潜在する危機
恐怖の対象となるのは不快ではなく危険だった。
確かにティムルは今は幼く、脅威になるようには見えはしない。しかし、彼とて時が経てば大人になってしまう。その時、人間を忌避する意識を持ったままだと非常に問題がある。
ティムルが成長し、恐ろしさを感じる相手が地上を席巻していたとしたら、それは想像もしたくないような結果を生み出す可能性が高い。人では絶対に及ばない力を持った彼は、巷で噂されるその異名通りに『空を飛ぶ災厄』と化してしまうだろう。
それだけは避けねばならなかった。
「…私達が怖い?」
台詞とはうらはらに怖れを抱いたチャムが問う。
「ううん、カイとおともだちはこわくないー」
「そう? 僕も人間だよ?」
「…? ほんとう?」
何か腑に落ちない顔をする仔竜にカイは言い募る。
「本当。人間にも良い人と悪い人がいるんだ。ティムルが最初に出会ったのが運悪く悪い人間だったから、人間全部を怖がらないで欲しいな?」
「…わからないー」
四人は顔を突き合わせて相談を始める。
「変に刷り込まれちゃったかもしれませんですぅ」
「経験してもらうしか無いかもね?」
「こいつを人間の中に連れ込もうってのか? そりゃヤバい賭けにならねえか?」
「でも何もしなきゃこのままだよ?」
「そっちのほうが断然危険な気がしますぅ」
「荒療治になるかもしれないけど、手をこまねいているよりマシじゃない?」
「しゃーねーか…」
相談するのは構わないが、カイの膝の上には当事者が居るままなのはどうなのだろうか?
そろそろ空が泣き出しそうな感じなので、彼らは木立を探して騎上の人になる。
「はやいねー?」
軽快に走る紫の
「ちゅらるちるちー」
「うん、おとなしくするー」
先達として姉貴風を吹かせるリドに頷き返す様は、姉弟と呼ぶには無理な感じがするが上下関係は成り立っているらしい。
「自分で飛んだほうが速いんじゃないかしら?」
「みえるものかわらないもん」
その意見は分からなくもない。地上低く飛ぶ事など無いのだろうから、上空からの景色と違って目まぐるしく流れる光景は珍しいと感じるのだろう。
「住処まで飛んじまえば怖い人間にも合わなくて済んだんじゃねえか?」
「むりー」
「何でだ?」
「おしっこしたくなるもん」
「あ…」
竜種も食物を摂る以上、出す物を出すのは当然だ。
「降りる時に人間に出くわすのが嫌だった訳ね? でも、飛びながらしたって構わないんじゃないかしら?」
「だめ-」
小用なら別に問題無いように思える。ましてや遥か上空での話であれば、乾燥した東方でなら地上に届くまでに蒸散してしまいそうな気もする。実際に上空で降った雨が地上まで届いていない例も少なくは無いのだ。
だが、それを仔竜は一言のもとに拒否した。
「そんなはしたないことしちゃだめって、かかさまにしかられちゃうー」
「はしたない…」
「フィノ達には分らない常識や習慣がいっぱいありそうですぅ」
「これは僕達にも勉強の余地がたくさん有りそうだね?」
苦笑いを交わす彼らの先に、小さな森の姿が見えてきた。
◇ ◇ ◇
雨から逃げ出すように森に入って平地を見つけ、小部屋リングを使って雨宿り。意外と激しい降りに、木から垂れる雫に曝されながらセネル鳥のために撥水布を張っていたカイは濡れネズミになってしまった。
お風呂も出して直行を命じられたので、湯船で温まっているとティムルも突入してきた。女性陣についでに入れてもらうよう言われたらしい。
「汚れている訳無いんだけどね」
一応、彼の身体を流しながら零した。
人化した瞬間に表面の汚れは吹き散らされている筈だ。今の人間形態の皮膚はその時に再構成されているのだから、清潔そのものである。それは彼女らも薄々感じているだろうから、単に精神衛生上の話だと思う。
