輝きの海

「着けて」

 チャムは何も訊かずにそう言った。


 それは正確に言うと燐珠りんじゅではない。

 カイは、ロルヴァと潜った時に獲ってきた緑珠りょくじゅを食んだカンム貝の殻を買い取っていた。

 その貝殻の内側も当然燐珠りんじゅと同じ真珠質で覆われている。普通はそれさえも売り物になるのだ。割り砕いて破片を貼り目地を埋めれば、夜に燐光を放つ装身具になる。ペンダントや腕輪、バレッタなどに加工されたそれらは結構な価格で販売される事になるのだ。


 それを入手した彼は加工を始める。割り砕いたりなどしない。変形魔法士であるカイになら、もっと別の使い道が可能だからだ。

 内側表面の真珠質を変形させて集めると、真球に成形する。その練習に少々苦労したものの、何度か繰り返すと余計なものまで取り込まずに綺麗な人工燐珠りんじゅを作れるようになった。

 習作として仕上げたネックレスをフィノに渡すとずいぶんと驚いていた。それでも秘密だと言い含めると黙って何度も頷き、嬉しさとは少し違う笑いを見せられる。「喜びますよ」と囁いてきた。


 当然問い質されると思っていたカイはそんな説明をする準備をしていたのだが、チャムは何も訊かずに髪を掻き上げて差し向けてくる。そこには少し尖った葉のような、整った形をした耳があった。


 予想外に甘やかな空気になってしまい、カイはどぎまぎしながら手の震えを押さえてイヤリングを手にした。

「いいの? 触るよ?」

 指先に収まるほどの耳たぶに触れると、驚くほどの柔らかさに動悸が激しくなる。

「緊張しなくても大丈夫よ? そんなに敏感な場所じゃないから」

「それは無理な相談だよ。こんな事、初めてだもん」

 真剣に、そして慎重に取り付けていると、チャムはこそばゆいのか小さく笑う。


 両耳に着けるのに、だいたい一詩六分くらいは掛かっただろうか? 具合を確かめた彼女は、軽く髪を上げて「どう?」とあでやかに笑う。

 潮騒を響かせる海は色とりどりに彩られている。青、緑、黄、紫と鮮やかな燐光を放つ簀囲いすがこいが青髪の美貌を照らす。波に揺らめく光は幻想的な趣を感じさせ、ここがどこか分からなくなるほどだ。

 それに加えて、耳で揺れる緑珠りょくじゅが煌々とした光を放っている。真珠核を持たない人工燐珠りんじゅが、その最奥からの強い光で更に美貌を彩り、それはこの世のものとは思えないほどの美しさを現出させていた。


「綺麗だ…」

 見惚れるままに、何の意識もなくカイの口からそんな台詞が零れ落ちる。それでも彼は我に返る事もなく、至高の美に見入っていた。魅入られるというのが正解かもしれない。

「ありがとう…」

 濡れた緑の瞳は海の燐光を反射して虹色に輝いている。緑珠りょくじゅの輝きと瞳の輝きが生み出す幻想に、彼の口からは次の言葉が出てこない。


「…見ているだけで満足?」

 それは妖艶なる響きを持つ誘惑の言葉だった。

 迷いに黒瞳が揺れたのは一瞬のこと、惹きつけられるように肩を掴む。強く握ってはいけない、乱暴にしてはいけないと戒めていると、チャムがそっと目を瞑る。

 もう自制など利かず、引き寄せて唇を重ねた。


(ど、どうするんだっけ? これからどうすれば良いの?)

 あの空の上の事が有ったので初めてではない。それでも自分からキスをしたのは初めてだ。そこからどうすれば良いのか分からなくなって動転する。

(えー、漫画にはどんな風に描かれてた? 小説にはどんな気持ちだって書いてあった? あれ? 僕だって人並みに興味が有った筈なのに思い出せない! これ、どうやって息するんだっけ?)

