宰相の書記官
彼女の事を聞いたのは半
留守を預かる宰相クルファットが、その激務を緩和する補助の為に書記官を任命したので承認して欲しいという書簡が勇者王の下へ届いたのだ。
「シュッテルベ侯爵の娘? 知っているか?」
文面を目にしつつ首を捻るザイード。
「知らない。そんなのいた? 本当に優秀ならあたしの網に掛かっても良さそうなものだけど」
「ただの書記役か」
アヴィオニスは目についた優秀な貴族子弟には位階を問わず声を掛けて面接し、実力があれば男女に構わず登用している。そしてその者達にも、身内や知り合いに優秀な人材がいれば推薦するように奨励している。最終的には彼女の面接による合否次第だが、王妃の下には頭脳たり得る人材が集められていた。
そうする事で王都を留守にしても政務が滞る事無く王国運営が回るように熱心に教育も行っていたし、身体の頑強な者は戦地に随行させて現場での事務処理の円滑化を図るようにもしていた。
彼女の努力は成果を実らせて、思い通りに機能しつつあるように思っていたし、内部的には問題ないと考えていた。
ただ、宮廷社会としてはそのような位階を無視した横紙破りな登用を批判する声が上がっていたのも事実だ。そんなものは縁故登用を勧めてくる愚物どもの遠吠えだと無視していたが。
「そんなに激務って事はないはずよ。高度な判断を要求される案件でなければ、あたしの政策集団が上げる事無く処理出来るから」
あまり興味を示さないアヴィオニスに、ザイードもそれがどうでもいい事のように思えて来ていた。
「何かの示唆か?」
「どうせ愛妾を常に身近に置きたいとでも考えているんじゃない? あまり法外な俸給を国庫から引き出しているようなら何とかしないといけないけど。ああ…、そんな事やらかしてくれるなら、
代々、勤めてきたギアデ侯爵家の者を何の理由もなく宮廷から排除するのは難しい。しかし、自分から
「或る程度は見逃せ。それなりにやってくれている」
「
「冗談は止せ」
この時は軽口の応酬で話は流れていたのだった。
◇ ◇ ◇
睨み付け合う王妃アヴィオニスと宰相書記官ナミルニーデ。王の間は一発即発であるかのように見えた。
「陛下、問題だとはお考えにはなりませんか?」
表情をコロッと変えたナミルニーデはザイードに縋り付いた。上目遣いの瞳に涙を滲ませて掴んだ腕を揺する。
「陛下の御意を汲まず、蔑ろにする王妃殿下の専横、それをお許しになれば我が国は恥を曝す事になってしまいます。国政から遠ざけられるのが宜しいかと? どうか、陛下の御為を思う忠臣の言葉をお聞き入れくださいませ」
「待て。俺は蔑ろにされているか?」
「このような重要案件を一人で決裁するのは御身を軽んじているとしか思えません!」
宰相から手渡されていた書類の束を示して訴える。
「爵位を与えると言ったのは俺だ」
「そうよ、ザイードがそう決めたからその辞令や命令書作成の事務処理をあたしが代行しただけ。ちゃんと彼のサインが入っているはずだけど?」
「は?」
改めて手元の書類をパラパラと捲って確認する。
「…確かに」
「誰が軽んじているって? あたしが王権まで侵しているとでも言いたいわけ? 宮廷政治なんかどうでもいいけど、基本的な部分は守るわよ?」
「今回に限ってはそうみたいですわね?」
王妃の額の青筋を無視していけしゃあしゃあと言う。
「まあ! さすが勇者王陛下であらせられますわ! 敵国を討ち破っただけでなく、その敵にまで尊敬され帰順をも求められるとは、陛下の大器あってこそのこと! このナミルニーデ、感服いたしましたわ」
「この小娘は、放っておけば言いたい放題…!」
「すまんが、俺は負けた」
どさりと書類が床に落ちる。あんぐりと口を開けた書記官の娘は、目を見開いている。
「ご、御冗談を…」
