まぐるしく表情を変えているのには気付かない。今のナミルニーデはチャム憎しの感情で埋め尽くされていた。

「あらー、お仲が良ろしいようで…」

「気にしないで。バレちゃったからには作戦変更が必要でしょ?」

 彼女は怒りを漏らさないように必死なのに、青髪の女はどこ吹く風だ。

「ね? ザイード、そうよね?」

「そ…、うだな…」

 振られてギョッとする勇者王は少し挙動不審で、ナミルニーデの胸中に疑問を湧き立たせたのだが、それが一瞬で吹き飛ぶような事が起こった。


「悪いが、ナミル。話を合わせてくれるか?」

 演技も媚びも何もかも投げ出した彼女は、脱力して口をポカーンと開け放っている。

「ナ…、ミ、ル?」

「うむ? 嫌だったか? これからは顔を合わせる事も増えるだろうから、このほうが良いかと思ったのだが?」

「いーえ ―― ! とんでもございません、陛下! ナミルとお呼びいただけるのでしたら、この身は歓喜で天にも昇る気持ちにございます!」

 ザイードの後ろでなぜか青髪が親指を立てているが、そんな事など全く気にならない。

(陛下にナミルと呼んでいただけた! 陛下にナミルと呼んでいただけた! 陛下にナミルと呼んでいただけた! はああー、もう死んでもいいー!)

 嬉し涙まで滲ませて勇者王に詰め寄ると、彼は引いているように見えるがそんなのは気の所為だろう。

「今後もどうぞお気軽にナミルとお呼びください、陛下。心からのお願いにございます」

「ふむ、ならば良かった」

 本当に何もかもがどうでも良くなったナミルニーデだった。


「面白い取り合わせだったが、お前達は仲が良かったのか?」

 ザイードの興味は他に移ったらしい。

「ん? 別にちょっと絡まれて…」

「何をおっしゃいますの、チャム様!」

 ここは何としてでも親しげな様子を印象付けなくてはならない。王の間で彼女の仲間がどう呼んでいたか必死に記憶を探って思い出した。

「先ほどからお話で、わたくしとは意気投合したではございませんか? 嫌ですわ」

「私は『意気投合』の意味を履き違えているのかしら…?」

「御婦人らしく王宮ではドレスをお召しになればと申し上げましたら、小道具でも普段から剣をお持ちになって役作りしていらっしゃる熱心さが陛下のお目に留まるのだと教えてくださいましたではありませんか? それでしたらと、わたくしも今後は少し考えを改めたほうが宜しいかと思い始めていましたのに。ラムレキア王宮の威厳を貶めまいとこれまでは努力してまいりましたが、それが陛下の御本意であられないのでしたら、臣下としてそれに従うのが正道ですわよね? そう、自然体? 自然体!」

 チャムが余計な事を言わないようにと捲し立てるように被せていく。

「お前達が懇意にするのならそのほうが良い」

 ザイードが目を細めながらそんな風に言う。それだけでナミルニーデは舞い上がるような気持ちで満たされるのだった。

「お前があまりアヴィに噛み付くから、俺も嫌われているかと思っていた」

「膝を折るべきお方を嫌うなど有り得ませんわ! わたくしの敬愛をお疑いなきようお願い致します」

「この通り雑な人間だが、宜しく頼む」

「ありがたきお言葉、心に刻み付けたく存じます」


 頬を染めたナミルニーデは、夫人としての最敬礼を勇者王に送った。

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