湯の名残り

「こら、濡れちゃうからダメだよ。拭くから待ってて」

 小舟の上で留守番だったリドが、すぐに頭に駆け上ろうとするが途中で掴み取られてしまう。

「ちうぅー…」

「ごめんね。心細かったね」

 膝で待たせて水中呼吸器を外し、髪の毛を拭うと抱き上げて撫でる。

「ちゅいー」

(驕りがあったかなぁ。熱水噴出孔の専門家でもないのに、知識を得ただけで答えに辿り着いたような気分になっていたよ。恥ずかしいな)

「ちゅ?」

 カイの胸にスリスリしていたリドは、いつもと様子が違う主人を見上げて首を傾げる。

「落ち込んでるかな? うん、失敗しちゃったからね」

「ちゅるー」

 情けない笑顔を見せる主人を両前肢でポンポンと叩き、慰めようとする。

「そんないつも完璧にこなせたりはしないものよ。あなたがそんなだと近寄り辛くなるでしょ?」

「何でも出来るとは思ってないんだけど、しっかり準備しておいて失敗するとついね」

 隣に座って肩を寄せてくれるチャムに感謝の視線を送る。

「どんなに本気で用意したって、いつも思い通りにならない俺なんかどうしたらいいんだよ?」

「あんたはそうだけどね?」

「そんな風に言っちゃダメですぅ。ほら、燐珠りんじゅは採れたかもしれないんですからぁ」

 げんなりとした顔になるトゥリオをフィノは懸命にフォローする。

「そいつは大丈夫だ。ほぼ間違いないから」

「そうなの?」

「ああ、ここまで育っていれば入っているはず」

 ロルヴァの保証には何かの裏打ちが有りそうだ。


 引き揚げたカンム貝の口が開かれた。

 彼の言う通り、中からは八つの燐珠りんじゅが出てくる。残念ながら一つは涙滴型に歪んでいたが、七つは見事にほぼ真球に出来上がっている。

「これはもしかして養殖カンム貝のように仕込んだものですか?」

「そうだが? 知らなかったのか?」

「はい。全て天然だから希少価値が高いと聞いていたので」

 その理由を聞いてロルヴァは苦笑する。

「それはきっと高く売りつける為の方便だな」

「嘘だったの? 今の今まで信じ込んでいたわ。これって半分人為的に作っているのよね?」

今陽きょうは君達に付き合うから準備してこなかったが、いつもは種を食わせた母貝を作って沈めている」


 母貝を幾つか作って沈めるのだが、簾囲いすがこい養殖のように保護する事は出来ない。なので幾つも沈めても、蟹などに食われてしまう事が少なくないのだそうだ。

 一度潜って置いてこれる母貝が三~四個。生き残って燐珠りんじゅまで育ってくれる母貝が、大体数十個に一個程度なので、に複数回獲れれば良いほうなのだそうだ。

 いつもはユラルジャを搔い潜り、残り少ない時間で探し回るのが精々なのだが、今回はゆっくり海底を眺める余裕があったから発見出来たらしい。


「ほらね。全く意味が無かった訳じゃないでしょ?」

 チャムが元気付けようとしてくれる。

 今回採れた燐珠りんじゅで、彼の村は向こう一ゆとりある暮らしが出来るという。確かにそれは大きな違いであろう。

「でも、僕は島の人達にこんな博打みたいな暮らしを続けさせたくなかったんだよ」

「気持ちは有りがたく受け取っておくさ。でも、俺達はこうやってずっと暮らしてきたんだ。そんなに悪くないと思っている」

(絶望から這い上がった今はそう思えるかもしれない。でもやっぱり、治癒魔法士の世話にもなれない暮らしが正しいなんて僕には思えないな)