 淡白なほうだと自覚のないカイは、肝心な知識が大事な場面で浮かんでこないのに動揺する。キスをしているという事実だけが頭を掻き回している。

 そこで彼女の手がスッと伸びてきて、首の後ろに回される。密着度は上がったのに、動揺は治まっていった。

(このままで良いんだ。チャムは嫌がらずに受け入れてくれているんだから)

 そう思うと、途端に呼吸が楽になり、彼女の唇の柔らかさが感じられるようになった。


 長い長いキスが、少し湿った微かな音とともに終わりを迎える。

「やっぱりこっちのほうが良いわ。伝わってくるものが多い気がするもの」

 目を細めて、自分の唇を指で触れながら微笑む。

「僕は君が好きだよ」

「知っているわ。何度も聞いたもの。忘れたりなんかしないから」

 また肩に手が掛かり、額を合わせてくる。

「あなたの気持ちを疑ったりはしないから大丈夫よ?」

「どうすれば…、いいのかな?」

「そうね…」

 立ち止まっている自分に戸惑い、つい答えを欲しがってしまった。

「あ! 違…!」

「一番近くよ」

 額が離れ、頬が触れ合うと囁き声が耳に忍び入ってくる。

「私の心の一番近くにあなたが居るわ。それじゃダメ?」

「そんな訳ないよ!」

 思わず力強く抱き締めてしまう。


「もう…」


 少し苦しかったのか身じろぎしたチャムの、首に掛かる手に力がこもった。


   ◇      ◇      ◇


「どうした? 見つからなかったのか?」

 チャムの姿が見えなくなったと探しに行ったフィノが一人で帰ってきたので心配になって声を掛ける。しかし、彼女が伏せていた顔を上げると、熟れたクルファトトマトのように真っ赤になっていた。

「え? 何が有ったんだ?」

「にゃ、にゃんでもないですよぅ!」

 慌ててはいるようだが、特に大きな問題は無かったのだと分かったトゥリオは悪戯心を起こしてしまう。

「いや、そこはお前の場合『わん!』じゃねえのか?」

「何でそんな事言うんですぅ!? トゥリオさんなんて嫌いですぅ!」

 面白い酒の肴に周囲からはやいのやいのと声が掛かるが、彼の耳には届いていなかった。


 崩れ落ちると、膝を抱えて丸くなったのであった。


   ◇      ◇      ◇


 本当に遊び尽くしたという感じがする。

 燐珠りんじゅ作りに必要な実験や火山探索はしっかりやっていたものの、それだけでなく海水浴も釣りも思うがままにしていたし、ロルヴァ夫婦やモルセアと森に果実狩りに出かけたり、狩ってきた動物で浜辺の焼肉パーティーなども飽きるほどにした。

 要は島人のような暮らしを満喫したのである。


 現状、島全体での燐珠りんじゅ作りに移行には成功しているのだが、肝心の真珠卸し屋で今後の情勢の変化まで読めている者は、モルセアを含めて数名というところだろう。機を読めない人間は出遅れるだろうが知った事ではない。カイには、商習慣に胡坐を掻く怠惰な人間まで面倒を見る気は無いのだ。

 モルセアと情勢の変化予想を討議し、価格や出荷調整など綿密な計画書を作り上げておく。作り分けが可能となった今は、燐珠りんじゅの需要は希少性による価格設定から、好みや流行りといった需要に変化していくのは容易に想定出来る。その為の販路開拓なども準備しておくよう彼女には伝えてあり、モルセアも十分に理解しているようであった。



「本当に世話になった。恩返しも出来ていないから、行かせるのは心苦しくて仕方ないんだが?」

 桟橋まで見送りに来たロルヴァは不満気である。

「気にしないで。こんなにのんびりしちゃったのはあなた達の気配りで居心地が良過ぎた所為よ?」

「そう思うならもっと居てくだされば良いのに」

「そうですよ? 大切なのも楽しいのもこれからですよ?」

 ミーザやモルセアは甘い誘惑の言葉を投げ掛けてくる。だが、いつまでも島で暮らす訳にもいかない。暮らすには良くても、ここは情報があまりに入って来ないので不安になる。


「また来るわ。だってあなた達の子供に会いに来なくちゃいけないもの」

 ミーザのお腹には新しい命が宿っている。子育てしながらでも燐珠りんじゅ作りなら十分に出来る。

「絶対ですよ?」

「はい。元気な赤ちゃんを産んでくださいねぇ」

「ありがとう」

 別れを惜しんで握手を交わすトゥリオ達や抱き合う女性陣を横目に、熱帯の水平線を眩しげに見渡す。


 ここが、輝きの海と呼ばれるようになるまでそれほど時間は必要無いだろうとカイは思った。

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