「あたたかいねー?」
「うん、温まるね」
湯舟は大人用の深さになっているので、ティムルが座ると沈んでしまう。カイは彼を膝上に腰掛けさせると、金髪の水気を落としてやっている。
「にんげんはおもしろいかんがえするのー」
「でも気持ち良いでしょ?」
「うん、ほかほかするー。あついやまのそばにおなじのあったー」
「へぇ、それは良いね。いつか僕も入ってみたいよ」
どこかに火山が有って、天然温泉が湧いているようだ。
「いっしょにいくー?」
「それは楽しそうだね? でも今はお父さんとお母さんのところに帰る事を考えようか?」
「うん…。ととさまもかかさまもしんぱいしてるかなー?」
「すごく心配していると思うよ。出来ればあまり怒っていない事を祈っているんだけど」
そう口にするものの、正直、儚い希望だと考える。何とか穏便に済ませる方法が無いものかと模索するが、それは彼ら竜種の文化や精神性を知らなければ難しいと思っている。
「つめたいー! おいしー!」
ティムルの身体を拭いて外に出すと、チャムがすぐに服を着せてフィノが牛乳が入ったコップを手渡した。
「あなたも早く頭を拭いて出てきなさい」
「食事の準備ももうじき終わりますぅ」
半裸のカイにも声が掛かる。ティムルと二人で、湯船でずっと鼻歌を歌ってのんびりしていた間に、色々と進んでいたらしい。
以前は六尺ふんどしのようなこの世界の下帯を普通に使用していたカイだったが、シリコンゴムを作れるようになった今はスパッツ生地のような伸縮性のある布を用いてパンツを作ってある。
この構造は女性陣にも好評で、大量に女性用パンツも作ってあった。
この世界の女性用下着は基本的に紐パンである。股間を覆う布に紐が縫い付けられているだけの代物だ。やはり伸縮素材を用いられているので、激しい運動にも幾分か対応出来るのだが、どうしても食い込みは起こって辛いものだと零しているのをたまに耳にしていた。
伸縮素材とは言え、紐にすればゴムほどの伸張力は望めない。用足しの事を考えれば、履く構造の物は実現出来なかったらしい。仕方なく横で括る構造の物が主流になっていたようだ。
だが、その常識を覆したのがシリコンゴムである。その伸張力を利用して履く脱ぐを可能にした構造は、女性陣の目を惹いたのである。
試験的に作ったボクサーパンツ型のカイのパンツ姿を見た彼女らは、同じ構造の物を彼に要求した。そこでカイは自らの失策を悟る。ブリーフにしておけば女性用も少しは色っぽい形状にも出来たものを、後からその方向に持っていくのは無理だったようで、くびれからお尻、太腿の付け根までを覆う物を製作するように命じられてしまう。
計算高いからこそ、その僅かな失策をカイは後々まで溜息と共に後悔する羽目になったのだった。
シリコンゴムの製法は、バーデン商会とクラッパス商会に渡してあるので、いずれは下履きにも変革は起こっていくだろうと思う。
そんな経緯が有るので、彼女らはカイの半裸にもほとんど反応しない。
まあ、これだけ付き合いが長くなると半ば家族のようになってしまい、肌を曝すのにも多少は遠慮が無くなってくるのは仕方ないかと思う。慎みを感じられないほどではないので、役得と思って失敗も飲み込むしか無いだろう。
「おにくおいしー! やわらかいー!」
その夜は、撥水布の下で火を使っての晩餐となった。
セネル鳥も一緒となってワイワイと賑やかな食事にティムルははしゃいで上々なご機嫌だ。こういった思い出を重ねて行けば、彼の人間に対する心象も変わっていく筈だと彼らは思う。
その晩からカイは、リドだけでなくもう一人分の重みも感じながら眠る事になるのだった。
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