 願いが実現出来ない自分が口惜しくて仕方ないカイだった。


   ◇      ◇      ◇


 僅かに残照の藍色に沈む海も美しい。

 チャムはそう思いながら少し熱い湯の心地良さを堪能していた。


「お風呂を使われると宜しいですよ?」

 ミーザの言葉に二人が食い付かない訳が無い。

「お風呂が有るの!?」

「本当ですぅ!?」

 ロルヴァが持ち帰った燐珠りんじゅで村が湧きかえる中、彼らを労うように彼女が言葉を掛けてくれたのだ。それは思ってもみなかったご馳走である。

「はい、岩場にお山の湯が流れ込んでいる場所がありますので、案内しますね」

「お山の湯…。温泉ね! そんな素晴らしいものまで有るなんて、ここは本当に楽園だわ!」

 豊かではなくとも、人生を楽しむに必要な条件は十分に揃っていると思う。なぜ、ここを保養地として扱わないのか不思議に思うほどだ。

「確かにすごく暑くて、街の人が楽しむような娯楽には乏しいかもしれませんけど、とても良い所だと思いますぅ」

「褒めてもらえて嬉しいわ。昔の人達が頑張って作った物だそうだから感謝して皆で使っているの」

 ミーザの感謝の念は深く、笑顔を絶やさず彼らをもてなすのに尽力してくれている。


 過去、大きな噴火があった時に溶岩流が海にまで達した事があるのだろう。その岩場は海に流れるように続いていた。

 その岩場の一部から温泉が湧いている。そこから海へと流れ込む経路の岩の一部が削り取られていて、大きめの浴槽が形作られている。溢れた湯はそのまま岩の隙間を這うように海に流れ込んでいた。言うなればこれは天然かけ流しの温泉である。


 溶岩流の表面が冷えて固まり、内部の溶岩だけが流れて抜けた時に洞穴が出来る事がある。この温泉はその洞穴のどこかに湧いているのだろう。天然のパイプを通って海の近くまで運ばれていた。

 自然の奇跡が幾つも重なり、海を臨む眺めが最高の露天風呂が生み出されているのだった。


「あ~つい~で~すぅ~」

 ただでさえ気温は高いのだ。温泉に浸かれば汗が噴き出す。

「でも、疲れが全部抜けていくみたいな感じがしない?」

「はい~、色んなものが溶け出て行くような気がしますぅ~」

 慣れない潜水をした上に大型肉食魚との戦闘で、身体に溜まった疲れと緊張が一気に抜けているような感じなのだろう。白濁した湯に力無く身体を横たえ、フィノは顔から大粒の汗を垂らしている。

 張り付くような温泉特有の湯が、ひと皮むけてツルンとした肌を感じさせる。


(これはまたあの人を喜ばせてしまいそうね。湯上りは少し薄着で過ごしてみようかしら)

 意地の悪い事を考えながらチャムは手で掬った温泉の湯で腕や肩をマッサージする。そうして肌に磨きがかかるのは嬉しいと感じるくらいに彼女は女を満喫している。彼と出会う前の張り詰めたような感じが今は嘘のようだ。

「暗くなってきちゃいましたねぇ~」

「そうね。もう少ししたら満天の星が見られそうだわ」

「まだちょっと昼の白焔たいようの余韻が残っていますもんねぇ」

 今度は綺麗な夜空が眺められるまで浸かっていようかと考えるチャムは、何気なくうつ伏せになって黒く染まる海を眺めようとした。

「なっ!」


 しかし、そこには息を詰まらせるような光景が有ったのだった。


   ◇      ◇      ◇


 岩場が白砂に沈む辺りで、見張りを兼ねてのんびりと身体を伸ばしていたカイとトゥリオの耳に、慌てたように呼ぶ声が飛び込んできた。


「来てっ! カイ!」

 跳ね起きた彼は軽快に岩場を駆け上る。

「喜んでっ!」

「おい、待て、カイ! ズルいぜ!」

 二人が見える位置まで近付くと、身を乗り出していたフィノが慌ててお湯にしゃがみ込む様が遠くに見える。チャムは胸を手で隠しているだけだが、首を横に傾げて目を細める。

「あら、良い度胸ね? そんなに堂々と覗きに来るとは」

「いや、呼ばれたし!」

 カイは両手を振って弁解する。

「用が有るからに決まっているでしょう? どうして先に訊かないの?」

「いや、温泉で綺麗になった肌を見て欲しいのかと?」

「何言ってんのよ、このお馬鹿さんは? 違うわ。あれを御覧なさい」

 彼女が示したのは残念ながら自らの身体ではない。海のほうだ。


 そこには仄かに薄く黄色く光る海があった。

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