上空600ルステンの恋
「えっ?『空を統べる者』って名乗ったの!?」
カイは空の上での会話を仲間に話していた。
金竜が名乗った下りで、彼は「ライゼルバナクトシール」という名前のほうの扱いに気遣って口止めをしてから金竜の名を口にしたのだが、チャムはその冠言葉のほうに引っ掛かっている。
「うん、これはドラゴンを表す言葉だと理解したんだけど違った?」
彼女の表情は、明らかに失敗を表している。美しさを保ったまま、どうしてそんな表情が出来るのか、ほとんど妙技の域に達しているとカイは思うのだが。
「大外れよ。それは同色である同種のドラゴンでも、頂点に立つ者だけが名乗れるの」
「ティムルのお父様は、そんな特別なドラゴンだったのですかぁ!?」
(あれが金の王…)
フィノが驚きの声を上げているが、チャムの耳にはあまり入っていないようだ。
「当代の金の王は『ライゼルバナクトシール』というのね? 覚えておかなくちゃ…」
「えー、それさえも重要な情報なの?」
「ならよ、その金の王と懇意になったのはすげえ事なんじゃねえか?」
襟首を掴まれてガックンガックンと揺さぶられているカイは、トゥリオの余計な追い打ちにちょっとイラっとしている。
「どうしてなのよ! あなたって人は! すごい方と関わって平然として!」
「そんな事を言われてもさぁ、全部単なる偶然だってのはチャムにだって分かっているでしょ?」
「違うでしょ! そもそもあなたが飛べるのが大きな要因じゃない!」
(そこ掘り返しちゃうんだ…)
再度、パープルの視線がきつくなり始めているので止めて欲しい。そんなこの世界の、しかも裏事情に近い部分の事を問われても、知識が無い彼にはどうしようもないのである。
「許してよ、黙っていたのは悪かったと思っているから」
「……」
へそを曲げられてしまった。ふくれっ面も可愛いのだから始末に負えない。
「…したら、許してあげる」
「ん? 何?」
「空の上に連れて行ってくれたら許してあげる!」
子供っぽい希望に、少し頬を染めている辺りが非常に可愛らしいと思った。
◇ ◇ ◇
あいにく空は陰ってきている。厚く雲が垂れこめて、青空は望めない状況だ。
チャムは忌々しげに上空を睨み付けているが、これは好都合だとカイは思っている。たぶん、とびきりの眺めを彼女に味わわせてあげられそうだ。
「しっかりと掴まっていてね?」
再び
「これで良い?」
「うん、じゃあ飛ぶよ?」
ニッコリと笑うと、背中から聞こえる唸りは一段と高まりを響かせる。
今、空を埋めているのは「乱層雲」と呼ばれる雲である。
一般的な雨雲ではあるものの、まだそれほど低くまで迫って来ておらず、降り出しはしないだろうと思われた。
(高くても
浮遊感を得たカイは、見上げながらそんな風に考えていた。
「大丈夫なの?」
行く手に灰色の雲があれば、チャムは若干の不安を覚えているようだ。
「見た目ほど濃くは無いから問題無いよ。びちゃびちゃになったりしないから」
悪戯げに言ってくる彼に、また美貌がふくれる。しかし、
「それよりもすごく寒くなるから、風の結界をお願い」
「解ったわ」
カイの
雲中に入ると完全に視界を失う。こんな所を鳥は飛んだりしない。雲の中を好んで泳ぐような酔狂なドラゴンでも居ない限りは何かにぶつかる心配は無いだろう。
「抜けるよ!」
「……」
明るさが漏れて見えるようになった上を目指してカイはグンと噴かす。
すると二人はポンと音がしたかのように雲を割り開き、
◇ ◇ ◇
「う…、わあ!!」
思わず声を漏らすチャム。
眩しい光の中で二人は見る。遥か彼方まで真白な雲の海が広がるさまを。
「すごい…」
「うん、世界は綺麗だね。どれだけ地上が乱れても、世界はいつも美しい」
求めるように伸ばした手は何も掴めない。
しかし、その美しさは常にそこにある。決して変わる事無く。
戻した手には何もない。どれだけ望んでも彼女だけのものにはならない。
でも、それを与えてくれた人は目の前にいる。出来る事はある。
両手を伸ばして包み込む。大事に大事に引き寄せる。
身を起こして迎えに行く。あとは簡単。唇を寄せるだけ。
◇ ◇ ◇
両腕に彼女を抱えるカイには何も出来ない。熱に浮かされたような潤んだ瞳に射抜かれれば、彼に抵抗する術など無い。
拒む事など出来はしない。自分が彼女を求めているのだから。
すごく近くに顔がある。唇に柔らかさと、そして熱を感じた。
つい閉じた目を後悔する。感触ばかりが脳髄を滅多打ちにする。
破裂せんばかりに動悸がする。伝わるのが恥ずかしい。
溶けそうな甘さに身体を支配されそうで、彼はとても困った。
「チャム…」
離れた唇に未練はある。ホッとしたような気持ちも無きにしも非ず。そのまま飲まれれば、自分が何をするか分からない。
「あなたは夢のような人」
何かを慈しむようにカイの頬を撫でながら彼女は言う。
「私の望む全てを叶えてくれる。私が欲する全てを持っている。私が夢見る全てに手が届く」
首に手を掛けると引き寄せ、色々な角度から彼の顔を眺め回す。
「触れていないと、夜の夢のように消えてしまいそうで怖い。だから…」
「消えたりしないよ、絶対に。君が欲する限り、いつでも僕は君の傍でこの命の全てを燃やす」
「ひどい人。私があなたを要らないなんて言えると思う? そんなの…、無理」
甘やかな中に、絶妙な艶やかさを含んだ声がカイの耳朶をくすぐる。
◇ ◇ ◇
(今ならはっきりと分かる。私はこの人に恋してる)
それを意識に上らせた瞬間、胸の奥がスッと解き放たれたように感じる。
(馬鹿みたい。つまらない計算なんかしないで早く認めていれば、すぐに楽になれたっていうのに。人のこと、
自嘲の言葉ばかりが脳裏に浮かぶ。
(当然よね。誰かと深い仲になった経験がある訳じゃ無し、嘗められないように世慣れた風に見せているだけなんだから)
チャムは心の中で自分の間抜けさに肩を竦めた。
(でも、今は言葉になんて出来はしない)
熱を上げるだけではいけないのだ。
(彼に恋を囁いたりすれば、まるで自分の目的の為に、無理に引き寄せようとしているみたいに思われるかもしれない。それは絶対に嫌)
女の矜持がそれを許しはしない。
(あまり近付き過ぎるのもダメ。この人が恋愛に狂ってしまったら、私の言いなりになってしまうかも。そうすれば彼が歪んでしまう。きちんと世界が見られなくなって、これまでの時間の意味が失われてしまう)
彼女は極力冷静に自分に言い聞かせる。
(でも…)
見つめ合う瞳の熱がチャムを侵してしまう。
(今は少し酔ってみたいわ)
「これはご褒美。特別よ」
それはカイを諫める為の言葉なのか、自分への言い訳なのかは彼女にも分からない。
ただ、もう一度触れ合う唇の感触だけがお互いを確かめ、心を繋げてくれるように感じる。
上空
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