燐珠の海

熱帯の海

 人間は平等に生まれてくる訳ではない。


 外見、地位、資産などの様々な不平等の下に如何ともし難く選り分けられてしまうものだが、そんな人間にも必ず平等に降り掛かってくるものがある。

 例えば死がそうだ。伝説の長生族や森の民のように長い長い時を生きる者も居るのかもしれないが、大概は百数十年を生きる者は稀である。平均寿命を問えば、これより遥かに短い。


 運不運で得られる生の中でも平等に受けるものは幾つかある。

 雨? 空から降る雨粒など偉大なる魔法士であれば風の結界で防いだり、水の結界で吸収したりしてしまう。

 風? これも結界魔法で簡単に防げる。

 光? 昼の白焔たいようの光など闇の魔法を用いなくとも、深い森や洞窟に入る程度で防げるものだ。


 誰もが避け難く、防ぐ事も叶わず受けているものがある。

 それは重力。

 竜族などは飛行の魔法を使用しているが、決して重力から逃れているのではない。抵抗して浮いているだけだ。魔法で重力を無効化する事だけは出来ない。


 その、避け難く、誰にでも無情に降り掛かる重力をカイは実感していた。


「見て見て! 見てくださいよぅ! 黄緑色! 黄緑色ですよぅ! 海って青いだけじゃないんですねぇ! すごーい! 見渡す限り黄緑色ぉ!」


 たわわに実った果実が重力に抗えずぽよんぽよんたゆんたゆんと揺れ動く。本人がぴょんぴょんと跳ね飛んでいるのだから見事に上下に揺れている。

 あまつさえ彼の腕を胸に抱いてぐいぐいと引っ張るのだから、その柔らかな果実が彼を刺激する。健康な男子としては、その腕だけに神経が集中してしまうような錯覚を覚えた。


 そのたわわな二つの果実は鮮やかな黄色い布に一応は覆われている。しかし、その面積は衣服と呼ぶには少々心許ない。

 肩から下がった紐で支えられている三角形の布は、球体の下半分と上の三分の一ほどは覆っているが、それ以外の柔らかでそれでいて弾力に富んだ美しい曲線の一部を外に溢れさせていた。

 そのなだらかで芸術的な曲線が生み出す陰影は、男の目を魅了してやまない独特の艶やかさを醸し出している。まるで本能のように伸ばし掛ける手を自制するのには、大変な努力を要するほどの魅惑の領域。


 心の奥底までを浄化して、全てを和ませるような美しい海の光景も、その領域の前には無力である。

 煩悩に塗り込められた男の心は大きな葛藤に苛まれるしか無いのであった。


「それくらいにしてあげなさい、フィノ。カイがまるで茹でたみたいになっているから」

 そう窘めるチャムは腰に手を当て、苦笑いを浮かべている。

 やっとの思いで視線をフィノの胸元から切り離した黒瞳の青年は、そこに新たな罠が待ち受けていると知っていながらも、絡め取られてしまう理不尽を美の神に訴えていた。


 白を意識させながらも、血色の良いほのかな肌色に染められた視界は、そこに究極の美を見る。

 内側から大きな力が掛かっているかのようにパンと張った半球は、自然界に見られる球体の美しさの集大成のような趣がある。触れて歪められる事を拒むかの如き風情を漂わせていながら、引力のように手指を惹きつけて止まない蠱惑的な艶があった。

 もし触れようものなら、そこから引き剥がすのは絶対に不可能なのではないかという、落ちたら戻れない奈落を連想させる何かが内包されている。


「どうしたの?」

 その声にカイは、無意識に彼女の胸元に伸ばし掛けていた右手を、左手で押さえつけて下げた。

「今、一瞬大切な何かを手放しそうになってたよ」

「あら、そう? 気付かなかったわ」

 そう韜晦するチャムが、前屈みで上目遣いに覗き込むように近付いてくる。

(絶対気付いてる!)