「嘘ではない。負けた。魔闘拳士にな」
ザイードが振り返って見せて、そこに見知らぬ顔が有るのに初めて気付いたようだ。
「誰? ここは王の間ですわ。下賤の者が軽々に立ち入ってよい場所ではなくてよ?」
「招かれざる客とは思いますが、どうかご容赦を。そちらの御用が済めばすぐに立ち去りますので」
「用なんてございませんわ。衛兵、一体何を…!」
勇者王は手を挙げて遮る。
「俺の客だ。控えろ」
「そうよ。頼んで来てもらったんだから馬鹿は止めなさい」
「無礼を許せ、魔闘拳士」
軽く頭を下げる。
「そちらは構いませんので、その呼び掛けを何とかしていただけませんか? こそばゆくて仕方がないのですけど?」
「何が気に入らん? お前が魔闘拳士であるのは変わりない」
「勘弁して欲しいなぁ…」
くすくすという笑いが聞こえてくる。
「あなたを困らせるなんて貴重な人材だわ」
「そんな事言わないで助けてよ」
黒髪黒瞳の青年の後ろに隠れていた青髪の美貌が宮廷人達の前に露わになった。
一人の宮廷人は顎が外れたのではないかというほどに大口を開けて呆然とする。また一人の宮廷人は手を祈りの形に組み聖句を口にする。更に一人の宮廷人は天を仰いで感謝の言葉を高らかに歌い上げる。
皆が女神の降臨に喜びを捧げる中、瞳に熾火を灯す女が一人。
「お客様の前で騒ぐのは止めて、恥ずかしいから。それに、この女はそんな大層なものじゃないのよ。英雄の腰巾着」
ニヤニヤ笑いを貼り付けたアヴィオニスが流し目をくれる。
「誰が腰巾着よ。何度言っても理解が足りないのは記憶力に問題が有るんじゃないの? そこのお嬢さんが言う通りにさっさと退いたら?」
「おあいにくさま。記憶力は確かなもの。誰かさんがはしたなくも、魚の燻製に嚙り付いて口の周りを脂だらけにしていたのもしっかり覚えているわ」
「大きなお世話。夜営には夜営のお作法が有るのよ。自分が食べる分の用意も出来ないばかりか、誰かの給仕なしじゃ食事も出来ないんじゃ、一人になったら真っ先に飢え死ぬのはあなた」
それは王妃の痛いところを突いたらしく、いきなり真っ赤になって反論を始める。
「あ、あたしだっていざとなれば料理くらい出来るわよ! 普段はそんな事に時間を割けないから任せているだけ! やろうと思えば美味しい食事だって作れるんだから!」
どうやら料理が出来ないのに劣等感を抱いているようだ。
自分を「あたし」などと呼んで町娘のような空気を出していようと、彼女も伯爵令嬢。身の回りの世話をされながら育ったのは否めない。
貴族令嬢でも嗜み程度には料理を習うものだが、アヴィオニスはそれを捨ててまで勉学に打ち込んでいた。それあっての今の彼女の能力なのだが、女性としての矜持が料理に於いては疼く様子を見せる。
「ねぇ、ザイード! 以前、作ってあげた料理をあなたは全部平らげたでしょ!?」
なんの弾みか夫婦らしい事をした記憶もあるらしい。
「あれは不味かった。悪いから平らげたが…」
「あははははは、お粗末ね!」
「でも、お前だって料理の腕じゃカイに負けるじゃねえか?」
笑顔が一瞬にして固まると、ぎぎぎと音がしそうな雰囲気でチャムが後ろを振り向く。
「あんたは何でそんな余計な事を今言うのかしら?」
「え? あ、いや…、つい」
「つい、じゃないわよ?」
怒りに頬が引き攣る顔が怖い。勢い、同意しそうになったフィノも両手で口を押えて青い顔をしている。
「そんなに怒っちゃダメだよ。僕は君の手料理で天にも昇るくらい幸せになれるんだから」
「…また、あなたはそんな事を」
虚をつかれて頬を染める彼女を可愛いと思う。
カイはチャムを宥めながら、その場の人間の反応をしっかり窺っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます