ライゼルバナクトシール
本当なら人の子に名前など教えはしない。しかし、胃の腑が引き攣るほどの笑いの発作に捉われるような事を言われれば、彼の心も動こうというものだった。
この黒髪黒瞳の青年は、彼に
あまりの格の違いを感じていれば、相手の
ところが、青年は彼の
それはつまり、総じてこの青年は彼と同格だと考えているとしか思えない。
「我は見ていたのだ。其の方が我が息子を連れ回している様を。我が息子を慈しみ、その為を思って教えを投げかける様を」
青年は見た目通りの存在ではない。
異なる界に生まれ、世界の理に触れる者。それ故に、理に置き去りにされる存在。理に愛される事は無い孤独な存在。
『理の外側に佇む者』だ。
なのに青年は終始、世界の在り様の側に立って仔竜を導こうとした。人の行いを嘆きながらも同じ人として仔竜に見せようとしていた。
その特異性を実感しながらも人で在ろうとし、その分を守って仔竜や自分に接しようとしている。
それは滑稽でありながらも愛すべき精神であると彼には思えたのだ。
だから彼は胸襟を開いて接するべきだと考え、名乗るべき相手と見做したのだった。
「人が悪…、いえ…、意地が悪いと言うべきでしょうか?」
片眉を跳ね上げた青年は面白くなさそうな風だ。どうせ演技だろうが。
「許せ。息子を拾い上げるのは容易く、いつでも出来る。だが、学ぶ機会はそう多くはない」
「解らなくもありません。ですが、あの子が心細い思いをしていたのを見過ごすのは少し引っ掛かります」
「そうか? 我にはあれがずいぶん楽しそうにしていたように見えたが? 我が
「それは勘弁してください。奥方を敵に回したくはありません」
青年の眉は完全にへの字になってしまう。
「ふむ、弱みの一つくらいは握っておかねばと思ったが、拾い物をした。さもなくば其の方が怖ろしいからな」
「何をおっしゃる?」
ライゼルバナクトシールは、よもや自分が人間相手に軽口を叩く機会が訪れるとは思ってもいなかった。
◇ ◇ ◇
「ととさま、おこってる?」
足に縋るティムルに、青髪の美貌は安心するように笑い掛ける。
「分からないけど、きっと大丈夫よ。あの人は口も上手だから」
「カイにいたいことしてないかな?」
「とりあえずはそんな風には見えないわね」
巨大な金色のドラゴンは一つ所に留まっているように見え、激しい動きも見受けられない。
「しんぱい…」
「待ってましょう」
進展しない事態に、人々の不安感は迷走を始めそうになっている。誰もがどうして良いのか分からないのだ。
困惑する人々は、その光景の中に違和感を見つけた。
噴水広場の中ほどにずっと推移を見つめている者達が居る。ドラゴンという恐怖の対象を前にして、衛士達さえ避難誘導に心を裂くゆとりもなく逃げ出すのが精一杯という状況下で、逃げようともしない者達が居る事を。
それは容易に疑いに変化していく。この事態の理由を知っているのではないかと。彼らに注目している者も少なくなかった。
「動かねえな?」
ここにも困惑を隠せない
「何とも言えないわね? 良い兆しと捉えたいところだけど」
「ですよねぇ。行き違いがあれば、こんなに静かではいられない筈ですぅ」
「彼なら大丈夫だとは思うけど」
遠話を掛けたい衝動に駆られる。しかし、状況が緊迫していた場合、呼び出し音は破綻の呼び水になってしまいそうで不用意な事が出来ない。
「やっぱりいかないとー」
「えっ! ちょっ!」
ティムルが身を離したかと思うと膨大な魔力が渦巻き、それが可視光にまで影響して陽炎のように舞い立つ。動いた空気が風を起こし、埃が舞って幼子の姿を隠した。
それらが収まった時には、そこに体高
「て、手前ぇら、ドラゴンを連れてやがったのか!?」
ブラックメダルは悲鳴混じりの大声を上げる。彼の取り巻きが、ただの悲鳴だけで転がるように逃げ去ったのに比べれば、遥かにマシな反応だと言えようか? いや、この場合は速やかに逃げ出すのが、危機管理が出来なくてはならない冒険者としては正常な反応かもしれない。
「ああ!? 何が問題だっつーんだ? 俺達は親元に返そうとここまで一緒に来たんだぜ?」
「正気かよ! 絶対に正気じゃねえだろ!?」
彼にしてみれば、何ら措置をせずにドラゴンを連れ回すのは正気の沙汰だと思えなかったらしい。隣の興行主などは既に腰を抜かして座り込んでいるのだから、そちらが普通なのだろう。
そして、正常な反応をした者は他にも多数居た。いつの間にか集まりつつあった人々が、一斉に逃げ出そうとしたのだ。
しかし、そのあまりの衝撃は彼らの足を縺れさせ、転倒する者が続出する。結果、内側に居た者も転んだ者達に躓き転ぶという状況が起こり、転倒した者達の輪が出来上がってしまった。
そして、必然的に一つの批判の声が上がる。
「こ、こんなとこに何でドラゴンが居るんだ!」
「そうだ! 子供のドラゴンでも…、まさか!」
「あれは親のドラゴンなんじゃないの!?」
「やっぱりお前らか! ディンクス・ローにドラゴンを呼んだのは!」
後は口々に好き勝手を言い始める群衆達。
「黙んなさい!!」
大音声が一喝。きりりと眉を吊り上げた麗人が手を一振りしてドラゴンの前に出る。
「騒ぐんじゃないわよ! この子が怖がるじゃない!」
「クルルル…」
吹き寄せる悪意に首を下ろした仔竜の頭に手を伸ばすと、優しくあやすように撫で始める。
その様子は、皆を唖然とさせるものであり、騒ぎを収めるに十分な影響力を持っていた。
「見りゃ解んだろう? 俺達はあの仔竜を保護してただけだぜ! そもそも、何でこんな事になったんだと思う! そこの見世物屋の親父が欲をかいてドラゴンの仔をとっ捕まえようとしたのが悪ぃんだろうが!」
人々の耳を打つ重大な事実に、さわさわとさざめきが起こり始める。
「お、おい! 騙されるな! ドラゴンを連れていたのはあいつらだぞ? 誰が悪いのかは一目瞭然…」
「バカ野郎が!!」
言い訳を始める興行主に、被せるようにトゥリオは大声を張り上げる。こういう場合は声の大きいほうの勝ちだ。
「この街の奴は誰一人としてドラゴンを見た事なんてねえだろうが!? ドラゴンは棲み処から外に出る事はねえんだよ! つまらねえ考え持った奴が仔竜を捕獲しようなんてしねえ限りはな!」
「捕獲じゃないわよ。これは立派な誘拐よ」
チャムはティムルの頭をギュッと抱き締める。
勇猛に腕を組んで立つ美丈夫に、後ろから縋る可憐な獣人。そして青髪の美貌に
逆に非難の的になったのは、当然興行主のほうである。
逃げ損ねていたブラックメダルの仲間の冒険者達も群衆に追い立てられて一ヶ所に集まり、じりじりと包囲の輪が縮まりつつある。
「もう少し待っていなさい。今、私達の仲間があの金色のドラゴンの説得に当たっているから」
チャムのひと言は、追い込まれた興行主たちへのとどめであった。
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