 その魔性に、フィノが放してくれて下がり掛けた熱が再び顔に向けて快進撃を開始する。


 彼女の胸元も目に鮮やかなオレンジ色で彩られていた。

 少なめの面積で怒られるかと思った布地は、見事に白い肌と青い髪をより際立たせ、コントラストによる鮮烈な印象を演出している。優美に膨らんだオレンジに続くなだらかな白は至上の美を表すとともに、見る者を釘付けにして止まない扇情的な山裾を描き出していた。

 やや光沢のある生地はきめ細やかな肌と相まって、ある種の眩しささえも感じさせているようだ。その刺激は目を通過して、脳髄を直接痛打するほどの破壊力を持っているかのように感じた。


「いいから遊びましょ?」

 女性にしては少々筋肉質な腕で手を引かれる。


 獣人少女が先導するように駆けながらも、振り向いて確認する。そこには早く海に入りたくて期待感に瞳を輝かせた横顔が有り、白地の毛皮の背中に続く。茶色や灰色の縞の濃淡を持つブチがそこかしこに有るが、くびれに繋がる湾曲した背筋は芸術性を感じさる弓型を描き出していた。

 そのすぐ下にはふわりと長い毛の生えた尻尾が今は機嫌良さげに緩やかに打ち振られており、まるでそこに視線を惹きたいかのようだ。奪われた視線はどう足掻こうが、まろやかでありながら張りを主張する存在に行き着いてしまう。特有の丸さと独特の幅を持つそれは、男なら一目見ただけでそれが女性のものだと分かるだろう。


 そこもやはり鮮やかな黄色に包まれているが、内に秘めた魅力的な造形を隠すほどの面積は持っていない。横などは限りなく紐に近い細さしかなくとも、重量感を感じさせる球面を完全に支え、キュッと上がった柔らかな筋肉の形を崩さないよう十分に機能している。

 ただ、彼女の尻尾はその球面の中央やや上辺りに生えているので、そこには穴が開けられている。構造上、尻尾を引っ張り出さなくてはならないので、少し大きめの穴が谷間の一部を覗かせており、そこだけが淫靡さを滲み出していた。


 手を引くチャムもカイに背を向ける。

 彼女の双丘はフィノほどの重量を持たないので、背中を横切る紐も細めに作られ、白い肌を必要以上に隠さず曝している。僅かに筋肉質でも、女性の持つ皮下脂肪がまろみのある輪郭を演出する。弓なりに反った背筋は、樹の枝のしなりのような生物的な、人工物には見られない曲線を描く。

 滑らかな肌は輝くように曇りのない美しさを誇り、焔光ようこうに照らされている今は少し汗ばんでいる。表面に生じた汗の雫が少し窪んだ背筋を通り、下で待ち受けていたオレンジの布に染み込んでいく様は、何か見てはいけないものを見てしまったかのような印象を与えた。


 そのオレンジの布が包む球面は獣人少女のそれより小振りであるが、重力など感じさせないように締まった放物線を見せている。歩くごとにふるふると揺れる表面が、その柔らかさを証明しているように感じた。

 下に続く太腿の白さとしなやかさが、オレンジ色の球面とのギャップを際立たせ、目を吸い寄せて止まない。同じく紐状になった腰の横などは、全て曝け出されているようなものだ。本人が許さぬ限りは禁域である肌は、男の征服欲をいや増すように誘ってきている。

 カイは今、身の内で起こっている自分の煩悩との戦いがこれまでの人生の中で最も過酷であると心から思っていた。


(この戦いに勝利出来たなら、怖いものなんて何もない)

 彼は本気でそう思っていたが、手を伸ばして触れないまでも、チャムの腰から視線を外す事が出来ない時点で既に敗北しているとは気付いていない。

 彼女が浮かべる微笑みが、自らの勝利を確信しているに他ならないからだとも解っていない。完全に魅了していると実感しているからこそのその余裕なのだ。


 そして、チャムの頬がいつもより少し赤い理由にも気付いていなかった。

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